洗顔
三題噺もどき―ななひゃくはちじゅうきゅう。
※チーズケーキは吸血鬼さんの好物のひとつです※
蛇口をひねり、水を出す。
勢いよく飛び出す水は、白い陶器の中で跳ねて、小さく水しぶきを上げる。
人一人分には丁度いい広さの、さして広くはない洗面台の前に立っていた。
「……」
ばしゃばしゃと跳ねる水は、まだ冷たい。
ここはお湯が出るまでに少々時間が掛かる。
夏場は何も問題がないが、冬場は寒くて仕方がない。
「……」
ここには暖房なんてものはないから、ひたすらに冷えた空気が広がるだけなのだ。
寝起きで、多少体温は上がっているかもしれないが、すぐに末端から冷えていく。
指先は水温の確認をするために、一気に冷えた。氷でもつかんでいる気分だ。
「……」
徐々にぬるくなっていく水に、指先で触れながら、ぼうっと鏡を眺める。
何も映っていないのは当たり前なのだけど……いや、洗濯機は映っているのだ。私の後ろにあるはずだけど。
「……」
見慣れた光景ではある。生まれたころから―ではないが、あの頃は鏡なんてそもそもなかったからな。映らないものは必要がないだろう。
なら、何も映らない鏡がなぜあるのかと言えば、まぁ、ここは人間が住むことが想定された家であって、彼らは当然のように鏡に映るからだ。そして、身支度を整えたり、装飾をしたりするのだから。
「……」
そう考えると、身支度に困ることはないのが不思議だな。
たいして気にしたこともなかったが……まぁ、身支度と言ってもそうそうこだわりもなければ、見える範囲の事が鏡を見なくてもできるから困ることはないな。
顔は……まぁ、見れたらいいとは思わなくもないが。何かあれば、家の従者に突っ込まれるだけだからな、何も問題はない。
「……」
いつもは、先にリビングに行って、その従者に声を掛けてからここに来るのだけど。
今日は、なんとなく……その顔に何かの痕が残っているような気がして、真っ先にここに来た。顔を洗うために。その、痕を消すために。
「……」
もう既に暖かくなった水によって、少し温められた指先で、軽く頬を撫でる。
触れたところで、なにか分かるわけでもないのだけど……なんとなく、涙の痕があるような気がしてならない。
「……」
つい先ほど、はたと目覚めて、なにかが伝う感覚があって。
時計を見れば、いつもより遅い時間で、もう少し寝ていれば起こしに来るだろうと言う時間で、見られても困ることはないのだけど。
「……」
ヘンな夢を見たせいだろうが……さすがにその痕を見られるのはな。
いらぬ心配をさせるだけだから、寝室からそのまま洗面台に来たのだ。アイツが呼びに来る前に。
まぁ、いつもと違うことをしているから、何かがあるのだろうと察しはついてしまうかもしれないが。
「……」
洗濯機が映っている鏡を。
私の顔なんてものは映っていない鏡を。
ぼうっと眺めている。
指先は頬に触れたまま、徐々に冷えていく。
「……」
まだ、思考ははっきりしていないのだろうか。なんだかやけにぼうっとしてしまう。
さっさと顔を洗って、いつも通り、おはようと言いに行きたいのに。
「……」
水はバシャバシャと跳ねている。
この水音は聞こえているだろうから、さっさとしなければ、出しっぱなしにするなと文句を言いに来るかもしれない。
「……「ご主人」――!!」
思わず体が跳ね、反射で顔を下げてしまった。
顔を見られまいとしていたのと、さっさと洗おうとしたので。
―思いきり、蛇口の頭に額をぶつけた。
「――っ!!」
だいぶ鈍い音が響いた。
痛みには強いが、こういう突発的かつ部分的な痛みは耐えようもない。
しかし顔はあげずに、反射的に手のひらで額を抑えていた。
その頃には、だいぶ痛みは引いているのだが、頭が揺れるような感覚だけはまだ残っている。
「……なにしてるんですか」
そういいながら、蛇口をひねり、出しっぱなしになっていた水をとめられてしまった。
まだ顔洗っていないのに。
「……顔」
「……とりあえず見せてください」
有無を言わせない強さで、強制的に顔を向けられた。
もうこうなると抵抗しても無駄なので、大人しくしている。
……一応、主人なのだけどね。
「……腫れてはないんですね」
「……??」
言い方がおかしいような気がしたが、まぁ、気のせいだろう。
「早く顔洗ってください。もう朝食できてますよ」
「あぁ、うん」
そう言い残し、先にリビングへと戻っていく。
何かあっても何も言わないだろうけど……腫れを惜しそうにしていたのは気のせいか?
「……」
まぁ、いいか。
ぶつけた衝撃で、完全に目がさめた。
さっさと顔を洗って、朝食を頂くとしよう。
「チーズケーキ?」
「……昨日のあまりです」
「余ってたか……?」
「余らせたんですよ」
「……??」
お題:時計・涙・チーズケーキ




