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遠い彼女

作者: 増瀬 司

 小学生の三年生の頃、近所に住んでいた中学生の女の子と、よくTVゲームをして遊んでいた。


 近所に、その女の子が住んでいたことは知っていたのだけれど、特に話を交わすことはなかった。


 それが、ひょんなことから、よく遊ぶようになったのだった。


 彼女の二階建ての家の背後には、深い笹藪があって、その庭には、使っていない古い井戸があった。


 学校が終わると、よくその家に出かけて、彼女と一緒にゲームをした。


 僕の両親は「ウチは貧乏だから」と、ゲーム機もゲーム・ソフトも買い与えてはくれなかったので、彼女の家のそれらが物珍しくて仕方がなかった。


 彼女の両親は共働きだったが、土日には彼女の母親が家にいて、居間でゲームをする僕らに、よくお菓子やジュースを持ってきてくれたりした。


 彼女の家にいくと、大抵は彼女がいた。彼女は部活動をしていなかったのだ。


 小学生の僕なんかの相手をしてくれていたのだから、もしかしたら彼女には友達がいなかったのかもしれない。


 彼女と僕は5つも歳が離れていたのだけれど、彼女は年上風を吹かすこともなかった。至って自然に、そして対等に僕に接してくれていた。


 気を遣っているという風でもなかった。彼女はそういう性格なのだ。


 彼女は、「諦観している」と云えたかもしれない。何かを手に入れることを諦めてしまったかのようにも見えた。


 ある意味では、天使に近い人なのだろう。人間というよりも、そちらに近い人なのだろう。


 ゲームをしているあいだ、それほど会話を交わすということもなかった。


 彼女が持ってきてくれた、オレンジ・ジュースを飲み、ドーナツを食べながら、僕らは無機質なコントローラーの音を、静かな居間のなかに響かせていた。


 パズルゲームや格闘ゲームで対戦することもあったし、一人用のゲームを僕がプレイするのを、彼女が後ろから見守っていることもあった。


 対戦は、8対2、あるいは7対3の割合で僕がほとんど勝利していたのだけど、今から思えば彼女は手加減してくれていたのだろう。相手は五つも年下の小学生だったのだから。


 一人用のゲームで、僕が行き詰まると、後ろから助言を与えてくれた。

 

 何から何まで、手を貸すというわけではなかった。本当に相手が困ったときに、そっとヒントを与えてくれるという人なのだ。


 何から何までやってしまったら相手が成長しないということなのかもしれないけれど、多分そこまで考えての行為ではなかったのかもしれない。彼女は素でそれができてしまう人だったんだろう。


 彼女に友達がいなかった理由も、彼女が帰宅部だったそれもわかる気がする。彼女は同年代の人たちと、誰とも波長が合わなかったのだろう(それでも処世術として、ちゃんと愛想は良くしていたのだろう。人間関係に波風を立てないように……)


 おかっぱ頭で、透明感のある白い肌をしていた。どちらかと云えば、肉つきの良いほうだった(かといって、肥っているというわけでもなかった)。


 彼女には、どこか独特な、人を落ち着かせる雰囲気があった。彼女の傍にいると、時間の流れが緩やかになったような気がした。そして、寒い日に、柔らかく暖かい毛布にくるまったような思いがした。


 僕は、彼女と一緒にいることが嬉しかったのだ。


 僕はゲームをすることが目的というよりも、彼女の傍にいることが目的だったのだろう。もしかすると、ゲームをするというのは、彼女の傍にいるための口実だったのかもしれない。


 一度だけ、近くの海辺へ、彼女と出かけたことがあった。


 どちらが言い出したのかは思い出せないけど、いずれにしてもそれは気紛れだったのだろう。その頃の僕らは、かなりのインドア派だったからだ。


 その海辺の近くに、水族館があったので、彼女と僕は当たり前のようにそこへと入った。小学生は無料で、中学生は500円の入場料だった。


 「ねぇ、なっちゃん」と僕は彼女に云った。


 彼女の名前は「夏美」といった。彼女が夏に生まれたからだろう。彼女の誕生日は8月だった。


 隣にいた彼女は、僕のほうへと顔を向けた。


 平日の午後の水族館には、僕ら以外に誰もいなかった。


 名もわからない、小さく、色とりどりの魚たちが、沢山の水槽のなかを泳いでいた。


 「この前、変な夢を見たんだ」と僕は云った。


 「夢?」と彼女が訊いた。


 「僕はどこかの駅にいるんだけど」と僕は続けた。「なっちゃんが電車で、どこか遠くに行ってしまうんだ。そのあとで、僕は知らない町を歩いてなっちゃんのことを探すんだ……」


 彼女は黙って僕のことを見ていた。


 「起きたら、とても哀しかった」と僕はうつむいた。


 いったい何を僕は彼女に云いたかったのだろうか。ただ単に、その夢を見て哀しかったということを、彼女に伝えたかっただけなのかもしれない。


 彼女は、淡く微笑み、僕の髪にそっと掌を置いた。


 そして、僕の頭をやさしく撫でた。


 だけど、何も彼女は云わなかった。


 わたしはどこにも行かないよ、と答えてくれなかったのは、「その未来」が、彼女の目には見えていたからなのかもしれない。


 そして、その夢の通りに、現実は動いていくのだった。


 つまり、その夢は正夢となったのだ――


 ♪


 彼女が中学3年生になり、僕は小学4年生になった。


 その頃から、なっちゃん――彼女とは疎遠になっていった。


 彼女が僕に会わなくなったわけではなかく、僕が彼女に会わなくなったのだ。


 僕の母親が、僕を咎めたのだ。「なっちゃんは今年は受験なんだから、彼女の邪魔をしてはいけない」と――


 そういうわけで、僕は彼女の家に出かけることはなくなった。


 そのかわり、学校の友人たちとよく遊ぶようになった。彼らの家に出かけたり、あるいは彼らと公園や海辺で遊ぶようになった。


 不思議と、彼女とは外ですれ違うこともなくなった。お互いの波長が合わなくなっていたのかもしれない。


 ただ一度だけ、僕が中学生になった頃、地元の駅で彼女らしき人と会ったことがある。僕は部活の遠征へと出かけるところだった。


 彼女は向かいのプラットホームのベンチで本を読んでいた。


 グレーのブレザーと膝丈のスカートという姿で、その横には鞄が置いてあった。 


 肩までの真っ直ぐな髪をしていた。


 丸みを帯びていた彼女の身体は、シャープな印象になっていた。とはいっても、不健康に痩せているという風でもない。


 少女から大人の女性に、彼女は変わっていた。ありていに云えば、とても綺麗になっていたのだ。


 こちらの視線に気がついたのか、単にタイミングがあっただけなのか、彼女が顔を上げた。


 僕と視線が合った。


 形の良い、黒目がちなアーモンドの目。


 細面に、スッと通った鼻筋、それから薄い唇――


 彼女が、その目を大きく見開いた。


 だけど僕は目を逸らして、彼女に気づかない振りをした。


 気まずかったのだ。今までの空白のせいでもあり、自分が思春期に入ったからでもあった。


 それから、以前の彼女と、今の彼女とのギャップに戸惑ったというのもあった。


 昔のように、手放しで接することは、もうできないんだな……と思った。


 それは、僕が弱い人間だからで、今も昔も甲斐性がないのだ。


 やがて、向かいのホームに電車が入ってきた。


 その電車が発進すると、彼女の姿はホームから消え去っていた。


 ♪


 やがて、なっちゃんは京都の大学へ進学したと、ウチの母親から聞いた。


 そのときには、僕はなっちゃんのことを考えることはほとんどなくなっていた。その頃の僕は、同じクラスの女子に淡い恋心を抱いていたし、あまりにも部活動がしんどくて、余計なことを考えている暇もなかったのだ。


 その後も、彼女と会うことはなく、日々は過ぎ去っていった。僕は地元の高校へと進学した。


 中学三年間の部活動に凝りて、高校では一貫して帰宅部を通した。おかげで、高校の三年間は、平穏無事に過ごすことができた。


 親元から離れたかったという理由で、大学は東京のそれを選んだ。名もない大学だったが、別にそれで充分だった。


 その大学を受験し、見事合格し、それから荷物をまとめて、上京した。


 ♪


 大学は二年でやめてしまった。


 何か虚しくなってしまったのだ。こんな場所にいるよりも、とっとと働きに出てしまったほうがいいと思った。


 大学進学は、親元から脱出するための口実のようなものだったので、それでも構わなかった。


 それで、印刷会社の事務員を始めたのだけど、こちらは一年でやめてしまった。このご時世に残業につぐ残業だったからだ。このままでは死んでしまうと思った。


 それからは、バイトを転々とする日々を送るようになった。こちらの生き方のほうが、自分には性にあっていた。


 住む場所には困らなかった。友人の家に居候していたからだ。 


 家賃はなく、毎月の、自分の光熱費を渡すだけでよかった。


 彼も僕と同じで、フリーターだった。


 郊外にある三階建ての広い家で、一階には彼の祖父母が、二階には彼が住んでいた。三階が余っていたので、そこが僕に割り当てられた。


 彼の母親はすでに亡くなっており、彼の父親は彼が中学生の頃に愛人を作って蒸発してしまっていた。今の彼にとって父親は、家のローンを振り込んでくれる存在でしかないようだった。


 朝起きて、バイトにでかけ、そして夜に、友人の家へと戻る。それから、一人で食事を取るときもあれば、友人と二人で取るときもある (一階の、彼の祖父母は、僕らに一切干渉してこなかったし、僕らのほうも彼彼女に干渉をしなかった) 。


 たまに、小さな庭で彼とバーベキューをした。一月だろうと、思いついたら決行した。


 特に理由もなく、庭にテントを張って、彼の犬が物欲しそうに尻尾を振るので、焼いた肉を彼にあげた。




 ふと、バイト帰りなどに立ち止まり、暮れゆく、群青と橙色の空を眺めて、漠然とした不安にとらわれることがあった。


 いったい自分は、この先どうなるのだろうか。


 ある種の流れに乗っているようにも感じられたけれど、それはいったい僕をどこへと運んでいくのだろうか。


 どこへ、僕は行き着くのだろうか?


 果たして、そこは天国なのか、地獄なのか。あるいは、これまでと同じようなニュートラルな世界なのだろうか……


 わからなかった。


 だけど、いつまでもこんな生活が続くわけではないのだろう。ぬるま湯のような、こんな日々が……。


 それだけは、確かなのだろう。


 ♪


 いつからか、また彼女のことが、脳裏に過るようになった。


 なっちゃんのことだった。


 眠れぬ夜に、よく彼女のことを考えるようになった。


 彼女の自宅で、彼女とゲームをしていた日々や、一度だけ彼女と近くの水族館へ出かけた日のことを。


 そのときに、彼女が僕の髪をそっと撫でてくれたときの感触を。


 向かいのプラットホームで、綺麗になった彼女を目にした日のことを――


 ようするに、僕は彼女にまた会いたくなっていたのだ。


 たまに、Facebookなどで、彼女を探そうとしたけれど、彼女のことを見つけ出すことはできなかった。


 こう云ってはなんだけれど、決して珍しい名前ではなかったし、結婚して名字が変わっている可能性もあった。


 それに彼女はSNSをするようなタイプには見えなかった。どちらかといえば、その手のものを敬遠する人にも思えた。あるいは、人から注目されることが苦手であるように。なんだかそちらの可能性のほうが高いように感じられた。


 日増しに、彼女の存在が、僕のなかで大きくなっていった。


 今さらどうしようもないだろう……と思ってはみたものの、彼女への想いが消え去ることはなかった。


 ♪


 観念して、僕は彼女に一度会うことに決めた。


 おそらく、彼女は結婚しているのだろう。そんな気がしたのだ。


 あんなに美人で、性格もいいのだから、世の中の男が放っておくとはとても思えなかった。


 それで、彼女が夫といる姿を見れば、あるいはその人との間の子を目にすれば、諦めがつくだろうと考えたのだ。(僕は好きな人に男がいる場合、その人を奪おうとするよりも、身を引いてしまうタイプなのだった。優しさというよりも、きっと臆病なだけなのだ)


 バイト先の店長に五日ほど休むと伝えて (僕一人がいなくても、職場も地球もしっかりと回るのだ) 、実家に連絡を入れて、リュックサックを背負って、東京駅へと電車で向かった。


 ♪


 新幹線からローカル線に乗り換えて、故郷の町へと辿り着いたのは、昼過ぎだった。


 実家にたどり着き、今の今まで顔を出さなかったことを母親に咎められたあとで、僕はなっちゃんのことを彼女に訊いた。


 「なっちゃん?」と母親は答えた。「知らないわよ」


 「だって、なっちゃんのお母さんと話をすることもあるだろう?」と僕は訊ねた。


 「浜辺さん、引っ越したのよ」と母親は答えた。「悪いけど、それほど親しくしていたわけじゃないから、どこに越したかまではわからないわよ」


 翌日、なっちゃんの家まで行くと、そこは更地へと変わっていて、例の井戸も埋められていた。


 その家の背後にあった笹藪だけが、以前のまま残されていて、風に吹かれて、微かにざわめいていた。


 刑事のように、近所の人たちに聞き込みをすれば、彼女ら一家の行き先もわかったかもしれないけれど、そこまでする気にはなれなかった。


 近くの海辺へとでかけた。


 日射しと、潮風が心地良かった。


 海原は太陽の光を受けてキラキラと光っていた。遠くのほうに、貨物船が小さく見えた。


 海辺のそばの水族館へと出かけた。


 彼女との思い出に触れるためだった。彼女の家が失われた今、もうその場所しか、彼女とのそれに触れられる場所がなかったのだ。


 あの日、彼女と一緒に眺めた水槽の前に、僕は立っていた。


 そして、彼女が僕の髪にやさしく触れた時と、今の時とを重ねた。


 そのときの感覚と感情とを、僕は昨日のことのように、ありありと思い出すことができた。


 もう会えないのか、と思った。


 僕たちのあいだには、確かな「縁」があったはずなのに。


 その「縁」は、決して断ち切られてはならないものだった筈なのに――


 ♪


 その夜、彼女の夢を見た。


 なっちゃんの家で、彼女と僕はTVゲームをしていた。


 なっちゃんは中学生で、僕は小学生の姿だった。


 カチャカチャと、無機質なコントローラの音が、静かな居間のなかに響いていた。


 そこには、僕ら以外には誰もいない。


 「このまえ話した夢のことだけど……」僕はパズルゲームに集中しながら云った。


 「うん」と彼女も、TV画面に目を向けたままで応じた。


 「なっちゃんはどこにも行かないよね?」と僕は彼女に訊ねた。


 「うん」と彼女は答えた。そこには、どこか優しい響きがあった。「どこにも行かないよ」


 なっちゃんは嘘つきだね、と僕は云った。


 僕はゲームの画面を止めて、コントローラーを手元に置いた。


 彼女はこちらを見ていた。


 僕はTVのほうを向いていたので、彼女がどんな表情をしているのかはわからない。


 だけど、そこはかとなく哀しげな雰囲気が伝わってくる。


 そのとき、彼女の心が、僕の心に触れたのだろう――


 彼女が、淡く微笑んだように見えた。


 そして彼女は、僕の手に、自分の手をやさしく重ねてきた。


 気がつくと、僕は小学生ではなく、大人になっていて、彼女も中学生ではなく、やはり大人へと変わっていた。


 僕の背丈は、彼女より高くなっていた。


 なっちゃんの姿は、茶色の、肩までの真っ直ぐな髪に、シャープな細い身体になっていた。


 その姿は、あの日、向かいのプラットホームで見かけた彼女の、延長線上にあるように思えた。


 彼女のことを、僕は強く抱きしめていた。


 驚いた彼女は、初め身体を強張らせていたものの、やがて諦めたかのようにフッと力を抜き、それから僕の身体に身を預けるようにした。




 そこで、目が覚めた。


 僕は、実家の自室のフトンの上にいた。


 夢から覚めたあとも、彼女の雰囲気が辺りに漂っているように思えた。


 懐かしくて、そしてやさしいそれだった。


 僕の両手には、まだ彼女の身体の、柔らかく、暖かい感触が残っていた。


 ♪


 数週間後、気紛れで鎌倉にあるお寺に出かけようと、駅のホームで電車を待っていたとき、向かいのホームに、どこか見覚えのある姿が見えた。


 彼女は片手のスマートフォンに目を落としていた。


 ややあって、そのホームに電車が滑り込んできて、彼女と僕とのあいだを遮った。


 僕は、向かいのホームへと架かる連絡通路へと走った。


 連絡通路を駆け抜け、階段を駆け下り、向かいのプラットホームに辿り着いたときには、電車はドアを閉めて発進するところだった。


 僕は、両膝に両手を置いて、身を屈めて、ゼェゼェと息を切らしていた。日頃の運動不足が祟ったのだ。


 顔を上げると、まばらな人たちのなかで、女性が一人、こちらをジッと見ていた。


 茶色の、肩までの真っ直ぐな髪、それからシャープな体型――


 彼女は、真っ白なブラウスに、空色の長いフレア・スカートという姿だった。


 彼女は、黒目がちなアーモンドの目でこちらを見ていた。


 彼女は、僕だと気がついたのだろう、それから淡く微笑んだ。


 ♪


 その後、彼女とその駅から出て、近くの喫茶店で話をした。


 彼女は大学を卒業したあとで、京都にある企業に務めていたのだが、東京にある本部に転勤することになったらしい。


 彼女は結婚していたが、その相手とは別れたらしい。ちょうど、転勤のタイミングと重なったのだそうだ。話の様子から、彼女にはまだ子供がいないようだった。


 「このあいだ、しんちゃんの夢を見たよ」


 テーブルの向こうで、彼女が云った。


 ちなみに「しんちゃん」とは僕のことだ。僕の名前が「慎司」だからである。


 「夢?」と僕は紅茶に口をつける。


 「昔、わたしの家でよくゲームをしたでしょう?」と彼女が続けた。「その頃の夢だった」


 「その夢で、僕はコントローラを投げ出さなかった?」と僕は訊ねた。


 彼女は、コーヒーを口元へ持っていこうとする手の動きを止めた。


 「僕は、なっちゃんに『嘘つき』だと云わなかった?」


 彼女は、うつむき加減で、少しだけ静止していた。


 口をつけないまま、彼女はコーヒー・カップを受け皿へと戻した。


 それから、僕のことを上目遣いで見た。どこか神妙な面持ちだった。


 長い睫毛が、微かに震えているように見えた。


 その瞳は、年下の幼なじみに向けるそれではなくなっていた。


 ああ、そうなのか……と僕は思った。なんだか妙に納得してしまった。


 何かがストンと腹に落ちたような気がした。


 そちらのほうが、むしろスッと筋が通るようにも思えた。


 きっと、彼女も僕と同じだったのだ。


 僕が彼女に向ける想いと、彼女が僕に向ける想いとは、同じものだったのだ。

 

 穿った見方をする必要なんて、何一つなかったのだ――


 ♪


 その日は、彼女と連絡先を交換しただけで別れた。


 また近いうちに会おうということになった。


 いつまでも、こんな生活を送っているわけにはいかないな……と僕は家路を辿りながら思った。いつまでも、こんな根無し草のような生き方をしているわけには――


 目の前には、燃えるような夕焼けが広がっていて、人々や物の影を、どこまでも長く延ばしていた。


 そういえば以前、バイト先の店長が、正社員の試験を受けてみたらどうか?と僕に勧めたことがあった。

 

 僕はわりと真面目に働くし、文句一つ云わないので、店長からわりと気に入られていたのだった。たぶん、彼は僕を、自分の右腕にしたいのではないだろうか――


 とりあえず、それを受けてみようかと思った。


 まず僕は、彼女にふさわしい人にならなくてはならないのだ。きっと、話はそれからなのだ。

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