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制度の哲学──保障と自由の再定義

※制度に何を求めるのか──支え合いから自律へ


 制度とは、人が人と共に生きるための枠組みであり、それは常に「何を守り、何を委ね、何を自由にするか」という価値判断に基づいて設計される。日本の年金制度は長らく、「支え合い」と「安心」を提供することを目的としてきた。しかし、社会の構造が変化し、その価値基盤が揺らぐ中で、制度が果たすべき役割もまた問い直されるべき時を迎えている。


 かつては「みんなで支え合うこと」に説得力があった。若者が多く、高齢者が少ない時代には、賦課方式は効率的かつ公平に見えた。しかし今や、その構図は逆転し、「支え合い」は「犠牲の強制」に近づきつつある。


 その中で求められるのは、「強制による一体感」ではなく、「自律と相互理解に基づいた制度」への移行である。すなわち、国が一律に負担を課すのではなく、個人が自らの将来を設計し、その責任のもとに制度を選び取るという構造である。


 この発想は、「冷たい」「自己責任論」だと非難されるかもしれない。しかし真に成熟した社会とは、「自由な選択を可能にしつつ、その結果に社会が共に備える」構造を持つ社会である。自由を与えずに平等を唱えるのは偽善であり、強制による安心は長続きしない。


 年金銀行と任意加入制度の提案は、この“制度哲学”の転換を象徴するものである。守るべきは、高齢者の権利でも若者の負担軽減でもない。本当に守るべきは、「社会全体の持続可能性」と「自由と責任の均衡」である。




※自由と保障のバランス──制度設計の倫理的視座


 制度とは、個人の自由と社会の連帯とをどのように調和させるかという、永遠の問いに対する暫定的な答えである。


 完全な自由は無責任を生み、完全な保障は依存を生む。だからこそ、制度設計には常に「自由をどこまで許し、保障をどこまで担保するか」という絶妙なバランス感覚が求められる。


 現行の年金制度は、「全員を守る」という美名のもとに、実質的には「若年層の自由を犠牲にして、高齢層の保障を最大化する」構造になっている。これは一見すると優しさだが、制度全体としては“未来を犠牲にして現在を守る”という倒錯した倫理観に支えられている。


 これに対して、任意加入制度と年金銀行モデルは、「未来を自ら選ぶ自由」を基盤としつつ、「社会全体が崩壊しない最小限のセーフティネット」は国家が担うという、自由と保障の両立を図る設計である。


 制度設計の倫理において重要なのは、「選ばない自由」も認めつつ、その選択の結果に責任を持てる社会構造を整えることだ。そこには、“自由を奪って守る”のではなく、“自由に基づいて守る”という方向性がある。


 この視座に立てば、年金制度もまた、ただの金銭の再分配装置ではなく、「価値観の再設計装置」としての機能を持ちうる。つまり、人々が「どのような人生を送りたいか」という問いに制度が応答するためには、画一的な正解ではなく、多様な選択肢が存在し、それぞれに意味と帰結があることが必要である。


 制度は命令ではなく、共通の約束であり、契約であるべきだ。そのために必要なのは、「信じて従わせる」仕組みではなく、「理解して選ばせる」仕組みなのである。



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