構造改革とは何か
※部分修正では崩壊を止められない
制度の不具合に対して、政治家や行政がまず行うのは「小手先の修正」である。年金制度でいえば、支給開始年齢の引き上げ、納付期間の延長、支給額の調整、さらにはポイント制度の導入などがそれにあたる。こうした手段は一時的には制度の寿命を延ばすかもしれないが、根本的な問題解決にはならない。
なぜなら、それらの措置は「制度の土台そのもの」がもはや現実に合っていないという事実を無視しているからだ。
繰り返すが、日本の年金制度は「賦課方式」という仕組みを採っている。これは、「現役世代が納めた保険料で、その時点の高齢者を支える」という構造であり、成立の前提条件は「高齢者より若者が多いこと」である。
しかし現実はどうか。少子高齢化が進み、現役世代は減少し続けている。高齢者の数が増え続ける中、この制度の維持はもはや“人口の論理”として不可能である。
それにも関わらず、政府は制度の根本構造を見直すのではなく、制度の“表面”を何とか誤魔化そうとしてきた。その理由は明白である。改革には大きなコストと政治的リスクが伴うからだ。票田である高齢者に反発されることを恐れ、抜本的な改革は先送りされ続けてきた。
しかし、これは制度の「延命」ではなく「死に至る猶予」に過ぎない。制度の“骨格”に手を入れない限り、どれだけ表層を塗り直しても、本質的な問題は変わらない。
構造改革とは何か──それは、制度の根幹そのものを問い直し、時代に即した“設計図”を書き直す作業である。単なる改善案ではない。制度の「前提」から再考しなければならない。
※構造改革が忌避される理由──心理・政治・文化の壁
構造改革の必要性は論理的には明白である。制度の根幹が現代社会に適応していないのであれば、設計図そのものを書き換えるしかない。しかし、それでもなお「構造改革」という言葉が政治の場や世論で忌避されるのはなぜか。
その理由は、大きく分けて三つある。心理的抵抗、政治的リスク、そして文化的惰性である。
第一に、人間は「現状維持バイアス」を強く持つ。現状が不完全であると分かっていても、「今のままのほうが安心だ」「変えるともっと悪くなるかもしれない」という不安から、根本的な変化を本能的に避けようとする。特に年金のような生活に直結する制度では、その傾向が顕著になる。
第二に、政治家にとって構造改革は「票を失うリスク」が極めて高い。制度改革によって一時的にでも損をする人が出れば、その人たちは強烈な反発を示す。一方で、改革の恩恵を受ける人は未来の若者など「政治的に無力な存在」であることが多い。つまり、損をする人の声は大きく、得をする人の声は小さい。この非対称性が、構造改革を政治的に“割に合わない行為”にしてしまう。
第三に、日本社会特有の「空気の文化」が、構造改革への議論を封じ込める。「変化を口にする者は浮く」「反対されるのが怖い」「波風を立てたくない」といった集団同調圧力が働き、根本的な問い直しが公に出てこなくなる。
この三つの壁は、単独でも強力だが、重なるときには制度改革の議論自体を封じるほどの力を持つ。実際、これまでの年金制度改革は、いずれも“改革”というより“修正”であり、根本的な前提を問う議論は避けられてきた。
※制度は設計である──前提を問い、未来を設計する目
私たちは制度を「自然のもの」「与えられたもの」と錯覚しがちだ。しかし、年金制度を含むすべての社会制度は、人間が設計した“仕組み”である。つまり、制度は人間の意思によって設計され、変更され、時代に応じて再設計されるべき“道具”である。
制度を“空気”のようにとらえる思考は、変化への発想を奪う。「この制度はこういうものだから仕方がない」「昔からこうだったから変えられない」といった思考停止が、制度疲労の進行を助長している。
本来、制度とは「社会の未来像を実現するための設計図」であるべきだ。つまり、「どういう社会を目指すか」→「そのためにはどのような制度設計が適切か」という順序で考える必要がある。
今、日本社会が必要としているのはまさにこの“逆転の視点”だ。制度があるから従うのではなく、「理想とする社会像に合った制度を設計する」という発想である。
たとえば、現行の年金制度は「世代間で支え合うことが美徳」という思想に基づいて設計されている。しかし、この設計思想は、高度経済成長と人口増加を前提にしていた時代の遺物だ。現代ではその前提条件は失われているにもかかわらず、制度設計の根幹は変わっていない。
したがって、必要なのは「支え合いの思想そのものを否定すること」ではなく、「それをどう実現するかという構造を再設計すること」だ。たとえば、自助と共助、そして国家による公助の役割分担を見直し、持続可能性のある構造へと組み直すべきである。
制度は社会の“意志”である。意志なき制度に従うということは、社会が思考を放棄していることに等しい。私たちには、未来を設計する責任がある。