現行制度の問題
※見えているのに、見ないふりをする社会
私たちの社会は今、静かに、しかし確実に崩壊へと向かっている。表面的には制度が機能しているように見えるかもしれない。年金は支給され、ニュースでは「老後2000万円問題」などが繰り返される。だがその裏で、多くの若者がこう思っている──「自分たちは年金をもらえないだろう」と。
これは一種の“集団的な諦観”だ。制度の破綻を知っていながら、誰も声を上げない。政治家は票になる高齢者層を恐れ、明確な改革を口にできない。メディアもまた、制度の根本に踏み込まず、対症療法的な話題ばかりを取り上げる。
年金制度は、賦課方式という仕組みによって成り立っている。これは、現役世代が支払った保険料を、今の高齢者に支給するという構造だ。一見すると、世代間で支え合う美しい構図に見える。だが、人口ピラミッドが「逆三角形」と化した今、この構図は成り立たない。
少子高齢化は予測可能だった現象である。つまり、「現状の制度が維持不能になること」もまた、早い段階から分かっていた。にもかかわらず、大規模な制度改革は行われてこなかった。なぜか。それは、既得権を持つ高齢者層が“数の力”を持ち、選挙において強い影響力を保持しているからだ。
その結果、日本は制度を見直すことなく、“現状維持の継続”という名の破綻への道を進んでいる。年金を信じて払ってきた世代には申し訳ないが、若者はもはや制度を信じていない。その事実が、社会の根幹を静かに揺るがしている。
問題の本質は、破綻が“起こる”ことではない。破綻が“予測されているのに誰も止めようとしない”という構造的怠慢にある。
※年金制度が成立していた時代──高度経済成長と人口ボーナスの恩恵
今の年金制度は、そもそもどのような前提で設計されていたのか。この問いに答えるには、日本が高度経済成長の真っただ中にあった1950~1970年代を見つめ直す必要がある。
この時代、日本は「人口ボーナス」と呼ばれる現象に恵まれていた。若年人口が多く、労働力も豊富で、出生率は高かった。結果として、年金制度を支える「支払う側」が圧倒的に多く、「受け取る側」である高齢者は少なかった。この“人口構成の黄金時代”において、賦課方式はごく自然に、そして安定的に運用されていた。
また、戦後から高度経済成長期にかけて、個人の所得も年々上がり、税収や保険料収入も比例して増加していた。つまり、制度は支えられていただけでなく、経済的にも“膨張”していたのだ。
だが、この制度の根幹にはひとつの盲点があった。──「この人口構成と経済成長が永遠に続く」と無意識に前提していたことだ。
社会保障制度を維持するには、人口構造や経済状況の変化に合わせた柔軟な再設計が必要である。しかし当時の設計思想は、拡大を前提とした一本調子の設計だった。これは、どの国家にも見られる「制度は成功時の構造のまま固定化されていく」という政治的惰性に基づく典型例である。
※逆ピラミッドの構造──支える側が減り、支えられる側が増える
少子高齢化は一夜にして起こるものではない。長期的な人口動態の変化が、じわじわと社会制度の基盤を侵食していく。だがその変化はあまりに緩やかであるため、多くの人々が危機感を持たず、構造的問題が看過されてきた。
かつての人口構成は「若者が多く、高齢者が少ない」典型的なピラミッド型だった。だが現在はどうか。出生率は1.3前後に落ち込み、20〜30代の人口は減り続けている一方で、65歳以上の高齢者は総人口の約30%に達した。
この変化が何を意味するか──それは、現役世代一人あたりが支える高齢者の数が増え、負担が重くなるということだ。1980年代には、現役世代3人が高齢者1人を支えていた。だが2020年代にはそれが1.8人、2040年代には1.3人を切ると見込まれている。逆に言えば、1人の若者が1人以上の高齢者を支えなければならないという異常事態だ。
さらに深刻なのは、現役世代自身の可処分所得が減っていることだ。非正規雇用の増加、賃金の停滞、社会保険料の上昇──これらすべてが若者の将来不安を増幅させている。
この構造は、制度の「維持」によって若者が「消耗」させられている状態とも言える。つまり、現行制度を維持する限り、次の世代が制度の犠牲になり続ける。
※世代間格差の可視化──“払い損世代”の実態と不信の根源
もし、ある制度が「払えば払うほど」と分かっていたら、あなたはその制度に従い続けられるだろうか。今の若者たちは、そのような疑念を持ちながら、毎月の保険料を納めている。
ここで一つのモデルを提示しよう。たとえば、2025年に20歳となる若者が60歳になるまでの40年間、国民年金保険料を毎月16,000円支払い続けたとする。単純計算で、支払総額は約768万円。だが、将来的に支給される年金額は、物価上昇やマクロ経済スライドの影響、支給開始年齢の引き上げにより、満額支給が約6万円以下になる可能性がある。
一方、1960年代に20歳だった世代は、保険料が格段に安く、支給額は今の若者以上。払った金額よりもはるかに多くの年金を受け取ることができた。まさに「得する仕組み」だったのだ。
この差は、単なる時代の違いでは片付けられない。制度が構造的に「初期参加者優遇」「後期参加者損失」のモデルになっているからだ。これは年金だけでなく、ネズミ講やポンジスキームにも共通する性質であり、制度としての倫理性に重大な疑義を投げかける。
このような「払い損構造」は、若者の制度不信を加速させる。「どうせもらえない」「破綻する前に逃げるべきだ」といった冷笑的態度が広がるのも、無理からぬことだ。
※制度不信が国家を崩壊させる──“見えない信用”の連鎖破綻
社会制度は、物理的な構造物ではなく、「信頼」という目に見えない土台の上に成り立っている。税を払えば道路が整備され、保険料を納めれば老後の生活が守られる──こうした“期待と信用の連鎖”が制度の正当性を支えている。
しかし、その信用は静かに崩れつつある。年金制度に対する若者の冷ややかな視線、制度設計者への不信感、政治への諦め──これらはすべて、社会の基盤を侵食する“信用の腐食”の兆候だ。
信用が崩れれば、制度は機能しなくなる。制度が機能しなくなれば、法は空文化し、国家は「名ばかりの共同体」となる。
歴史を見ても、国家が崩壊する前兆として、「制度の空洞化」と「納税意欲の消失」がしばしば記録されている。古代ローマ帝国の崩壊、ソビエト連邦の崩壊、そして現在の一部途上国で見られる国家機能の麻痺。それらはいずれも、「国が国として成り立つ信頼関係」が断たれたことによる。
年金制度は、その意味で“国家の心臓”の一つだ。ここに不信が生まれれば、それは単に老後の問題にとどまらない。労働意欲、納税意識、選挙参加、子育て──あらゆる分野に連鎖的に疑念が広がる。
制度不信は、国家不信に直結する。国家不信は、社会の分断と無関心を招き、やがて崩壊へと向かわせる。静かに、だが確実に。