久しぶりの雨は涙のようだ。
旦那様サイド。
「……雨?」
「……久しぶりですね」
弟のハリエットを部屋に呼んで話をしていた最中、夕焼け空が暗くなったと思ったら雨が降ってきた。
ここ最近見てなかったから、この雨がなんの雨なのか勘ぐってしまう。
「でも精霊の怒りとは違うような…。なんか静かな雨ですね」
「……そうだね」
前まで降ってた雨と違って、小雨で静かだ。
しとしとと降る雨は誰かの涙のようで、こちらまで悲しい気持ちになる。
「まぁ怒りでは無いと思う。これはきっと自然の雨だね」
「そうだといいのですが」
この雨がすぐに止むことを祈るしか出来ない。
「それはそうと、フェローさんは想像していた人物とは違いました」
「手紙の通りでしょ?」
ハリエットが表情を落としてそう言った。
僕はハリエットに状況を知らせるための手紙を送っていたから分かっていたはずだけど、どうやらフェローのことを疑っていたみたいだ。
まぁ気持ちは分からなくもない。精霊の怒りを鎮めるための罰のようなものだったのだから。こちらだってどんな危険な人が来るか身構えていたのだから。
「穏やかな方ですね」
「でしょ」
「……まだ油断は出来ませんけどね」
苦い顔をしたハリエットに、対して僕は笑った。
「彼女が何か企んでいても僕らにできることは無いよ。それが精霊からの罰だろう」
「それはそうですけど…」
「それにそんなことを考えているようには見えないけどね」
ここに来る前に温室で見た彼女の笑顔を思い浮かべる。
幸せそうに微笑んでいた。あの笑顔を見ると僕も心が暖かくなる。
彼女だって最初は警戒した様子だった。それでもだんだん僕やこの屋敷にいる人に心を開いてくれて、楽しそうな笑顔を浮かべてくれる。
言葉にはしないものの、その表情と態度に全て出ている。
彼女が僕らに感謝してくれてることも、分かってる。
僕らが感謝する方なのに、彼女はどうやら自分を養ってくれてることを感謝してるようだ。
謙虚なのだろうか。
そんな彼女を見てきたから、僕らに害を加えるつもりがあるようには見えない。
万が一その気持ちがあったとしても、それは精霊が望んだことでもあるのだから、僕らは受け入れないといけない。
僕の気持ちが伝わったのか、ハリエットはそれ以上は言わなかった。
その代わりとばかりに話題を変える。
「フェローさんは、本当に喋らないんですね」
「喋れない訳では無いよ。僕に名前を教えてくれたからね」
ただ彼女の声を聞けたのはその1度だけ。この屋敷に来てからも、彼女の声を聞いたという報告は上がっていない。
「話すのが苦手なんでしょうか」
「話を聞くのは好きみたいだからね。声を出すのが嫌なのかもね」
人との会話は嫌いではないように見える。人見知りな様子もみられないし、人と接するのは好きそうだ。
それでも声を出さないのだから、声を出すということが嫌なんだろう。
綺麗な声だったんだけどな。
「まぁ声が出なくても、気持ちは全部顔に現れているからね。問題は無いよ」
「そんな感じはしましたね」
ハリエットも彼女と話したことを思い出したのか、頷いている。
「まぁ、兄上もフェローさんのことは気に入っているようですしね」
「そうだね。フェローはすごく穏やかな人で、領民とも上手くやっていけそうだし、小柄だけど可愛いしね。珍しく気に入ってるよ」
たまに仕事で夕飯を一緒にできない時なんかは、残念に思ってしまうくらいには気に入っている。
今まで女性を家にすら上げなかった僕にしては珍しいことだ。
「精霊祭りでは精霊の祝福も受けたと聞いたので、離縁も視野に入れるのかと思ってましたが…」
「まさか。今更彼女と離縁して他の貴族の女を迎え入れるのは無理だよ。僕の気持ちが無理だ」
精霊の言葉という命令にも近いもののおかげで、領主にしては珍しく貴族以外を娶ることが出来た。
しかも妻になった女性は僕が一緒にいても安らげる稀有な存在。
今更手放して他の女を娶るなんて無理だ。彼女がこの家からいなくなることも嫌なのに、他の女を迎え入れるなんてもっと無理だ。
フェローに対して恋愛の情は抱いていないと思う。だけど、彼女に他のところに行って欲しくない。
だからこそ領民にも彼女の存在を知らせたし、お披露目代わりに連れて歩いた。
僕の妻は変えない。僕の妻はこの先もフェローだけがいい。
「ですが兄上、気を付けてください。いくら精霊のお言葉でも、そんなもの聞こえないと言い張る馬鹿もいます」
「だろうね」
僕の妻の座を狙っていた貴族は、フェローに危害を加えようとするだろう。精霊の言葉どおり1度は娶ったのだから、それでいいだろうと。
それもきっと、ひとつじゃない。いくつもの家がフェローを狙うだろう。
それほど僕の家は魅力的だからだ。
土地は広いのに栄えていて、だからお金もある。領民の満足度も高く、人気の土地だ。
嫁ぎ先を探す貴族子女からすれば、裕福で王都からも近いのだから狙い目だろう。
女性だけでなくその親も、僕の家と縁を結びたいと思ってるはずだ。ただでさえ公爵位を持っていて権力があるのに、僕の血にはこの国の王族の血も、他国の王族の血も流れてる。
だいぶ薄まった血だけど、その血が入ってるってだけで女児を産めば筆頭で次期王妃候補になるだろう。
どの貴族もそれを狙うはずだ。
とはいえ僕にはそんな野心はない。僕の家系は代々穏やかに暮らしたがる。僕も同じだ。穏やかに過ごしていたい。
だからフェローと結婚してからの日々は穏やかで、まさに求めていたものなのだ。
彼女じゃ無ければこうはならなかった。
でもフェローが貴族じゃないから余計に、他の貴族はフェローを蹴落としにかかるだろう。
まぁ僕も、そんなことは許さないけど。
「…まぁ私も、フェローさんになんの問題も無ければ、このまま兄上と仲良くしてて欲しいと思ってますよ。だから何かあったら頼ってくださいね」
「勿論。ありがとう、ハリエット」
僕が貴族の女性に囲まれて嫌な思いをしてきたのを、弟はよく知っている。だからここまで心配してくれるし、僕とフェローを応援してくれる。
優しくて気遣いのできる良い弟だ。
「そうだ、再来週の視察には、フェローさんは来ますか?」
「ん?まだ何も考えていなかったけど…。どうして?」
再来週は領地の西側を視察する予定がある。雨で使えなくなった観光地や、農地を見に行くのだ。
観光地となる湖と滝に関しては問題なしと報告はされてるけど、実際に見に行ってみないと、新たな問題が見つかるかもしれない。
農地も同じくだ。ずっと水を浴びてた土が、以前のように作物を育ててくれるのかは分からない。
土地もそうだし、それらを管理してる人たちにも話を聞きたい。新しい問題点が見つかれば対策をとるし、やっぱりこういうのは出向かないと。
「いえ、その……騎士団の奴らも、兄上の結婚相手を気にしてまして…」
ハリエットは少し言いづらそうにしている。
でもそうか、騎士団か。確かに気になるだろうな。
ハリエットはこの領地に仕える騎士団に所属していて、その本拠点は西にある。視察に行く方面だ。
騎士団に寄る事も出来るし、彼らも自分の守る領地の領主の妻は気になるだろう。
「せっかくだから、騎士団にも顔を出そう。フェローにも聞いてみるよ。多分行きたいって言うと思うけど」
彼女に聞いた時を想像して、思わず笑みがこぼれた。
彼女は話せないから大人しいかと思いきや、好奇心旺盛だ。普段穏やかに過ごしてるけど、何にでも興味を示すし、やりたがる。
だからきっと、この視察の話もしたら行きたがるに違いない。
「騎士団なんて、女性には何にも楽しいところでは無いですけど、来てくれますかね?」
「どうだろう。でも行きたがるんじゃないかな」
フェローがそういうところを嫌がるようには思えない。庭に出て何かの拍子に土がついても全然気にしないし、汗だくの騎士が寄ってきて嫌な顔ひとつしない。
きっと心根が綺麗なんだろうな。
ハリエットとの話も弾んで、もうすぐ夕飯の時間に差し掛かる頃、ハリエットが何かに気付いたように呟く。
「……あ、雨が」
ハリエットが窓の方を見て呟いたので、僕もそちらを見た。
雨は上がって、暗い空に星が輝きはじめていた。