精霊の怒りを鎮めるために。
旦那様サイド。
「旦那様、もう限界では…」
「……そうだね…。覚悟を決めなくては」
雨が降り続いてもう1年が経つ。自分の領地で日の目を見たのはもう去年の話だ。
しとしとと降り続ける雨は、恵みの雨なんかではない。むしろ土は水分を含みすぎて作物の育ちが悪いし、観光地となる澄んだ湖は雨のせいでずっと濁っている。領地の堺の川もずっと増水していてこの領地に訪れる人が少なくなっている。
「神殿に行く。準備をしてくれ」
「……かしこまりました」
外へ出る準備をして玄関に行くと、弟がちょうど家に帰ってきたところだった。
弟のハリエットは僕の装いを見て、驚き悲しみの目を浮かべる。
「兄上……まさか」
「うん、行ってくる」
「そんな…!まだ、まだ何か策が…!」
縋るような目をしたハリエットに向かって首を振る。僕の決意が硬いことを知ってる彼は、僕を見て絶望的な目つきをした。
分かってる。もしかしたら僕はもうこの家に帰ってくることは出来ないかもしれない。
それでも領地のためにはやらないといけない事だから。それが領主の僕の役目だ。
「ハリエット、後のことは任せたよ」
「……兄上のお戻りを、お待ちしてます」
ハリエットは悔しそうに顔を歪めて僕に言った。
行ってくる、とだけ告げて僕は家から出た。
馬車で30分ほど走り、少し小高い丘の上に神殿がある。雨に濡れて重苦しい雰囲気があるそれを丘の下から見上げるように馬車が止まる。
僕は馬車を降りて、御者には馬車のところで待っててもらい、1人で神殿に向かって歩く。
雨の音しか聞こえない、生き物や人の気配もない。何も存在しないような空気の神殿に足を踏み入れて、その1番奥の祭壇に足を運ぶ。
何もいない祭壇に向かって跪き、頭を垂れた。
「この地におわす精霊様に申し上げます。我が兄の罪を償いに参りました。如何様な罰も受けさせていただきますので、どうか怒りをお鎮め下さい」
兄が、3年前に失踪した。
ここ精霊の神殿にあった、精霊の花を盗んで。
精霊の花はこの地の精霊の大切なもの。なにか力が宿ってる訳では無いけど、絶対に枯れることなくいつも咲いている不思議な花。
それをあろう事か兄は盗んだ。盗んで、逃げた。
理由はわかってる。兄は悪い女にばかり引っかかるタイプの男で、今回もそれだ。甘い言葉で騙されて、女の願い通り精霊の花を盗んだ。
そして女の待つ別の領地に踏み込んだ瞬間、花は枯れた。
兄は枯れた花だけを僕らに届けて、そのまま失踪した。
そして花をとられて怒った精霊が、ずっと雨を降らせている。
何度も謝りに来たり貢物を置きに来たりして、どうにか怒りを鎮めて貰おうとしたが、上手くいかなかった。
初めは2日に1度の雨だったが、次第にひと月に1度しか太陽が姿を見せなくなり、とうとう1年前からずっと雨だ。
そこで私はようやく決意した。
精霊に対しての最大の償いを。
地に住む精霊の怒りを鎮めるのに有効な手段は、まず謝罪。次が貢物。そしてそれもダメだったら、身を捧げることだ。
文字通り、命を捧げるのだ。
稀に他の罰を与える精霊もいるらしいが、稀だ。
そもそも精霊と話せる訳でもないから、何をすれば許してもらえるのかが分からないのだ。
精霊の怒りを鎮める最終手段。過去にも精霊の花を枯らせた領地は、10年間も諦めずに精霊の怒りを鎮めようと頑張ったものの、何も実らず、怒らせてから10年後に領主が身を捧げて許してもらったそうだ。
その地の精霊によって怒りの度合いは違うから、全てを参考には出来なかったが、1年降り続いた雨を見てこれしか手はないと思った。
どうせ捧げる身ならば、早い方がいい。
頭を垂れて精霊の反応を待つ。
これからの領地やあの家の事は、弟が何とかしてくれる。大丈夫。
地に住む精霊の怒りを鎮められるのは領主のみ。こういうことも全て覚悟した上で領主になったのだ。後悔などない。
1分ほど頭を下げ続けた。
なんの反応もない。
それでも、勝手に頭をあげる訳には行かない。
動かずにずっとその体制を作っていると、足元にひらひらと手のひらサイズの紙が落ちてきた。
こんな人のいない所で降ってくる紙。
怪しいと思って跪いた状態のまま、その紙を手に取ってみると、そこには文字が書かれていた。
『ひと月後に精霊の森で出会った黒髪の女を嫁にせよ』
そう、書いてあった。
……は?どういう事だ?
1ヶ月後に精霊の森で出会った女を嫁にしろって?
この状況で落ちてくる紙なんて、精霊の言葉に違いないと思うのに、これは本当に精霊の言葉なのか?
そう思ったもものの、ふと雨の音がしなくなったことに気付いて外を見た。
雨が止んで、陽の光が差していた。
僕が帰ったことに、屋敷のみんなは喜んだ。弟も泣きながら喜んでくれた。
どうやら雨が止んだから、僕の生存は絶望的だと思っていたらしい。まぁそう思うのも無理はない。
僕が帰ったことと、1年ぶりの太陽に小さなお祝いをして、僕は執務室で弟と話をした。
「ひと月後に、黒髪の女…ですか…」
「十中八九、精霊の言葉だと思うんだけどね…」
罰として嫁にしろなんて、意味がわからなすぎる。
そんな罰聞いたことがない。
「でも、雨は止んだわけですし…。兄上の真摯な心が伝わっただけでは?」
「これは誰かの悪戯だと?」
「精霊の言葉にしてはおかしくないですか」
言いたいことは分かる。精霊が人の縁を気にすることなんてありえないのだから。
精霊にとって僕達人間はちっぽけな存在だ。彼らの機嫌ひとつで僕らは滅びも繁栄もする。
精霊が僕らの事を気にすることなんてない。だからこそ、この言葉が本当に精霊の言葉なのかが分からない。
「でもあの場には誰もいなかったし、この紙が落ちてきて雨はやんだ。それに精霊の森は精霊に認められた者しか入れないところだ。悪戯できる人がいたとは思えないけど…」
「そうなんですよね…」
精霊の森の真ん中にある神殿だから、他人は入れないはずなのだ。そして地に住む精霊は、基本領主とそれを届ける御者にしか森に入る許可を出さない。
だからこそ、この紙に書かれてる女が精霊の森にいると言うのも信じ難い。
「でもこれが本当に精霊の言葉だったら、これを無視して再び怒りを買うのは良くない。これが精霊の言葉じゃなかったとしても、僕の妻が出来るだけだ。なんの問題もない」
「そうは言っても兄上…。変な女だったらどうするんです」
「そう簡単にやられはしないよ」
どうせ適当な人と婚姻を結ぶ予定だったんだ。それが少し早まっただけだ。
それにこの紙が悪戯なら、1ヶ月後に精霊の森に行っても誰もいない可能性だってある。
どちらにせよ、この紙の言う通りにするしかないだろう。
そのために僕は結婚の用意を始めた。
屋敷にいる使用人にもそのことを伝え、領主夫人の部屋を整えてもらい、結婚に必要な書類も用意して、1ヶ月後が来た。
その間は晴れは少なかったものの、雨も減って、曇り空ばかりの日々だった。
とりあえず雨が少なくなったことに領民は喜んでいた。
「行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
僕は再び、精霊の森に出発した。
ハリエットは暫く騎士の仕事で帰って来れない。会えるとしたら2ヶ月後くらいだろう。
僕が命を捧げていたら、彼の夢だった騎士の道を途絶えさせる所だった。折角筋がいいのだから勿体ないとは思っていたんだ。本当に良かった。
それはともかく、本当に精霊の森に女なんているんだろうか。黒髪の女が。
とりあえず神殿まで向かい、神殿で祈りと感謝を捧げた。
道中で黒髪の女なんて見てないし、そもそも人も見てない。それに神殿で祈ってもなんの反応もない。
やっぱり悪戯か?
そう思ったのに。
「領主様!女性が、黒髪の女性がおります!!」
馬車が止まったと思ったら、御者に声をかけられて急いで馬車をおりた。
まだ精霊の森の敷地内。そこに、奇妙な格好をした女がいた。
Tシャツと半ズボンを履いて、少年のような格好の黒髪の女が。身長も低くて僕より30センチは下だろう。女性というより少女に見える。
何より、女性なのに膝下が晒されている。靴も怪我人が履くような踵のない靴で、足を盛大に晒している。
彼女は不思議そうに僕らを見た。
「こんにちはお嬢さん、初めまして。僕の名前はリアム・グランダート。お嬢さんのお名前を聞いても?」
出来るだけ優しく見えるように笑顔を浮かべて彼女に話しかけた。彼女はその黒くて大きな目をぱちくりとさせて、何も話さない。
「お嬢さん?」
彼女にもう一度問いかける。
もしや耳が聞こえないのだろうか。
そう思ったら、彼女はそっと口を開いた。
「…フェロー……」
フェロー?フェローというのか、彼女は。
あまり聞き馴染みのない不思議な名前だ。
「そう、フェローと言うんだね。ひとまず馬車に乗ってもらってもいいかな?」
彼女は何も言わず、僕の言う通りに馬車に乗ってくれた。
彼女は精霊からなにか聞いていたのだろうか。特に抵抗する様子や拒否するような様子はない。少し警戒しているようではあるが、逃げ出す様子はない。
僕は馬車の中で彼女に今までの事を説明して、そして僕と婚姻を結んで欲しいことを伝えた。
彼女の反応は全くなく、あれから一言も話さない。
とはいえ聞こえてはいるようで、僕がした世間話には頷いたりしてくれた。
彼女を屋敷に連れていき、執務室まで案内する。そして結婚証明書に僕は彼女の名前を書き、彼女の血印を押させてもらった。
血を出すためにナイフを取りだした時は彼女はビクッとして体を固まらせていたが、大人しく従ってくれた。
だけどその間もずっと彼女は話さない。
きっと話すのが苦手なのかもしれない。
彼女は声を出したくないのかもしれないということを屋敷のみんなに伝える。
万が一彼女が本当に精霊の言葉通りの人だった場合、彼女にはなるべく居心地いいと思ってもらわなくてはいけない。
それをみんなも分かって、彼女には人一倍優しく接し、気にするようにした。
フェローは、穏やかな人だった。
話さないことを除けば普通に謙虚で綺麗な女性で、貴族の礼儀はなってないものの、平民の粗雑さも見当たらない、不思議な女性だった。
日中は庭でお茶をするか散歩してることが多く、毎日のんびり過ごしているらしい。難しい本はあまり好きではなく、絵のついた子供向けの絵本なんかをよく読んでいる。
食べ物は何を出しても嫌な顔しないし、お礼のつもりの笑顔をいつもシェフに向けている。
使用人に対しても優しく、侍女が何かを間違えても怒ることもない。
身構えてた割にはビックリするくらい、穏やかな人だった。
相変わらず言葉は話さないけど表情は豊かだし、何をするにも楽しそうで見ているこちらも心が浮き立つ。
それは屋敷の住人も同じようで、最初は精霊の怒りを買わないように彼女に優しくしていたみんなも、彼女自身の人柄に触れて好きになっていったようだ。
僕はいくら彼女と結婚したといえど、心が通いあってる訳では無い。だから寝所も別だし、手を出すつもりも無い。
でも、きちんと毎日夕飯を共にするくらいには、彼女を気に入っている。
今まで出会ったような、貴族の女のギラギラした感じも、平民の熱の篭った眼差しもなくて、接していてとても気が楽なのだ。
そして彼女がこの屋敷に来てから、空はずっと晴天だ。
恐らくあれは精霊の言葉で、彼女を娶ったことは正解だったのだろう。
僕らの問題に巻き込んでしまった彼女には申し訳ないが。
精霊の怒りが鎮まって初めての精霊祭り。彼女に行きたいか聞いたところ、目をきらきらさせて行きたがっていたので連れていくことにした。
領地の人達は僕が結婚したことも知っているから、顔見せにもちょうどいいだろう。
そう思って2人で祭りを回った。
街を歩くフェローは、少女のようにはしゃいでいた。
目に映るもの全てに興味を示して、視線が忙しそうに動いている。
気になるところを全て回ってあげたいところだけど、精霊の怒りが鎮まったことや、ここ2ヶ月晴れだったことにより街は大賑わいだ。人の群れが凄い。
大通りに入ってすぐ人にぶつかりそうになった彼女の肩を抱くと、彼女ははぐれないように僕の服の裾を掴んだ。
迷子にならないように掴んだんだろう。裾を掴んで、僕を上目遣いで見上げて。
言い表すことの出来ないような、庇護欲を感じた。
守ってあげたい。この小さくて可愛い存在を、僕が守らなくては。
そう思ってしまったらもうその気持ちが溢れて、人にぶつからないように彼女を守りながら街を歩いた。
何かを買おうとすると申し訳なさそうに首を振る彼女に、あれこれと理由をつけて色々買い与えた。
僕はこんな人間だったか?
未だ名前しか知らない女性にこんなに貢ぐような男だったか?
僕らの姿を見て街の人達は祝ってくれた。彼女も街の人達に笑顔を向けていて、彼女が話さないことなんて気にも留めないくらい、彼女の人柄にみんなが惹かれた。
食べ物を買えば、作った人の前で美味しそうに頬張り、装飾品を買えば、店員の前で嬉しそうに微笑む。
それを見て街の人が喜ばないわけが無い。
領主の妻になるのは大体が貴族だ。買い食いなんて滅多にしないし、宝石のついてないアクセサリーなんて買おうともしない。そもそも祭りに来ることは無い。屋敷でパーティして終わりだ。
僕も同じく貴族だけど、僕の家の方針で領地には自ら足を運んでいた。領民に覚えてもらえるくらい足を運び、直接見て回る。この街の人達ともほとんどが顔見知りだし、気安く領主様、と声をかけてくれる。
そんな家に生まれて育ってきたから、妻となる人とも出来れば街を歩きたいと思っていた。でも貴族を娶ると思っていたから、無理だろうと感じてた。
フェローが貴族かは分からない。でも、精霊の言葉ということでフェローを娶ったのは、精霊の怒りを鎮めるだけじゃなくて、この領地にとってもいい事のように思える。
夕方になってフェローと広場に向かった。昼と夜の堺の間はダンスパーティーが行われるからだ。
それをやりたいとフェローが頷いてたから、連れてきた。
ダンスパーティーといっても、貴族の社交界のような形式ばったものじゃなく、両手を繋いで体を前後左右に揺らして足踏みするだけの簡単なもの。
それでもフェローは楽しんでいた。
そんな彼女を見て、幸せってこういうことなのかもしれない、と思った時、彼女はにこっ、と嬉しそうに笑う。
その瞬間、空から花びらが降ってきた。
信じられないことだった。だってこんなものは、精霊の祝福のようにしか思えない。
ただでさえ精霊の祝福は滅多にないのに、少し前まで精霊を怒らせていたこの地に、精霊が祝福をしてくれるなんて。
ハッとしてフェローを見ると、フェローは花びらが降ってるのを見て楽しんでいた。
辺りも精霊の祝福だと大騒ぎになっていて、みんな幸せそうだ。
フェローが来てからだ。こんなにいい事ばかり起きるのは。
彼女は精霊の怒りを鎮めるための罰なんかではなく、僕らに幸せを届けに来た女神なのかもしれない。
僕は本気でそう思った。