第80章 おんなじ感触
長江流域の上海(人口約40万)、武漢(ウーハン、人口約3万)、重慶(チョンチン、人口約2.5万)、及び長江支流流域の成都(チェンドゥ、人口約5千)には、それぞれ自治組織たる自経団がある。上海には10の自経団があり、それらを統括する自経総団が置かれている。自経総団は総書記と原則として9人の副総書記で構成され、それぞれ1つの自経団の責任者たる書記を兼務している。武漢自経団には地区ごとに漢陽、漢口、武昌の3つの支団があり、自経団の責任者たる書記と副書記2名は、原則として支団の責任者である支団書記を兼務。重慶には同様に3つの支団があるが、人口の少ない成都には支団はない。
上海マオ対策本部は、恒星間天台マオのインパクトに備え、月に本部を置く国際連邦が管轄するネオ・シャンハイへ上海をはじめ4都市の住民の避難を進めるための実働部隊として組織された。その幹部は上海出身、武昌出身の官民から登用された混成メンバーで、国際連邦から派遣され、月から赴任した3名もいる。
主な登場人物
ミヤマ・ヒカリ:本作のメイン・ヒロイン、ネオ・トウキョウでターミナルケアを生き延びた。大陸の武昌に辿り着きダイチたちと行動を共にする、上海マオ対策本部技術第一部副部長、今は亡き同い年の従妹でカオルのフィアンセだったサユリに瓜二つ
ヤマモト・カオル:中国名は李薫 (リー・シュン)武昌支団副書記兼上海マオ対策本部リエゾンオフィサー
ミヤマ・ダイチ:ヒカリの従兄、中国名は楊大地 (ヤン・ダーディ)、上海対策本部副本部長代行兼チーフ・リエゾンオフィサー
楊清立:(ヤン・チンリー)ダイチの従伯父、武漢自経団の元書記、現在は武漢と漢陽の顧問を務める
徐冬香:(シュ・ドンシアン)楊清立の妻、武昌支団の幹部の一人で裁判所を統括する
張子涵:(チャン・ズーハン)本作のサブ・ヒロインの一人、武昌で物流業者を営みつつ上海マオ対策本部民生第一部副部長を務める
周光立:(チョウ・グゥアンリー)ダイチの同級生で盟友、上海マオ対策本部の実務を統括する副本部長、上海自経総団副総書記を兼務、上海の最高実力者周光来の孫
陳春鈴:(チェン・チュンリン)本作のサブ・ヒロインの一人、上海マオ対策本部民生第一部秘書、傷心の周光立に寄り添う
ミヤマ・サユリ:中国名は楊小百合、ダイチの妹、カオルのフィアンセ。1年前に病死
カリーマ・ハバシュ:スペースプレインの若手航宙士、上海マオ対策本部民生第一部のミニプレイン操縦士兼整備士
陳紅花:(チェン・ホンファ)商物流業者の首領の一人、張子涵と親交がある、上海マオ対策本部民生第一部副部長(常勤へ)
李勝文:(リー・ションウェン)タクシー運転手、ヒカリが大陸で最初に出会った人物、上海マオ対策本部民生第一部副部長(常勤へ)
ジョン・スミス:ドイツ人、武昌で電気電子修理工房を営んでいたが、店を閉店、今は上海マオ対策本部技術第二部副部長
ミシェル・イー:本作のサブ・ヒロインの一人、香港系中国人で本名は于杏 (イー・シン)、上海マオ対策本部リエゾンオフィサー兼連邦アドバイザー
張皓軒:(チャン・ハオシェン)ダイチの1学年下でカオルの同級生、上海マオ対策本部民生第一部副部長
高儷:(ガオ・リー)本作のサブ・ヒロインの一人、ネオ・シャンハイのターミナルケア生き残り、武昌支団勤務を経て上海マオ対策本部民生第二部副部長
李香月:(リー・シャンユエ)上海副総書記兼第4自経団書記
艾巧玉:(アイ・チアオユー)モンゴル人、上海トップの総書記兼第2自経団書記で、上海マオ対策本部本部長兼務、周光立の初任時の自経団書記
馮万会:(フォン・ワンフイ)報道機関である長江新報の主任編集員、ダイチと周光立の先輩
杜美雨:(ドゥ・メイユイ)上海マオ対策本部本部秘書兼庶務担当
~カオル(李薫)の独白~
実行フェーズに入って、連絡・調整業務は減っているとはいえ、ダイチの分の半分くらいと自分の分の業務を担当することになったので、相当忙しかった。平日はなかなかヒカリのもとへ行くことができず、時々MATESを送った。少しずつ持ち直しているようだ。
1月15日付で上海対策本部の一般スタッフがさらに増員になった。ロジスティクス要員も含めた民生系のスタッフが主だ。
事前にMATESで確認して、18日土曜日の夕食をご馳走になりに、楊清立夫妻のお宅へ伺った。
食事中、ヒカリは自分からは話さないけれど、僕たちの会話に表情が反応するようになってきた。ダイチが小学生のときに「やらかした」話を徐冬香が懐かしそうにしたときには、声はあげなかったものの満面に笑みが広がった。
帰り際に小さな声で「あしたも来てくれるかな」と言われた。「もちろん」と答えた。
自宅に戻ってMATESを確認すると、張子涵から、来週の火曜日に武昌にミニプレインでやってきて、しばらく滞在するとの連絡が入っていた。「できればヒカリに会いたい」とのこと。「大丈夫か、あした確認して連絡する」と返信した。
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「あした」の昼頃、カオルは楊清立宅を訪問した。二日続けてだった。
土産に果汁入りのゼリーを持って行った。
[そんな、気にしなくていいのに]と徐冬香。
[いえ、と言うより、以前に彼女が夏バテになったときにお見舞いで持って行ったら、美味しそうに食べていたので]とカオル。
確実に食欲が増し、自分から言葉も発するようになってきたヒカリ。昼食後に、コーヒーと一緒にデザートで出されたカオルの持ってきたゼリーを、彼女は「懐かしい」を連発しながら食べた。
楊清立夫妻は今日も気を遣って食後のひとときを二人きりにしてくれた。
ヒカリが、ポツリポツリと仕事のことについて聞き始めた。
「技術第一部のみんなとか…迷惑かけてないかな」
「君が12月のうちにがんばったおかげで、問題なく進めているようだよ。もっとも君のいない分の穴埋めで、時間外は若干増えているらしいけどね」
「みんな…元気でいるのかな」
「周光立以外は、みんな大丈夫」
「リンリンは?」
「陳春鈴は、例によって手際よく仕事を片付けると、周光立の元に通って心の支えになっているみたいだ。彼女によると、もう一週間もすれば復帰できるかも、ということらしい」
「そうか…よかった」
「そう言えば、張子涵が明後日にプレインでこちらへ来て、しばらく滞在すると言っていた。長江流域の緊急避難用デポの整備の関係らしい」
「それって…あの?」
「うん。重慶、武漢からの水運での移動の際に、万が一のことがあった場合に避難できるようにするためのもの」
「そう」
「それで、彼女から、君が大丈夫なら会いたいって言ってたけれど、大丈夫かな」
「会いたい…ぜひ」
「わかった。じゃあ彼女にそう伝えるね」
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~カオル(李薫)の独白~
そろそろお暇、と僕が立ち上がった。
つられるように立ち上がり、僕の前に立つとヒカリが言った。
「あの…ハグ、してくれるかな?」
「…いいの?」
「うん。お願い」
「じゃあ」と僕が腕を広げると、ヒカリが僕の胸に飛び込んできた。
僕の背中に腕を回すと、ぎゅっと力を込めて抱きしめた。
ヒカリの胸の微かな膨らみと、その先端の感触が伝わってきた。
今は亡きフィアンセのサユリを抱きしめたとき。
いまでも覚えているそのときの感触と、おんなじ感触…
夢を見ているようだった。
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1月21日火曜日の9時に上海を飛び立ったハバシュのミニプレインには、張子涵、陳紅花と李勝文が乗っていた。張子涵は武漢まで。あとの二人は成都に向かい、移動時の成都側の対応について確認をして、ハバシュのプレインで23日に戻る予定。
10時に武昌支団の駐車場に到着した張子涵。ダウンを着こんでいる。さっそくオフィスのカオルのもとへ。
[28日までこちらだよね]とカオル。
[その予定だ]と張子涵。
[じゃあ、ヒカリとは日曜日でいいね]
[ああ、彼女が差し支えなければ。どんな具合だい?]
[みるみるよくなっているようだ。今日も楊清立顧問から聞いた。キッチンにも立つようになったらしい]
張子涵は、緊急避難用デポの件を中心に、武漢のスタッフと21日、22日と打ち合わせを行い、23日木曜日にはハバシュのプレインで、武漢・重慶間の2ヵ所設置されるデポ候補地と、武漢・上海間の3ヵ所のうち武漢側2ヵ所の視察を行った。24日にカオルも加わった確認打ち合わせの後、彼女は上海の対策本部とVRミーティングで結び、ダイチ、ミシェル・イーと民生第一部の面々へ、カオルと一緒に報告した。
25日土曜日をカオルとともに漢口、漢陽での打ち合わせで過ごした張子涵は、翌26日の日曜日のお昼前、ヒカリと会うべく楊清立宅へカオルと向かった。小雨が降って寒々とした日だった。
[あたしみたいな騒々しいのがいて、ほんとに大丈夫かい? 無理してないかい?]と開口一番、張子涵がヒカリに聞く。
「そんな、張子涵なら大歓迎よ。武昌の人たちの中で一番最初に知り合ったのが、あなたなんだもの」とヒカリ。口調はほぼ元に戻っている。
4人が二人ずつ並んで掛けるテーブルの横に椅子をひとつ追加し、そこに張子涵が腰掛ける。ヒカリとカオルが両脇に並ぶような形。
[あたしが最初に会ったとき、シカリはあたしが運ぶ荷物だったからな]
「そして二番目が、荷受人でわたしの雇い主になったジョン・スミス」
[住み込みだったシカリを、三番目の楊大地にあたしとジョン・スミスで引き合わせた。あのときの楊大地の顔といったら]と懐かしそうに張子涵。
「それから、ダイチのおうちでみなさんにお会いした…懐かしいなあ。まだ半年しか経っていないのに」としみじみとヒカリが言う。
[いろいろあったからなあ]と楊清立。
[シカリさん、あなたにとってはほんと、激動の半年だったでしょう]と徐冬香。
カオルが初めて訪ねてきたときとは、うって変わった料理の数々。粥と野菜の煮付けを二口、三口がやっとだったヒカリも、ふだん通りの食欲に戻って美味しそうに炒飯を頬張っている。
張子涵が話す上海の面々の動静。
[陳紅花と李勝文が15日付で常勤になった。おかげであたしは、今まで以上に自由に飛び回れるようになって、ここにこうしていれるというわけさ]
[戦力強化だね]と楊清立。
[キャラバン・コネクションの連中と渡り合える人間は、なかなかいないからね。李勝文も、温厚だけど肝は据っているから]
キャラバン・コネクションは、移動計画の中軸を担う商物流業の組織。張子涵とは古くからの友人だった陳紅花は、自身がキャラバン・コネクションの首領のひとりだった。李勝文は上海タクシー協会の理事を務めていた。
[重慶、武漢は、張子涵が仕切るんだろう]
[運送業者5社の共同企業体と明日打ち合わせをします。武上物流の私の後任の総経理が、うまく取り纏めてくれています。だから、大船に乗ったつもりでいてください、と言いたいところですが、何分おんぼろ船ばかりなので…]
[そういえば、周光立が明日から復帰するんですよね]と徐冬香。
[そうそう。思ったより早くの復活です]
「やはり、リンリン効果かしら」とヒカリ。
[元保育士の面倒見のよさが、功を奏したんだろう]と張子涵。
「彼女にすれば、周光立のそばにいれるのが嬉しくてたまらないんじゃないかしら」
[まあ、このまま順調にいけば「やたらとお仕事ができるお姫様は、王子様といつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」となるんだろうな]
「対策本部カップル第一号?」
[いや、第一号は別になりそうだ]
「ひょっとして?」とヒカリ。
[あら、誰かしら?]と徐冬香。
[李薫はわかるかい?]と楊清立。
[え、ええ。なんとなく]
[まあ、近々発表されますので、乞うご期待ということで]と張子涵が締めくくる。
食後のデザートは、先週カオルが持ってきたゼリーを、冷蔵庫で冷やしてあったもの。
[こいつあ、懐かしい。李薫にしちゃあ、気がきくねえ]と張子涵。
二人が楊清立宅に着いてから2時間半、時刻は2時になろうとしていた。
[あんまり長居もなんだから、ぼちぼち失礼しよう]と張子涵。
「ありがとう。ほんとに楽しかったわ」
[まあ、無理はしなくていいけど、戻ってくれるのを待ってるよ]
「うん、そろそろ大丈夫かな、と自分では思ってる。あしたお医者様に相談してみる」
[了解。いい知らせを待ってる]
カオルがエアカーで、張子涵を埠頭近くの宿所へ送っていく。道すがら、張子涵がカオルに言う。
[李薫、前から言っときたかったことがある。シカリのことだけどいま言ってもいいかい?]
[うん…なんだろう]
[あんたがシカリとの間にどんな関係を築こうが、あたしの知ったことじゃない。いい大人なんだから]
「そんな…」
[けれどこれだけは言っておく]
一呼吸おいて、張子涵が続ける。
「シカリの中に楊小百合を探すことだけは、やめといたほうがいい。お互いのために]
「…」
[どんなにそっくりだといっても、シカリは10歳の男の子の母親で、楊小百合とは別の、一人の女性なんだ]
[そのことは…否定のしようがない事実だね]とカオルが呟く。
[すまない、気を悪くしないでほしい。あんたらのためを思ってのことなんだ]
[わかっている。気を遣ってくれて…ありがとう]
翌27日月曜日。風が止んで、降り注ぐ陽光に寒さが緩んだ。
周光立は、朝9時に上海対策本部のオフィスに出勤した。ちょうど4週間ぶりの出勤に、居合わせた約80人のスタッフが、陳春鈴を伴って入ってきた周光立を、立ち上がって拍手で迎えた。
拍手が止む頃に、ミシェル・イーと張皓軒が前に出てきて、並んで周光立と陳春鈴の前に立った。
[復帰をお待ちしてました。周副本部長。おめでとうございます]と張皓軒。
[ありがとう。ご心配をおかけしました]と周光立。
[ええと、復帰第一号のお仕事をお願いしたいと思います。よろしいでしょうか]とミシェル・イー。
[構わないが、なんでしょう]
[私たちの婚姻届の証人となっていただきたいのです]
[…えっ? 婚姻届?]と唖然とした顔で周光立。
「君たちが結婚する、ということか?]
[仰せのとおりです]と張皓軒。
[しかし君たちは…]
[副本部長がエアカーに乗せてカフェに連れて行ってくださいましたよね]
[ああ、11月だったか、「少なくとも21時までは一緒に過ごす」ようにと命じたと記憶しているが…]
[あの日、二人きりになった後、好きなアニメのキャラを私が言ったとき、彼女の顔に浮かんだ笑顔に…すみません、のろけました。要するに、そのまま翌朝まで一緒に過ごしました。21時は過ぎたので命令違反ではありませんが]と爽やかな笑顔で張皓軒。
[副本部長が、私たちのキューピッドでした]と、はにかむような笑顔のミシェル・イー。
いまだに「信じられない」という風で周光立が言う。
[私は「仲良くなれとは言わない。冷静な議論ができるような人間関係を」と言ったように記憶しているが]
[仲良くなってはいけない、とは仰いませんでした]とミシェル・イー。
[しかし、君たちがこういう関係になっていたとは…]
[「女子寮」のメンバーは、ずっと前から知ってましたよ]と高儷の声がした。
[私も実は知ってたよ]と周光立の横に立った陳春鈴が、周光立を見上げるように言う。
[そうか。たしかに、言われてみれば思い当たるふしが…]と徐々に納得した表情に変わる周光立。
[けれど、なんで「いま」なんだ。ネオ・シャンハイに移ってからでは駄目なのか]
[いえ、「いま、この、上海で」というのが大事なんです]とミシェル・イー。
[出会った思い出の地で婚姻届を出すには、「いま」しかないんです]と張皓軒。
[インパクトの前に、私は月へ戻らなければなりません。少しでも長く、正式の関係でいたいのです]とミシェル・イー。
[了解した。驚いたので、祝福の言葉を忘れていました。おめでとう。末永くお幸せに]
[ありがとうございます]と二人のユニゾン。
オフィスに再び拍手の輪が広がる。
皆が持ち場に戻ったところで、周光立が二人に聞く。[たしか証人は2名だったと思うが、あと一人はだれがなるのかな]
[李香月副総書記に相談しました]と張皓軒。
彼女は張皓軒の以前の直属の上司で、周光立の後任の副総書記兼第4自経団書記となった人物だ。
[李香月が証人に?]
[李副総書記は「連邦と自経団の新しい関係を象徴する記念すべき結婚だ」と仰って、艾総書記にお話しをされました]
[ということは、まさか…]
[その、まさか、です。艾巧玉総書記が証人になってくださいます]
[随分とビッグな結婚になるんだね]
[総書記から、婚姻届が受理されたらプレスリリースを、と言われています]と張皓軒。
[年末から年始にかけて暗い出来事が続いたので、なにか明るいニュースを、というご意向です]とミシェル・イー。
[わかった。長江新報の馮万会には話はしたか?]
[はい。杜美雨を通じて、リリース文案をご準備いただいています]
[さすがは張皓軒。ぬかりはないな]
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