第79章 生き残されたわたし
長江流域の上海(人口約40万)、武漢(ウーハン、人口約3万)、重慶(チョンチン、人口約2.5万)、及び長江支流流域の成都(チェンドゥ、人口約5千)には、それぞれ自治組織たる自経団がある。上海には10の自経団があり、それらを統括する自経総団が置かれている。自経総団は総書記と原則として9人の副総書記で構成され、それぞれ1つの自経団の責任者たる書記を兼務している。武漢自経団には地区ごとに漢陽、漢口、武昌の3つの支団があり、自経団の責任者たる書記と副書記2名は、原則として支団の責任者である支団書記を兼務。重慶には同様に3つの支団があるが、人口の少ない成都には支団はない。
上海マオ対策本部は、恒星間天台マオのインパクトに備え、月に本部を置く国際連邦が管轄するネオ・シャンハイへ上海をはじめ4都市の住民の避難を進めるための実働部隊として組織された。その幹部は上海出身、武昌出身の官民から登用された混成メンバーで、国際連邦から派遣され、月から赴任した3名もいる。
主な登場人物
ミヤマ・ヒカリ:本作のメイン・ヒロイン、ネオ・トウキョウでターミナルケアを生き延びた。大陸の武昌に辿り着きダイチたちと行動を共にする、上海マオ対策本部技術第一部副部長、今は亡き同い年の従妹でカオルのフィアンセだったサユリに瓜二つ
周光立:(チョウ・グゥアンリー)ダイチの同級生で盟友、上海マオ対策本部の実務を統括する副本部長、上海自経総団副総書記を兼務、上海の最高実力者周光来の孫
張双天:(チャン・シュアンティエン)上海マオ対策本部公安部部長
マサルおじいちゃん(ミヤマ・マサル):ヒカリの義理の祖父、ミヤマ・マモルの双子の弟、ネオ・トウキョウでターミナルケアを施された
カゲヒコ(オガワ・カゲヒコ):ヒカリの夫、ネオ・トウキョウでターミナルケアを施された
周光来:(チョウ・グゥアンライ)周光立の祖父。上海真元銀行の創設者にして自経団組織の立役者の一人。上海の最高実力者だったが死去、享年89歳
オガワ・マモル:ヒカリの一人息子、選抜されて火星へ行った
ホシノ・ミユキ:選抜されて火星へ行った天才ピアニストの少女、マモルと仲良くなる
カリーマ・ハバシュ:スペースプレインの若手航宙士、上海マオ対策本部民生第一部のミニプレイン操縦士兼整備士
ヤマモト・カオル:中国名は李薫 (リー・シュン)武昌支団副書記兼上海マオ対策本部リエゾンオフィサー
楊清立:(ヤン・チンリー)ダイチの従伯父、武漢自経団の元書記、現在は武漢と漢陽の顧問を務める
グエン:ベトナム人、中国名は阮華 (ルアン・フア)、武漢副書記兼武昌支団書記、ヒカリの元上司
呉桂平:(ウー・グイピン)武昌支団の幹部の一人、民生系の責任者
陳春鈴:(チェン・チュンリン)本作のサブ・ヒロインの一人、武昌支団幹部から上海マオ対策本部民生第一部秘書に転じ赴任、傷心の周光立に寄り添う
徐冬香:(シュ・ドンシアン)楊清立の妻、武昌支団の幹部の一人で裁判所を統括する
張子涵:(チャン・ズーハン)本作のサブ・ヒロインの一人、武昌で物流業者を営みつつ上海マオ対策本部民生第一部副部長を務める
ミヤマ・サユリ:中国名は楊小百合、ダイチの妹、カオルのフィアンセ。1年前に病死
アドラ・カプール:インド人、上海マオ対策本部技術第一部部長
ミヤマ・ダイチ:ヒカリの従兄、中国名は楊大地 (ヤン・ダーディ)、上海対策本部副本部長代行兼チーフ・リエゾンオフィサー
周光武:(チョウ・グゥアンウー)周光立の従兄、上海自経総団副総書記兼第7自経団書記、上海の最高実力者周光来の孫、AF党の実質的オーナーとして反逆の責任をとる形で自死
マルフリート・ファン・レイン:国際連邦総務局長兼マオ対策支援グループGM
アルバート・アーネスト・アーウィン:国際連邦マオ対策AOR収容プロジェクト(GM)、ネオ・トウキョウに赴任、ヒカリの連邦職員時代の上司
フアン・マリーア・マルティネス:国際連邦マオ対策AOR収容プロジェクトのリーダー職、ネオ・トウキョウに赴任
~ヒカリの独白~
死んだ。一瞬だった。わたしの横で。駆け寄る周光立たち。張双天。「もう大丈夫ですよ」。
死んだ。わたしのせいじゃない。けれど…死んだ。
死んだ。ネオ・トウキョウで。マサルおじいちゃん。カゲヒコのご両親。わたしの両親。そして…カゲヒコ。
みんな死んだ。わたしのせいじゃない。けれど…死んだ。
死んだという。周光来が。周光立。立て続けで、つらいだろう。
わたしは、生き残された。死ぬはずだった。「あしたは来月」の日に、ネオ・トウキョウで。けれど…生き残された。
マモルに会いたい。ここからだと、火星とのビデオ通話は無理だろう。
ミユキちゃん。あのときに送ってくれた彼女のピアノ演奏。わたしがリクエストしたショパンのト短調のバラード…
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1月2日木曜日。年明け最初のハバシュのミニプレイン便は、朝10時に上海第18支団の駐車場から飛び立った。乗客はヒカリとカオル。「女子寮」メンバーが手伝って荷造りしたヒカリの武昌滞在用の大きなカバンは、カオルが持って乗り込んだ。
1時間のフライトで、武昌支団の駐車場に到着する。雲間から薄日が差している。楊清立とグエン、呉桂平、そして上海への転属が決まった陳春鈴が出迎えた。
ミニプレインから先に降りてきたヒカリのもとに駆け寄る陳春鈴。
[シカリ姉さん!]
コートを着こんだヒカリの手を取ると少し見上げるようにして言う。
[大丈夫?]
「うん。心配かけてごめんね、リンリン」と無表情なヒカリ。
[私のことなんて…ごめんね、もっと話していたいんだけれど、帰りに上海へ向かうプレインに15時に乗らなきゃならないの。それまでに引継ぎをしちゃわなくちゃ、なの]
「こちらこそ、ごめんね。大変なのに」
[また、ゆっくりとお話ししようね。約束だよ]
そう言うと、陳春鈴はオフィスへと下りて行った。
ヒカリの背後で彼女のカバンを持ったカオルに、楊清立が話しかける。
[彼女の荷物を、私の車まで運んでくれないか?]
[わかりました]
[それでは行こうか]と楊清立がヒカリに呼びかける。
「はい。お世話になります」
三人は連れ立って楊清立のエアカーに向かう。後部座席にカオルがヒカリのカバンを入れると、助手席にヒカリ、運転席に楊清立が座り、車が発信する。見送るグエン、呉桂平、そしてカオル。
楊清立と徐冬香夫妻の家は、ダイチやカオル、陳春鈴の自宅がある武昌第15区にある。上海へ本拠を移した張子涵もかつて暮らしていた。子どものいない夫妻は、ベッドルームが3つにダイニングキッチンとリビングの、第15区としては小ぶりな家屋に住んでいた。
楊清立は、使われていないベッドルームにヒカリを招じ入れると言った。
[私は、どうしても必要な用事は朝方にすませてきた。徐冬香も午後には戻ってくる。空腹でなければ、彼女が戻ってから遅めの昼食にしようかと思うが、どうだろう]
「はい。かまいません」と相変わらず無表情なヒカリ。
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~カオル(李薫)の独白~
ヒカリは、サユリと違ってそんなに表情豊かな人ではない。
それにしても、これだけ無表情なのは…
無理もない。ずっと「殺害モード」のレーザー銃で狙われて、そして自分のすぐ隣で…
しばらく見守ろう。
そして頃合いを見て、会いに行ってみよう。
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~PIT通話:陳春鈴と周光立~
周光立:もしもし…周光立ですが、どうされました。
陳春鈴:あの…突然ごめんなさい。ご迷惑ですか?
周光立:そんなことありませんが。
陳春鈴:実はいま、上海にいます。
周光立:えっ、どうして?
陳春鈴:楊大地からの発令を受けて、こちらの民生第一部に転属になりました。いま、対策本部の上海オフィスにいます。
周光立:じゃあ、本当に上海におられるのですね。
陳春鈴:はい。ついさっき、ハバシュのプレインで着きました。
周光立:それは…
陳春鈴:あの…あと1時間ほどでこちらのみなさんとの打ち合わせが終わります。そうしたら、お会いに伺いたいのですが…ごめんなさい。ご迷惑ですよね。
周光立:いえ、迷惑だなんて、そんなこと。夕飯を作らせて、お待ちしてます。
陳春鈴:ありがとうございます。こちらを出るときに、また連絡します。
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約2時間後、周光来の屋敷の周光立の部屋。
床に膝をつけて、陳春鈴の胸に顔を埋めた周光立。子どものように泣きじゃくっている。
その背中をさするように優しく叩く陳春鈴。かつて彼女が保育士だった頃、子どもたちをあやしたときのように、ゆっくりと、ゆっくりと…
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~カオル(李薫)の独白~
週明けの武昌支団オフィスで、楊顧問に彼女の様子を聞いてみた。食事は、量はともかくとれているし、睡眠も問題ないとのこと。しかし無表情なのは変わらない。話しかければ応答するけれど、自分からは話さない。
こちらの主治医が、日曜以外は毎日往診に来ている。診立ては「しばらく時間が要る」とのこと。安定剤を1種類処方された。
会いに行きたいけれど大丈夫か、と聞いてみた。主治医に確認してくださるとのこと。
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周光立とヒカリが不在の状態で、ネオ・シャンハイへの移動プロジェクトは粛々と進められた。
上海対策本部のアドラ・カプール技術第一部部長は、改めて自分の部下であるミヤマ・ヒカリの優秀さと真面目さを実感していた。彼女が担当したシステム連携の基盤部分の改修は、一点も問題がなく、ドキュメンテーションも行き届いている。彼女が不在でも、他のスタッフが担当業務をスムーズに進められるようになっている。
そして本部長代行のダイチは、改めて周光立の行政官としての優秀さを実感していた。各部の実行フェーズ入りに先立って必要な事前調整はぬかりなくすませてあり、ダイチにとって難しい調整が必要となる局面はほとんどなかった。
上海と3地域について、移動する支団の順番に、区ごとに配慮の必要な高齢者、弱者の確認と輸送手段の割り当て、必要な介助の手配、一般移動者の運搬手段の割り当て、必要なバッグ類の申し込み受付、携行品の重量制限別枠対象の受付と審査など、移動者に関する具体的な対応が始められていた。担当は、陳春鈴が配属された民生第一部の窓口チーム。
備品・用品の製造も、ネオ・シャンハイ製造分を中心に順調に進んでおり、できあがったものから順次配備が始まっている。
主にネオ・シャンハイと対岸との間で運行する小型船は、対策本部が運用を委託する持盈商業流通集団の傘下に順次入り、修理・メンテナンス・救命ラフトなどの検査が始まる。
ネオ・シャンハイと重慶・武漢の間で運行する大型船は、すでに対策本部が運用を委託する共同企業体の傘下に入っており、修理・メンテナンス・救命ラフトなどの検査をすませたものから順に、物資の輸送を開始することになっていた。
1月8日水曜の一連のVRミーティングに先立って、上海対策本部のメンバーと武漢・重慶・成都の3地域の自経団で構成する委員会のメンバーには、周光武と周光来の件について、プレスに未公開の事項も含めて正確な情報が共有されていた。
月の連邦本部には、リエゾンオフィサーであるミシェル・イーからファン・レインGM以下6名のマオ対策支援グループメンバーに報告し、必要に応じて関係各所への情報共有を依頼していた。
ネオ・トウキョウのマオ対策AOR収容プロジェクトのアーウィンGMとマルティネスには、ダイチから概要を伝えてあった。
いずれにしても、ネオ・シャンハイへの移動については予定を変更することなく進めることを確認。
【身柄を拘束した状態の大人数の組織構成員を移動させる部分が、予定外ではないのですか】と、ネオ・トウキョウの観測調査部のリーダーであるマルティネスが問う。
それに対してダイチが説明する。
[周光立は、ネオ・シャンハイへの移動に先立って、クスリを扱う組織の一斉摘発を予定していました。そのため、相当数の構成員をまとめて移動させることを計画に織り込みスミになっています]
続けてダイチが、ファン・レインGMに質問する。
[スペースプレインと要員の派遣について、どのようになりますでしょうか]
【成都移動時のスペースプレイン追加配備は正式決定しました。ネオ・トウキョウから2月14日に向かわせ、2月25日に撤収する予定ですが、成都の移動が完了するまでは留まらせることとしましょう】とファン・レイン。
[ありがとうございます。それからもう1機予備の派遣についてはいかがでしょう]
【少なくとも移動開始時点ではできません。どうでしょう。状況を見ながら、どうしても必要であれば調整する、ということにしたいのですが】
[かしこまりました。できる限りシャンハイ籍の機材でも対応することとしますが、不測の事態があったときは、ご相談させてください]
【申し訳ないですが、まずはそれでがんばってください。それから要員については、2月3日に着任できるタイミングでシャンハイ籍のスペースプレインの操縦士3名とミニプレイン操縦士のうち5名、整備士2名を派遣できるようにしました】
[ネオ・トウキョウ所属の方々でしょうか]
【そうです】
[それでは、こちらのハバシュにミニプレインで迎えに行かせましょう]
【ありがたい。助かります。さらに成都移動時のエアプレインの操縦士2名とミニプレインの残り15名の操縦士を、2月14日に成都移動時追加配備のプレインで向かわせます】
[ありがとうございます]
【どこまでできるか今は何とも言えませんが、状況に応じてできる限りの支援をしたいと考えています】
[お言葉に甘えなくてもいいように、こちらもできる限りがんばります]
【いざというときには、私がなんとか調整して融通するので、気兼ねせずに泣きついて欲しい】とアーウィンGM。
[ありがとうございます。心強いです]
【ところで、ヒカリ君の具合はどうかね】とアーウィン。
「はい。遠縁にあたる楊清立夫妻のもとで静養していますが、まだ現場復帰は先になりそうです」とダイチ。
【大変な思いをしたのだろうから、無理もない】
「もともとあまり表情を表に出さない性質でしたが、まったく無表情の状態が続いているようです」
[12月のうちにがんばってくれたおかげで、しばらく彼女に頼らずとも対応できます。ゆっくりと静養してもらいます]とアドラ・カプール。
楊清立から主治医に確認したところ、短時間であればカオルが会っても大丈夫だろう、とのこと。ヒカリの母語であるニッポン語で話しかけられるのは、よい影響があるかもしれないとも言ったらしい。
1月12日の日曜日。空は晴れ上がっているが、北風が強くて寒い。カオルは午前中少しだけオフィスで残務をこなし、12時過ぎに楊清立の自宅へと向かった。4人掛けのテーブルのキッチン側に楊清立、その向かいに徐冬香が座り、カオルがその隣、そしてその向かいにヒカリが座った。
粥におかずが3種の昼食。ヒカリは粥を茶碗によそって、レンゲでゆっくりと口に運んでいる。それから小皿にあっさりとした野菜の煮つけを取り分けると、箸でこれもゆっくりと食べている。
[これでも、最初の頃に比べると食欲が出てきているのよ]と徐冬香。
[そうだね。最初は粥を二口、三口だったからね]と楊清立。
[高儷がいれば、好物のカレーライスを作ってもらえるのでしょうけどね]
食事の間、ヒカリもカオルも黙っていた。
食事が終わると、お茶のポットとヒカリとカオルの茶碗を残して、楊清立と徐冬香は食器をキッチンへと運んでいった。
ヒカリの茶碗にお茶を注ぐカオル。
「ありがとう…」と小さな声でヒカリ。
「あの…無理に話さなくていいからね」とニッポン語でカオル。
食器の片づけが終わった楊清立夫妻は、気を遣って夫婦の寝室へと入った。
ヒカリとカオルの間に、しばらく沈黙が続く。
「どうして…なのかな」と再び小さな声でヒカリ。
「うん」とカオル。
再びしばらく沈黙の後、ヒカリがポツリと言う。
「また、見送ることになった…」
「…そうだね」
「どうしてわたしなんだろう。生きて…残されるのは」
そう言うと、ヒカリは視線を下に落として黙り込む。
「君ほど、たくさんじゃない。けれど…僕も見送って、残された」
「…サユリさん?」
「…うん」
視線を上げてカオルの顔を見つめるヒカリ。
サユリに瓜二つのその顔。右の頬に涙が一筋流れた。
「ごめんなさい…」と絞り出すようにヒカリ。
「謝らないで…お願いだから。君は何も…悪くない」
さらにしばらく沈黙が続いた。
「また、会いに来ても…いいかな?」とカオル。
「うん。待ってる」とヒカリ。
「それじゃあ、今日はこれくらいにして」
「うん。じゃあ」
そう言ったヒカリの口元に、さっき流れた涙一筋と同じ分量の笑みが浮かんだ。
立ち上がると、自分が使っている部屋へと向かった。
彼女が部屋に入るのを座ったまま見送ったカオル。
しばらくして寝室から出てきた楊清立夫妻。
[母語の力は大きいね。ここに来てから、これだけ話したのは初めてだよ]と楊清立。
[頃合いを見て、また会いに来てあげてね]と徐冬香。
[はい。事前に確認して、大丈夫そうなら来ます]とカオル。
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