第78章 巨星墜つ
長江流域の上海(人口約40万)、武漢(ウーハン、人口約3万)、重慶(チョンチン、人口約2.5万)、及び長江支流流域の成都(チェンドゥ、人口約5千)には、それぞれ自治組織たる自経団がある。上海には10の自経団があり、それらを統括する自経総団が置かれている。自経総団は総書記と原則として9人の副総書記で構成され、それぞれ1つの自経団の責任者たる書記を兼務している。武漢自経団には地区ごとに漢陽、漢口、武昌の3つの支団があり、自経団の責任者たる書記と副書記2名は、原則として支団の責任者である支団書記を兼務。重慶には同様に3つの支団があるが、人口の少ない成都には支団はない。
上海マオ対策本部は、恒星間天台マオのインパクトに備え、月に本部を置く国際連邦が管轄するネオ・シャンハイへ上海をはじめ4都市の住民の避難を進めるための実働部隊として組織された。その幹部は上海出身、武昌出身の官民から登用された混成メンバーで、国際連邦から派遣され、月から赴任した3名もいる。
主な登場人物
ミヤマ・ヒカリ:本作のメイン・ヒロイン、ネオ・トウキョウでターミナルケアを生き延びた。大陸の武昌に辿り着きダイチたちと行動を共にする、上海マオ対策本部技術第一部副部長、今は亡き同い年の従妹でカオルのフィアンセだったサユリに瓜二つ
高儷:(ガオ・リー)本作のサブ・ヒロインの一人、ネオ・シャンハイのターミナルケア生き残り、武昌支団勤務を経て上海マオ対策本部民生第二部副部長
張子涵:(チャン・ズーハン)本作のサブ・ヒロインの一人、武昌で物流業者を営みつつ上海マオ対策本部民生第一部副部長を務める
カリーマ・ハバシュ:スペースプレインの若手航宙士、上海マオ対策本部民生第一部のミニプレイン操縦士兼整備士
ミシェル・イー:本作のサブ・ヒロインの一人、香港系中国人で本名は于杏 (イー・シン)、上海マオ対策本部リエゾンオフィサー兼連邦アドバイザー
ミヤマ・ダイチ:ヒカリの従兄、中国名は楊大地 (ヤン・ダーディ)、上海対策本部チーフ・リエゾンオフィサー、武漢副書記は兼務
ヤマモト・カオル:中国名は李薫 (リー・シュン)武昌支団副書記兼上海マオ対策本部リエゾンオフィサー
周光武:(チョウ・グゥアンウー)周光立の従兄、上海自経総団副総書記兼第7自経団書記、上海の最高実力者周光来の孫、AF党の実質的オーナー
周光来:(チョウ・グゥアンライ)周光立の祖父。上海真元銀行の創設者にして自経団組織の立役者の一人。89歳にして上海の最高実力者
劉静:(リウ・ジン)周光来の秘書、約40年仕える側近中の側近
周光立:(チョウ・グゥアンリー)ダイチの同級生で盟友、上海マオ対策本部の実務を統括する副本部長、上海自経総団副総書記を兼務、上海の最高実力者周光来の孫
呂鈴玉:(ルゥー・リンユー)周光来のアシスタント
杜美雨:(ドゥ・メイユイ)上海マオ対策本部本部秘書兼庶務担当
艾巧玉:(アイ・チアオユー)モンゴル人、上海トップの総書記兼第2自経団書記で、上海マオ対策本部本部長兼務、周光立の初任時の自経団書記
唐小芳:(タァン・シァオファン)上海真元銀行総裁
ミヤマ・マモル:中国名は楊守 (ヤン・ショウ)、ヒカリとダイチの祖父、調査隊撤収時に大陸に残った。武漢に自経団組織を創設した一人
アドラ・カプール:インド人、上海マオ対策本部技術第一部部長
楊清立:(ヤン・チンリー)ダイチの従伯父、武漢自経団の元書記、現在は武漢と漢陽の顧問を務める
徐冬香:(シュ・ドンシアン)楊清立の妻、武昌支団の幹部の一人で裁判所を統括する
呉桂平:(ウー・グイピン)武昌支団の幹部の一人、民生系の責任者
張皓軒:(チャン・ハオシェン)ダイチの1学年下でカオルの同級生、上海マオ対策本部民生第一部副部長
陳春鈴:(チェン・チュンリン)本作のサブ・ヒロインの一人、武昌支団幹部から上海マオ対策本部秘書に転じ常駐する予定、ダイチ、カオル、張子涵とは幼馴染
現場から最寄りの第10地区と第9地区の病院は、警務隊員の負傷者や失神している構成員の受け入れでごった返しているという。ヒカリは「女子寮」のある第4地区の病院へ運ばれることになった。
第10地区を抜け第9地区の街区にさしかかったあたりで、ヒカリが付き添いの高儷にぽつりと言った。
「あしたは、来月なのね」
【そうね。あしたは来月、そして来年】
「まる半年、生き延びた」
【私も】
第4地区の病院に着いたのは12時頃。すぐに総合検査室に運ばれ、検査が行われた。脳波に激しいストレスの影響が認められる他は、ほぼ正常だった。
13時少し前に病室に移されたヒカリ。運ばれてきた粥を一口、二口啜っているところへ、「女子寮」の面々がやってきた。
興奮させないよう、穏やかな声で話す張子涵。
[シカリ…よかった]
【心配しましたよ】とハバシュが続く。
【ゆっくり…休んでくださいね】とミシェル・イー。
相変わらず無表情のヒカリ。
「みんな、ありがとう…ご心配おかけしました」
ほどなく、武昌から駆け付けたダイチとカオルが入ってきた。検査の間に、ヒカリの所在を高儷がPITで連絡しておいた。
「ヒカリ! 無事でよかった」とヒカリのもとに駆け寄るダイチ。
手を握ろうとして、さらに近寄ったダイチに体を預けるヒカリ。
「こ…ごわがっだ、よお~」
いとこの顔を見て安堵したのか、こらえていた感情が堰を切って溢れたようなヒカリ。ダイチの胸に顔を埋めて大きな声で泣きじゃくる。
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~カオル(李薫)の独白~
ヒカリの無事な姿を見て、本当に安心した。
けれど、やっぱりダイチなんだ…僕じゃなくて。
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年末に起こったAF党の反乱と、首謀者格であった周光武の死のニュースは、上海と武漢、重慶、成都に衝撃をもたらした。
周光武の体は、第10地区の病院で詳しい検死が行われたのち、棺に納められその日の夕刻に周光来の屋敷に運ばれ、周光武が子ども時代を過ごした部屋に安置された。死の直後カッと見開いていた目も、今は瞼が閉じられ穏やかな表情になっている。
周光来は、長年仕えた秘書の劉静に支えられて、孫の部屋に入ってきた。遺体の右腕の側に座った周光立の正面に座り、もう生き返ることのない孫の手を握ると、その顔に自らの顔を近づけてひとこと呟いた。
[光武…]
周光立が、咽び泣きながら祖父に言う。
[…申し訳ございません。私が…私が至らないばかりに…お爺様の言いつけを守れませんでした]
泣き崩れる周光立。
[自分を…責めるでない、光立…至らなかったのは、この老人だ]
周光来が周光立に、なだめるように声をかけた。
30分ほど動かなくなった孫の傍らで過ごすと、周光来は立ち上がった。控えていた劉静がそっと手で支える。
[すまぬ。少し疲れたので、休むこととする]
そう言うと、周光来は劉静に伴われて自室へ向かった。
周光立は、片時も離れずに周光武の横に寄り添い続けた。食事も、周光来の料理人が用意した粥を少し啜ったくらいだった。
棺の横に布団を敷かせて横になったが、ほとんど眠れないままに新しい年を迎えた。
周光来のアシスタントである呂鈴玉が急を告げにやってきたのは、朝6時頃だった。周光来に付き添っていた劉静に、周光来が危篤だと呼びに行くように命じられたのだという。
速攻でズボンと靴下を履くと、周光立は、シャツを着ながら彼女の後を追って周光来の部屋へと急いだ。
部屋に入ったとき、ちょうど劉静が周光来の横に寄り添って、脈を診ているところだった。彼女は看護師の資格を持っている。
[どうですか]と、横に立って周光立が聞く。
[思わしくありません。脈もだんだん細くなってきています]
劉静によれば、周光武の部屋から戻ると、夕食もとらないままずっと横になっていた。昼も抜いていたので、彼女が点滴をしようとすると「余計なことはせんでいい。医者も呼んではならぬ」と言ったという。
[11月の助理会以降、ずっと調子はよろしくありませんでした。いつその時が来てもおかしくない状態でした。今度のことで、きっと…]
[今からでも医師を呼べないのですか?]と周光立。
[ご本人の意思に反することはできません。それに、同じことだと思います]
長年寄り添ってきた老看護師の言葉には、重みがあった。
[わかりました。処置はお任せします]
朝8時頃、周光来の意識が戻った。周光立、劉静、呂鈴玉の他に、長年仕えてきた料理人と運転手兼ボディーガードの男性二人が部屋に揃っていた。
消え入るような、それでいてしっかりと通る声で周光来が語りかけた。
[みな、長年に亘り…よくしてくれた。礼を言う]
呂鈴玉と料理人の頬に涙が伝った。
[なるべく静かに逝かせてもらいたい]
[葬儀、のことですか]と周光立。
[そう…唯一となった家族であるお前と…ここにいる者たちだけで送って欲しい]
[わかりました。仰せのとおりとします]
[結局、連邦の世話にならずにすんだ…ということかのう…わが人生に…悔いはない。願わくば、孫二人とも…]
そう言うと周光来は再び目を閉じた。
第四次世界大戦後の苦難の時期に、志と反骨心をもってコミュニティーをまとめ、上海真元銀行と自経団を立ち上げた立役者である周光来は、その日の午前9時55分に、眠りながら息を引き取った。春節明けに90歳の誕生日を迎えるところだった。
昨日の騒動についてのプレス対応は、ダイチと対策本部秘書の杜美雨が行っていた。周光来逝去のリリースも、二人が行うこととなった。いわく「上海真元銀行名誉総裁の周光来が、本日10時前に死去。死因は心不全。享年89歳。葬儀は近親者のみで執り行う。故人の遺志により、弔問等は一切控えてほしい」
昨日の周光武の死に続き、その祖父であり上海の最高実力者である周光来の死の報は、さらに大きな衝撃となって伝わった。その日の午後から、周光来の自宅の前に、弔意を表すために集まる人々がいた。多くは年配の人たちだった。
弔問は一切辞退、としたものの、昨年9月に鶴雲楼に集まった9人の長老、上海自経団を代表して艾巧玉総書記、上海真元銀行を代表して唐小芳総裁、武漢以下3自経団を代表してダイチ、連邦を代表してミシェル・イーが「お別れの面会」を行うこととなった。
17時。周光来の執務室に、面会メンバーが揃った。かつてダイチが周光立、ヒカリ、高儷と一緒に周光来に会見し、恒星間天体マオの衝突のことについて進言した場所である。
長老から序列順に2、3人ずつ周光来の部屋に行き、各10分ほど過ごすと出てくる。続いて艾総書記と唐総裁。最後にダイチとミシェル・イーである。
部屋に入ったダイチとミシェル・イーは、それぞれの流儀で故人に対する弔意を表すと、喪主である周光立のほうを向く。
[二人とも、ありがとう。楊守の血を引く楊大地が最後に会ってくれて、爺さんも喜んでいると思う]と周光立。
[…どう言ったらいいか…ごめんなさい、言葉が見つかりません]とミシェル・イー。
[いいんです。気になさらないでください]
[できることがあれば、言ってくれ]とダイチ。
[恥ずかしながら、こんな状態ではまともに執務ができない。楊大地、しばらく上海にいて、副本部長代行として対策本部を取り仕切ってくれないか]
[わかった。及ばずながら務めさせていただくよ]
それからしばらく、騒動の始末についてと、周光立が気になっている案件について、ダイチに説明した。
[委細わかった。心配しないで、落ち着くまで過ごしてほしい。時々MATESで状況報告するよ]
[よろしく…たのむ]
立ち上がりかけた二人に、周光立が聞く。
[シカリの具合は、どうかな]
[興奮状態は収まって落ち着いてきている。執務ができる状態ではないが]とダイチ。
[彼女にも、しばらくゆっくりしてもらってほしい]
[わかった。そうさせるよ]
ダイチとミシェル・イーがヒカリの病室に入ったとき、ちょうどヒカリは、高儷が差し入れたカレーライスの夕食を終えようとしているところだった。「女子寮」メンバーが交代で付き添いに来ているらしく、張子涵が付き添っていた。
ほどなく、見舞いに来ていたヒカリの上司、上海対策本部のアドラ・カプール技術第一部部長がお手洗いから戻ってきた。
[どうだい、周光立の具合は]と張子涵。
[さすがに、かなり応えているようだ]とダイチ。
[なんか…ほんとにお気の毒で]とミシェル・イー
[そうか。じゃあしばらく仕事どころじゃないな]
[それで、ここに来る前に艾総書記と相談してきた。1月1日付で周光立を休職として、自分が副本部長代行を兼務する]
[すると、しばらくこちらに常駐されるのですか]とアドラ・カプール。
[はい。そうなります。それからこれはカプール部長に関わってくるのですが]
[ヒカリさんのことですか」
[はい。1月1日付で休職とさせてやりたいのですが、よろしいでしょうか]
[大丈夫です。彼女は昨年のうちにものすごくがんばってくれたので、他のメンバーで回していける基盤ができています。しばらくゆっくりさせてあげてください]
気を遣ってふだんより小さめの声でする皆のやりとりを、ヒカリは他人事のような表情で聞いている。
[で、シカリは休職中どこで過ごすんだい]と張子涵。
[いろいろと考えたが、武昌で過ごさせてはどうかと思う。楊清立伯父にさっき連絡した。預かってもらえる]
[楊顧問と徐冬香法院院長のところなら、安心だな]
[そういうことだ]と言うと、ダイチはヒカリに向けて言う。
「ヒカリ。構わないな?」
うつろな表情で微かにうなずくヒカリ。
「明日、3地域から上海本部スタッフに転属になる警務隊員を迎えに、ハバシュがミニプレインを飛ばす。キミはカオルと一緒に、プレインで武昌に戻るように」
[お医者さんのほうはいいのですか?]とカプール。
[ここに来る前に主治医に事情を説明して、カルテを武昌の医師に送信して、引き継いでもらうことにしました]とミシェル・イー。
[楊伯父のかかりつけ医で、私も診てもらったことがありますが、信頼できる医師です]とダイチ。
[さてと…これから話すのは、シカリ以外の「女子寮」4人の総意なのだが]と張子涵。
[どうした。勿体ぶって]とダイチ。
[我らが副本部長、周光立のメンタル面のケアをどうするかだ]
[しばらく周光来のところに住むらしいから、劉静やアシスタントたちがいる]
[でも彼らは、お爺様の使用人。立場上、なかなか苦しい胸の内を明かせないんじゃないかと思うの]とミシェル・イー。
[ところで、我が民生第一部の支団窓口スタッフは、1月1日付で30名増員になって、総勢40名の大所帯ができる]と張子涵。
[確かにそうだが、それが周光立のメンタルケアと、なんの関係があるんだ]
[副本部長代行。本格的な移動に向けて要となる部門のスムーズな業務運営には、優秀なサポートスタッフが欲しいところだ]
[つまり…そういうことか?]
「デリカシーに欠ける武昌の男ども」の一員であるダイチも、思い当たったようだ。
[直属の上長の呉桂平武昌支団民生局局長の内諾はいただいている]と張子涵。
[本人には言ったか?]
[いや、正式に決まってからと思っている]
[張皓軒の担当チームだと思うが、彼には話したのか?]
[私から話しました。大賛成でした]とミシェル・イー。
[了解。この後、武昌支団のグエン書記に連絡して承諾をもらう。そうしたら自分から本人に連絡する]
[こちらへはいつ?]とカプール。
[善は急げ、と言う。明日のミニプレインに乗って上海へ赴任するよう伝える]とダイチ。
高級中学以来の盟友のためになることだけに、彼は最速で意思決定をした。
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