第92章 衝撃波
長江流域の上海(人口約40万)、武漢(ウーハン、人口約3万)、重慶(チョンチン、人口約2.5万)、及び長江支流流域の成都(チェンドゥ、人口約5千)には、それぞれ自治組織たる自経団がある。上海には10の自経団があり、それらを統括する自経総団が置かれている。自経総団は総書記と原則として9人の副総書記で構成され、それぞれ1つの自経団の責任者たる書記を兼務している。武漢自経団には地区ごとに漢陽、漢口、武昌の3つの支団があり、自経団の責任者たる書記と副書記2名は、原則として支団の責任者である支団書記を兼務。重慶には同様に3つの支団があるが、人口の少ない成都には支団はない。
上海マオ対策本部は、恒星間天台マオのインパクトに備え、月に本部を置く国際連邦が管轄するネオ・シャンハイへ上海をはじめ4都市の住民の避難を進めるための実働部隊として組織された。その幹部は上海出身、武昌出身の官民から登用された混成メンバーで、国際連邦から派遣され、月から赴任した3名もいる。
主な登場人物
ミヤマ・ヒカリ:本作のメイン・ヒロイン、ネオ・トウキョウでターミナルケアを生き延びた。大陸の武昌に辿り着きダイチたちと行動を共にする、上海マオ対策本部技術第一部副部長、今は亡き同い年の従妹でカオルのフィアンセだったサユリに瓜二つ
張皓軒:(チャン・ハオシェン)ダイチの1学年下でカオルの同級生、上海マオ対策本部民生第一部副部長、ミシェル・イーと入籍
高儷:(ガオ・リー)本作のサブ・ヒロインの一人、ネオ・シャンハイのターミナルケア生き残り、武昌支団勤務を経て上海マオ対策本部民生第二部副部長
ミヤマ・ダイチ:ヒカリの従兄、中国名は楊大地 (ヤン・ダーディ)、上海対策本部副本部長代行兼チーフ・リエゾンオフィサー
張子涵:(チャン・ズーハン)本作のサブ・ヒロインの一人、武昌で物流業者を営みつつ上海マオ対策本部民生第一部副部長を務める
グエン:ベトナム人、中国名は阮華 (ルアン・フア)、武漢副書記兼武昌支団書記、ヒカリの元上司
周光立:(チョウ・グゥアンリー)ダイチの同級生で盟友、上海マオ対策本部の実務を統括する副本部長、上海自経総団副総書記を兼務、上海の最高実力者周光来の孫
ジョン・スミス:ドイツ人、武昌で電気電子修理工房を営んでいたが、店を閉店、今は上海マオ対策本部技術第二部副部長
ヤマモト・カオル:中国名は李薫 (リー・シュン)武昌支団副書記兼上海マオ対策本部リエゾンオフィサー
ミヤマ・サユリ:中国名は楊小百合、ダイチの妹、カオルのフィアンセ。1年前に病死
トンチャイ・シリラック:上海マオ対策本部連邦アドバイザー
陳紅花:(チェン・ホンファ)商物流業者の首領の一人、張子涵と親交がある、上海マオ対策本部民生第一部副部長
18時19分、突風の到達予測時刻まで残り27分になっていた。
[生体スキャンは?]と張皓軒に高儷が叫ぶ。
[ちょっと待ってください…結果が出ました。現地点から第7層にかけては反応無し。周辺にも李薫の識別番号による反応はありません]
[船内に留まっているかもしれない]とダイチ。
[武昌を出る前から様子が変だった。PITの電源が切れて眠り込んでるのかもしれない]
[あたしも注意しておくべきだった]と言う張子涵。
その横を通って、ダイチが扉のほうへ向かう。大きな扉はすでに閉じられ、人一人が通れる緊急用扉だけが開いていた。
[楊大地、どうするつもりですか?]とグエン。
[一人で行かせるわけにはいかない]と周光立。
[自分も行きますぜ]とジョン・スミス。
[いや、私が一人で行きます。武昌撤収の責任者は私です。全員を安全に収容する責任があります。と同時に副本部長代行として、多くの方を危険に晒すわけにもいかない]
[なにも楊代行が行かなくても]と張皓軒。
[下船時の確認を怠ったのも私の責任だ。それに彼の状態によっては、ニッポン語でコミュニケートが必要かもしれない]
[わかった。議論している時間が勿体ない。楊大地に任せよう]と周光立。
扉を抜けて外に出ようとするダイチの背中に、すがりつくかのような声をかける張子涵。
[楊大地…約束だぜ]
[ああ、たっぷりおめかしして待っていてくれ]と言うと、ダイチは振り向いて笑顔を張子涵に投げた。
それから扉のところに行って、ジョン・スミスに小声で一言。
[いざというときは、私たちのことは構わずに、お願いします]
そして彼は外へと出て行った。
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~ダイチ(楊大地)の独白~
走って武上号の舷側に着いたときには、18時26分になっていた。
「カオル!」
船全体に向かって呼びかける。返事はない。
たぶん下層の船室だろう。ボクは船に乗り込み、階段を下りていく。「カオル!」と呼びかけながら、区画ごとに探していく。
一番奥の区画に彼を発見したのは18時35分。瞼を閉じてピクリともしない。「カオル!」とさらに呼びかけながら肩を揺らすと、あたかも振動で勝手に開いたような形で、彼は目を開いた。
「さあ、行くぞ」とボク。
カオルは虚ろな目で、答えようとしない。
「いったいどうしたんだ?」
「ぼ、僕は…このままここにいて…サユリの元へ行く」
「何を言っているんだ」
「僕は…彼女のいるネオ・シャンハイへは…行かない…行けない」
「ひょっとして、おまえヒカリと何かあったのか?」
「…どうして…」
「今朝ヒカリとPITで話した。お前に謝らなければならないことがある、と言っていた」
「…嘘でしょう?」
「俺が嘘を言ったことがあるか?」
「本当なんですか?」
「ああ。だからおまえは、サユリの元ではなく、ヒカリの元へ行かなければならない。そして、ヒカリと話をしなければならない」
「…わかりました」
カオルが荷物を持って立ち上がったときには18時38分になっていた。ふらつく足下の彼に、ボクが肩を貸して、船室から表に出る。空はさらに不気味な色の曇り空。
埠頭に上がったところで、カオルの足がしゃんとしたように見えた。
「時間がない。走れるか?」
「はい」
登録ゲートに向かって走り出してしばらくしたとき、カオルの後頭部を握りこぶしほどの大きさの噴出物が直撃した。膝からへなへなと崩れ落ちるカオル。荷物はあきらめて、後ろ向きになって彼の体を引き摺るようにして、皆が待つ登録ゲートのほうへ、じりじりと近づいた。
あと20m、というところまで来ただろうか。
鼓膜が破れんばかりの爆音…
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~ヒカリの独白~
マオのインパクトにより発生する電磁波などが、シスターAIの稼働、そしてマザーAIとの通信に悪影響を及ぼさないかをモニタリングするため、6月14日の早暁から、わたしは地下7層のメインオペレーションルームに詰めた。
6時頃、電波状態のモニタリングの意味も兼ねて、ダイチのPITに電話した。用件はほとんど話せたけれど、案の定、インパクトの直前に通話が切れた。
それからは、月のシリラックと連絡してマザーAIとシスターAIとの連携を確認。やはりインパクトの際に強烈な電磁波の撹乱が生じたらしく、そこここに連携の不具合が起こっていた。一つ一つシリラックとチェックのうえ調整をし、ひととおり終わったときには、お昼近くになっていた。
その時点では、ダイチたちの乗る武上号は14時頃到着予定だったけれど、13時頃に機関が完全に止まって、17時から18時の間に到着予定に変更になったとのこと。本当にギリギリ。そのままオペレーションルームでモニタリングを続けていたら、17時50分に到着したとの知らせが、陳紅花からの一斉MATESメールで送られた。
実は午後のモニタリングは気が気じゃなくて、「上の空」状態だった。だから無事到着したと聞いて、心底ほっとした。
やっとダイチに会える。張子涵に会える。
そして…カオルに会って、この前のことを謝って、もう一度彼としっかり向き合おう。
エレベーターホールから、武昌の後衛部隊の人たちがオペレーションルームの前を通って、三々五々自分の区の避難区画に向かっている。
一瞬、地下7層の躯体がしなったような気がした。衝撃波が襲ったのだろう。
それにしてもダイチやカオルが通るのが遅い。登録ゲートでなにか不具合でもあったのかしら。
6人乗りの自動運転のカートがエレベーターホールのほうへ向かっている。医師と看護師らしき人たちが二人ずつ。医療ロボットらしきものも二体。
エレベーターの扉が開いたらしい。女性の悲痛な叫び声が聞こえてきた。
「ダーディー、ダーディー…」
ダイチの名を呼ぶその声の主は…張子涵?
第5部をお読みいただき、ありがとうございました。
失敗した反乱の試みと、失われた生命。ショックと傷心から立ち上がる過程で生まれた二つの愛。結ばれた者と結ばれるであろう者。万全の状態で進むかに見えて避難計画も、数々の想定外の事態を迎え、それでも何とかぎりぎりに間に合うように見えましたが…。
第6部は、インパクトに備えて選抜され火星へ向かった少年と少女の物語です。第5部までの主要な登場人物たちのその後も紹介されますので、引き続きぜひ、お読みください。