第一話 鉛の傭兵、異世界に立つ
報告を受けたオラフィナは急いで城門へと向かっていた。ウラヌス王国は周囲を城壁で囲まれており、一見すると草原の中に巨大な壁があるようにも思えるような作りをしている。
突然の魔物来襲の報告を受け一瞬頭が真っ白になったが、その意味を理解した次の瞬間に、その足は思わず走り出していた。
「いけません、オラフィナ様!」
背後からヒルダの引き止める声がしたが、それでも構わずにオラフィナは広場を目指した。
(皆さんが戦っているのに、私だけ黙って見ている訳にはいかない!)
オラフィナは地上へと続く長い階段を駆け昇る。その途中でまた大きな揺れを感じたが、それでも構わずに走り続けた。
やがて一筋の光が見えてきた。もうすぐ地上へと出る、そう感じて思わず杖を握る手に力がこもる。
最後の階段を昇り終えて地上に出たオラフィナだったが、出た瞬間に何かに躓いて転んでしまった。
「きゃあっ!」
地下から走ってきた勢いのままに転んだオラフィナは短い悲鳴をあげる。
「っ、何が…」
転んだ際の少し強めの衝撃に咳き込みながら、自分が何に躓いたのかを確かめるべく、後ろを振り向いた。そして、思考に空白が生じた。
「……う、ぐぁあ…」
そこには一人の衛兵が倒れていた。城門の警備をしていた者だったのだが、その姿は無残にも変わり果てていた。
仰向けで倒れている衛兵は全身血まみれで、右腕は捻じれておかしな方向を向いていた。両足はもっとひどく、膝から下あたりで切断されていた。断面が潰れたような形であることから、恐らくは切れ味の悪い大剣のようなもので、無理に叩き斬られたのであろうことが分かった。
無残な姿となった衛兵を目の当たりにし、オラフィナは茫然となりながら周囲を見渡した。
地面は衛兵と魔物の血で汚れ、至る所が赤く染まっている。周囲には死体が散乱し、魔物がそれを踏み潰しながら衛兵を襲っていた。衛兵も必死に応戦するが、あまりの体格差に防戦一方となっている。
日常の風景とはあまりにかけ離れてしまっているその有様に、オラフィナは完全に固まってしまう。
そこに巨大な影が覆いかぶさった。のろのろと顔を上げると、そこには一匹の魔物が立っていた。腰蓑だけの姿に巨大な斧を持った魔物は、オラフィナを見てニタリと嗤った。黒ずんだ汚い歯を見せ、涎を垂らしているその魔物はゆっくりと斧を振りかぶる。
(わたし、死ぬのかな?)
しっかりと自分に狙いを定めている斧を見ながら、しっかりと握っていたはずの杖すら手放し、オラフィナはどこか他人事のようにそう思った。逃げなくてはと頭では分かっているのだが、何故か体が動かない。それどころか視線さえも目の前の斧に釘付けになっており、まるで処刑されるのを待つ罪人のようにじっとしていた。
「オラフィナ様っ!!!」
今まさに斧が振り下ろされようとしたその瞬間、オラフィナの背後から誰かが飛び出してきた。その人物は手にしていた剣を魔物の喉元へと突き立てた。
「グゲェアァ!」
喉に剣を突き立てられた魔物は、まるで潰れたカエルのような断末魔の叫びをあげ、倒れながら絶命した。剣を突き立てた人物は、倒れた魔物の喉から刺さったままの剣を素早く引き抜き、オラフィナに向き直った。
「ご無事ですか、オラフィナ様!?」
「ヒ、ヒルダ…」
オラフィナの目の前に現れたのはヒルダだった。オラフィナが聖堂から走ってきた後を追ってきていたのだ。
「遅れてしまい申し訳ありません。二度目の揺れで聖堂の柱の一つが倒れて通路がふさがり、手こずってしまい」
ヒルダは短く謝罪し、地面にへたり込むオラフィナを丁寧に抱き起こす。オラフィナはヒルダの腕にしがみ付き、顔面蒼白になり震えていた。それも無理もない。目の前の凄惨な光景は、いくら王族だからといえども十代の少女にはあまりに刺激が強すぎる。
「安全な場所までお連れします。こちらへ」
ヒルダは自身が壁となって、なるべく広場の様子を見せないようにしながらオラフィナを王宮へと連れて行く。それでも戦闘の音は避けられず、オラフィナは空いているもう片方の手で一生懸命に耳を塞いだ。
「ひっ!…いやぁ…助けてぇ……!」
「…ッ」
カタカタと震え、固く閉じた瞳から涙を流すオラフィナを見て、ヒルダは胸が締め付けられるような感覚に襲われる。しかし魔物はそんなことなどお構いなしに襲い掛かってくる。剣を振り上げ襲い来る目の前の魔物を鋭く睨み付け、ヒルダは雄叫びをあげながら立ち向かう。
「邪魔だ、どけぇ!!」
ヒルダの剣技は凄まじく、襲い来る魔物たちを一閃の元に切り捨てていく。四体目の魔物を倒し、ようやく王宮へと辿りついたヒルダは急いでオラフィナを侍女たちに預ける。
「陛下はご無事か?」
「は、はい!先程お戻りに。その、オラフィナ様は?」
「大丈夫だ。少しショックを受けているが、お体に別状はない」
侍女にオラフィナの状態を短く伝えると、ヒルデはすぐに城門へと戻っていった。
オラフィナは侍女たちに支えられながら、何とか自室の椅子まで辿りつく。室内には侍女を二人だけ置き、衛兵は部屋の前に待機させている。
オラフィナは気を落ち着かせるために出された紅茶を手に取ったが、口を付けようとはしなかった。先程の光景が脳裏をよぎり、胃の中から嫌なものがせり上がってくる。
「うっ…!」
「姫様!」
「どこかお怪我を!?」
体を曲げて必死に吐き気を堪えるオラフィナの背中を、侍女たちが優しくさする。
「姫様、やはり横になられた方が…」
「だい、じょうぶ、です……。ありがとう…」
横になることを進められるが、オラフィナはそれを優しく断る。しばらくしてようやく気分が落ち着き、オラフィナは自身の不甲斐なさを悔いた。
(今は魔物との戦時中だというのに、私がこんな有様では、共に戦ってくれている皆さんに申し訳が立たない……)
心のどこかでは、魔族との戦争を軽く見ていた自分がいるのではないか。オラフィナはそのことを心から恥じた。
自分も必要とあらば戦闘に参加するつもりでいた。しかしいざ戦場に立ってみると足がすくみ、動悸は乱れた。戦場の空気にあてられ、何も出来なかった。
こんなことで何が戦う、だ。
(…行かなきゃ)
オラフィナは挫けそうになる心を奮い立たせ決心する。もう一度、あの戦場へ戻って戦うと。
「怯むな!!我らが死ねば民を守る者はいなくなるぞ!!」
襲い来る魔物たちと戦いながら、ヒルダは周囲にいる兵士たちに声を張り上げてそう言った。辺りには多くの仲間が倒れていた。
攻撃を受け痛みに喘ぐ者、戦意を喪失し泣き叫ぶ者、すでに息絶えて物言わぬ骸と化した者、そしてその骸を踏みつけて王国内に侵入しようとする魔物たち…。つい先ほどまであった平穏は姿を消し、そこにはただただ無慈悲な戦場だけが広がっていた。
「グルアァァアッ!!」
「ぐっ!」
ヒルダは魔物の力任せの棍棒による一撃を、身をよじり何とか回避する。すかさず魔物の後ろを取ったヒルダは腰に差した短剣を引き抜き、がら空きになった後頭部に突き立てた。
絶叫することもなく即死した魔物はそのまま倒れ込む。これまでヒルダが倒した魔物の数は十二。しかしそれほどの数を倒せども、魔物の数は一向に減らない。それどころか、味方は次々に倒され、ヒルダたちは確実に追い詰められていった。
「隊長、もう門が破られます!王国内に戻り、城門付近で防壁魔術を張りましょう!!」
焦りが見え始めたヒルダの元に兵士の一人がやって来て、そう進言する。
「だめだ!その時魔物に侵入されては元も子も無い!」
「しかしっ、このままでは……!」
「とにかくここで足止めするぞ!その間にもっと増援を呼んで来い!」
ヒルダは騎士の出した案を却下し、あくまでこの場で防衛することにした。現在城門は閉じられているが、自分たちが入る際に魔物が押し寄せれば簡単に侵入を許してしまう。それだけは回避しなければならない。よってヒルダは、ここで防衛に徹することに決めた。
しかし事態は一向に好転しない。魔物は勢い付き、今にも城門を破壊せんと暴れ回っている。
その時、一際巨大な、牛のような頭をした一匹の魔物が城門付近の兵士たちをなぎ倒し、勢いよく城門に突進してきた。
ズドンッ!!!とまるで大砲の直撃を受けたような轟音は響き、門の一部が大きく歪んだ。分厚いが所詮は木で出来た門は、あと二発でも突進を受ければ壊れてしまうだろう。牛頭は後方に下がり、さらなる一撃を加えるべく助走の構えを取る。
「させるか!!」
ヒルダは近くに落ちていた槍を手に取り、その魔物に向かって走った。そして倒れていた魔物の死体を踏み台にして大きくジャンプし、牛頭の背中目掛けて渾身の力で槍をねじ込んだ。
「ガアアアアァァ!?」
「くぁ!?」
槍を突き刺した瞬間、ヒルダは暴れ出した牛頭により振り落とされてしまう。
背中を槍で深く抉られた牛頭は激痛によりめちゃくちゃに暴れ回り、周囲にいた者は敵味方関係なくなぎ倒された。その際に振り回した腕が城門に当たり、大人が入れそうなほどの大きさの穴が開いた。
(しまった、城門が!!)
牛頭の予想外の暴れっぷりに、ヒルダは思わず舌打ちをする。しかし牛頭はヒルダの方を向き、怒りに満ちた目で狙いを定めた。闘牛がそうするように地面をガシガシと蹴り、ヒルダに向けて突進の構えを取った。
「やはりこちらに来るか…!」
槍を突き刺したのち、ヒルダは素早く離れて距離を取っていた。まずいことに地面に衝突する際に右の足首を捻ったらしく、先程までのような動きは恐らく出来ないだろう。
ならば取るべき行動はたった一つ。
ヒルダは自分の腰に差していた愛剣を抜いて、牛頭に向かって構える。疲労のせいか、いつもなら自分の腕のように振るえるはずの剣がやけに重く感じられた。すでに全身に疲労が回っている自分と、怒りに狂った魔物。勝率は低いが、それでも引くわけにはいかない。
「来い、貴様の相手はこの私だ!!」
その言葉を皮切りに牛頭が動いた。進行方向にある魔物の死体などは路傍の石のように跳ね飛ばし、ヒルダに向かって真っすぐに突進してくる。
(今!)
牛頭の角がヒルダの体を抉るその瞬間、ヒルダは身をかがめてその巨体の下に潜り込んだ。そしてそのまま流れるような動きで左脚を斬りつける。
「ギッ!!」
斬りつけられた箇所から血が吹き出し、ヒルダの頬に飛ぶ。ヒルダは地面を転がりながら再び距離を置く。一方左脚を斬られた牛頭は態勢を崩し、勢いを殺せぬまま地面を転がっていった。今度は暴れるようなことは無く、牛頭は立ち上がろうともがいていた。
ヒルダは痛む足を無理に動かし、今度こそ確実に息の根を止めるべく、牛頭へと駆け出す。
(奴が痛みに気を取られている隙に仕留める!)
しかし、ヒルダが剣を構え、あと数瞬で剣を振り下ろすところで牛頭の魔物と目が合った。
ヒルダの存在を確認した牛頭は近くに転がっていた丸太を両手で掴み、それを力任せにヒルダに向けて投擲する。
「ぐっ!?」
突如目の前まで迫ってきた丸太を、ヒルダは地を蹴って大きくジャンプすることでなんとか避けた。
しかし、それが致命的な隙となってしまった。
ヒルダが気が付いた時には、既に牛頭は眼前まで迫っていた。脚の負傷を感じさせない俊敏な動きでヒルダに近づき、その剛腕を大きく振りかぶっていた。
(しまっ…!)
空中で身動きの取れないヒルダは咄嗟に持っていた剣を手放し、胸の前で両腕をクロスするような態勢を取り、来るであろう衝撃に備える。
その瞬間は裏切られる事無く訪れる。牛頭の前腕部分はヒルダの体に叩き込まれ、ヒルダの体は宙を舞う。
ゴッッ!!!
「がふっ……!?」
腕でしっかりと防御の姿勢を取ったにも関わらず体の芯が揺さぶられるような一撃に肺の空気が一気に吐き出された。
呼吸が一瞬止まった。ヒルダがそう感じた時には既にその体は宙を舞っていた。たっぷり十メートルほどの距離を飛ばされたヒルダの体は地面に衝突し、そのままごろごろと転がってやっと止まった。
「…あ、がぁ………!」
殴られた衝撃に続き地面に叩き付けられた衝撃により、ヒルダは立ち上がることも出来ず地面に倒れたまま動けずにいた。脳震盪によりぐらぐらと揺れる視界の端にゆっくりとこちらに近づいてくる牛頭が見えた。のろのろと辺りを見回すと共に戦っていた兵士たちは次第に地に伏しはじめ、いつ全滅してもおかしくない状況だった。
何とか態勢を立て直そうとするが、手足は自分の意思とは関係なく震え、立つことさえままならない。ヒルダは悔しげに唇を噛み、近づいてくる牛頭を睨み付けた。牛頭の手にはその体格に見合う巨大な斧を担いでいる。おそらくはあれが奴の本来の得物なのだろう。
あれで殺されるのか。
ヒルダは半ば諦めた頭でぼんやりとそう思った。
いよいよ目の前に牛頭がやってきて、ゆっくりとした動作で斧を振りかぶる。
(オラフィナ様……申し訳ありません……)
自分が死ぬのは構わない。しかしその後の国のことを考えると、やはりどうしても悔しさが残った。最後にオラフィナのことを気にかけながらヒルダは目を閉じ、斧が振り下ろされるその時を待った。
「ファイア・ショット!!」
そんなヒルダの耳に、何者かが呪文を唱える声が聞こえてきた。
次の瞬間、牛頭の背中に三つ、人の頭と同じくらいの大きさの炎の塊がぶち当たっていた。牛頭は頭上に振りかぶっていた斧を取りこぼし、苦しそうにのたうち回る。
ヒルダは炎の当たった箇所を見てみると、そこは大きく焼け爛れ、一部は黒く炭化している箇所もあった。どうやらただの炎では無く魔力を帯びているようだ。この魔物は魔法系の攻撃が弱点らしく、槍の一撃を受けた時よりも苦しそうに悶えていた。
「ヒルダ、無事ですか!?」
「オ、オラフィナ、様…!?」
牛頭が苦しんでいる姿を茫然としたまま見ていたヒルダに、突然声がかけられる。声のした方を見てみると、そこには杖を構えた姿のままのオラフィナがいた。
「何故ここにいるのです!?早く王宮にお戻り下さい!!」
ヒルダは倒れた格好のまま、怒鳴るようにそう言った。しかしオラフィナは杖を構えたままその場を動かず、牛頭を睨み付けている。どうやらオラフィナはこの魔物を自分で倒すつもりらしい。
「この魔物は魔法が弱点なのでしょう、ならば私が相手をします!その隙にヒルダは態勢を整え直して下さい!」
「オラフィナ様…!」
ヒルダは未だ悲鳴を訴え続ける自分の体を恨んだ。牛頭から受けた攻撃は思った以上に重く、どうやら右腕とあばらの骨が数本折られたらしい。おまけに地面に叩き付けられた時の衝撃で内臓にもいくらかダメージを負ってしまった。このままでは満足に動くことも出来ない。
(くそ、こんな時に!)
その時、ヒルダの視界の隅で何かの影がのそりと動いた。見るとそこには牛頭が立ち上がっており、落とした斧を拾い上げていた。
再び斧を手にした牛頭の頭の中にはヒルダの存在は無いらしく、ヒルダに向けていた以上の憎悪をオラフィナに向ける。
「グルゥアアアアアアアァアアアアアアアアアアアア!!!」
「っ!!」
牛頭は周囲の空気が振動するほどの大音量で吠えた。オラフィナは思わず後ずさりしそうになる足に目一杯力を入れ、必死にその場に留まった。
怖くない訳が無い。
こうして魔物と向き合っているだけで全身から汗が吹き出し、着ているドレスは肌に張り付いて不快感を与える。意図せず動悸が早くなり、肺にうまく酸素が取り込めない。生物としての本能が逃げろと危険信号を発しているのが分かった。
それら全てをオラフィナは無理やり抑え込み、ぐっと杖を握りしめる。
(ここで逃げたら、多くの人が危険にさらされてしまう)
それがオラフィナをこの場所に留める理由だった。
もともと正義感の強いオラフィナだったが、その思いとは裏腹に、自らの心の弱さが原因で何も出来ずにいた。
今この場でこの魔物を倒しうる可能性があるのはオラフィナしかおらず、他の兵士たちは未だ多くの魔物たちの対処に追われている。もともと正義感の強いオラフィナだったが、その思いとは裏腹に自らの心の弱さが原因で何も出来ずにいた。
しかし今は違う。
自国の民を守りたいと思う気持ちが、彼女に勇気を与える。
「守るべき民のため、貴方は私が倒します!」
先に動いたのは牛頭だった。
オラフィナとの距離は三十メートルほど離れていたが、牛頭はその巨体を生かして一気に距離を詰めようとする。獲物を手に突進する牛頭、しかしオラフィナは慌てる事無く杖を構え、呪文を唱える。
「ファイア・ショット!」
オラフィナは先程牛頭を悶絶させた魔法を撃った。この魔法は魔術師たちが習得する魔法の中でも初級に位置付けられるものだ。しかし炎系統の魔法は総じて威力が高い傾向があり、戦闘の際にも十分威力を発揮する。
突進する牛頭は炎の塊を避けるような事はせず、手にしている巨大な斧を顔の前方に構えて急所だけを守る構えを取り、真っ向から迎え撃った。
炎がぶつかりその巨体を焼き焦がすが、それでも牛頭の勢いは止まらない。いよいよ目前に迫った牛頭は、オラフィナのちょうど胸の辺りを両断するように、力任せに斧を振るった。
「オラフィナ様!!」
遠くでヒルダが鬼気迫る声で叫んだ。牛頭は鍛え込まれたヒルダでさえも防ぎきれない力を持つ。そんな一撃をオラフィナが受ければ、その小さな体は見るも無残な姿になってしまうだろう。
しかし、その光景は現実になることは無かった。
「くぅっ!」
オラフィナの体に斧がぶつかる直前で、斧はまるで見えない壁にぶつかったかの様に弾かれた。オラフィナは多少態勢が崩れはしたが、しかしそれだけだった。
オラフィナはこの場所に来る前に、あらかじめ自身の体に防御魔法をかけていたのだ。この防御魔法というものは対象の全身を覆う、目に見えない鎧のようなものだ。物理的な攻撃はもちろんの事、その防御性能は魔法に対しても有効だ。
だが欠点もある。一度発動するとその効果は術者が解除するまで続き、自動的に魔力を吸収し続ける。それ故に大抵の場合は魔力石というものを身に着け、それから魔力を吸収させるのだが、オラフィナはそんなものを持っている様子は無い。
生来、他人よりも魔力の量が大幅に多いオラフィナだからこその戦法である。おまけに通常は防御は出来ても吹き飛ばされそうな威力の攻撃も、その攻撃が当たる箇所に多くの魔力を送り、牛頭の斧と相殺させたのだ。
斧を弾かれた牛頭は一瞬動揺したかの様子だったが、すぐにまた斧を頭上で振りかぶり、更に力を込めた一撃を放とうとする。オラフィナはその一瞬の隙を突き、がら空きになった牛頭の胴体へ、もう一度炎の塊をぶつける。
「ガアッ!?」
攻撃一色に染まっていた牛頭の脳に激痛を訴える信号が届いた。牛頭は思わずその場にうずくまり、振り上げていた斧は地面に突き刺さった。
牛頭が動けなくなっている隙に、オラフィナはすぐにその場から離れて再び距離を取る。いくらオラフィナの防壁魔法が強力とは言え、さすがに何発もあの攻撃を受けては危険だと判断しても行動だった。
(あの魔物は魔法が弱点らしいけれど、初級魔法のファイア・ショットでは決定打にはならない……)
ある程度の距離を取ったオラフィナは、牛頭の出方に警戒しつつ、次の一手を考えていた。魔法攻撃に弱いとは言っても、もともとあの魔物は耐久力が強いせいか、決定的なダメージは負っていない。同じ箇所に何度も魔法を撃ち込めばいずれは倒せるかも知れないが、それでは手間が掛かるし、何よりそれほどの腕をオラフィナは持っていない。
ならばどうするか、答えは単純だ。更に威力の大きい魔法を放てば良い。しかしさらに上位の魔法を行使するには、発動の切っ掛けとなる魔法の名前を口にする前に特定の詠唱が必要になってくるのだが、オラフィナには実践経験がほとんど無く、戦闘に初級魔法を使うのがやっとだ。
そもそも戦闘に参加する魔術師と言うものは、彼らを守る兵士がいてこその存在だ。敵の攻撃を避けつつ同時に詠唱をするのは、それだけ困難だという事を意味する。
(それでも、やらなきゃ!)
分の悪い賭けである事は分かっている。しかし、そんな事など気にしていていられる状況では無い事も事実である。オラフィナは腹を決め、更なる威力を持つ魔法を放つべく詠唱を始める。
「汝、我に害成す者を滅する者…」
オラフィナは息を整え直し、集中して手に持つ杖に魔力を送る。牛頭もオラフィナが更なる強大な魔術を行使する事を悟ったのか、一度落とした斧を握り直す。
痛みは一瞬しか感じる事はないのか、牛頭は本来ならばすでに瀕死のはずのその状態であるにも関わらず、またしてもオラフィナに襲い掛かる。
「グルァアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」
「!?」
今まで以上の勢いで放たれたその巨体による突進。振り抜かれたその大きな斧は、つい先程までオラフィナが立っていた場所の土を大きく抉り取る。
巻き上げられた土煙により、視界は一瞬遮られる。反射的に瞳を閉じたオラフィナであったが、牛頭はその隙を突いてきた。
肉厚の斧の先端はオラフィナの腹部を目掛けて突き出された。槍のような形で突き出された斧は貫通力は無い分、まるで大砲のようにオラフィナの腹部に突き刺さる。
「うっ…!?」
なんとか斧が直撃する寸前の所で腹部に魔力を送り防御を固めたが、咄嗟の出来事に完全には相殺する事は出来なかった。牛頭の突きにオラフィナの体が宙を舞い、後方へと飛ばされる。
「かはっ!」
生身でこの攻撃を受けた訳では無かったので、ダメージはそれほどではなかった。しかし
着地の際の衝撃で軽い脳震盪が起こり、オラフィナの視界が僅かに揺らぐ。詠唱は途中で中断され、集まり始めていた魔力は空中で霧散してしまった。唯一の救いは杖を手放さなかった事か。
「オラフィナ様っ!!」
遠くでヒルダの声が聞こえてくる。その声により意識を再度覚醒させ、オラフィナは牛頭の方に意識をやる。
牛頭の頭部はすでにオラフィナの方向を向いており、走るための前傾姿勢を取っていた。ふらつく足に力を入れて立ち上がり、身の丈ほどもある杖を牛頭に向けて構える。
(もう一度ファイア・ショットを当てて、また距離を取り直す!今度はもっと早く、より魔力を込めた詠唱をする!)
「グルァアアアアアアアアアアア!!!」
大きく雄叫びをあげた牛頭は地響きに似た振動を周囲にまき散らしながら、今度こそオラフィナを仕留めようと走ってくる。それをオラフィナは正面から真っすぐに見据え、ここぞという瞬間に魔法を放つ。
「ファイア・ショット!!」
放たれた炎な数は四つ、横一線になって牛頭へと飛んで行った。この炎が足止めをしている間に詠唱を完了させ、この魔物を打ち倒す。オラフィナはそう言う算段を取っていた。
しかし、牛頭は思わぬ行動をとった。
炎がその巨体に着弾する前に牛頭は大きく跳躍し、横一線に並んで飛んできた炎を全て躱して見せた。地を砕いて着地した牛頭は僅かに硬直する事も無く、即座に走り出す。
「え…?」
今まで見なかった牛頭のこの回避行動に唖然とするオラフィナ。それが致命的な隙を作り、一瞬の内にオラフィナの細く小さい体は牛頭に鷲掴みにされる。
「く、あぁああああああっ!?」
万力のように締め付けられ、凄まじい圧迫感が体中を襲った。身に纏う防御魔法は打撃、銃撃、魔法など様々な攻撃に対して有効だが、その一方で多方面からの圧力には効果が薄い。牛頭はそんな事など理解してはいないだろうが、結果的にオラフィナは窮地に立たされてしまった。
「ふ、ファイ…ア……!」
握られているのは左腕と胴体で、杖を持った右手は自由だ。何とか魔法を放って脱出しようとするが、肺が圧迫されている事により上手く詠唱出来ない。それどころか、体の中の酸素は出て行くばかりで呼吸すらままならない。
(息が…出来な…!)
酸欠によりぼやける視界の中で牛頭の顔を見る。己の勝利を確信したのか、オラフィナには心なしか牛頭が嗤っているように見えた。凶暴な口を開け、涎を垂らして嗤うその姿にオラフィナは醜悪以外の感情を持つことが出来なかった。
握力は徐々に力を増していき、体の中からミシミシと音が聞こえてきそうな程だ。常人ならば既に全身の骨が砕けているような圧力にもここまで耐えられているのは、一重に防御魔法のおかげだ。
しかし現状は覆らず、結果生殺しのような状況が出来上がってしまっている。防御魔法が無ければここまで苦しむ事は無かったのに。オラフィナの脳裏に弱気な自分がそう囁きかける。
いっそ諦めてしまおう、そうすればすぐに楽になる。弱気な自分の言葉にオラフィナの心が傾きかけたその時、奇跡は起きた。
醜悪に嗤う牛頭の左目に、凄まじい勢いで一本の矢が突き刺さる。
「ゴアァアアアアアアァアアアアッッ!?」
突如襲った鋭い痛みに牛頭は握り締めていたオラフィナを放り投げて痛みにのたうち回る。物理的な攻撃に対して耐性があるとは言え、流石に目玉を潰される痛みは相当に応えるノだろう。
「う、げほっ、げほっ!」
地面に投げ出されたオラフィナは防御魔法により大した衝撃は無かった。万力のような握力から解放され、一刻も早く新鮮な空気を肺に取り込もうと、体が勝手に呼吸をしようとする。
息を整え直したオラフィナが周囲を見渡すと、オラフィナのいる位置から少し離れた場所に、弓を構えたヒルダがいた。なんと彼女は右腕が折れているにも関わらず、その腕で弓を射って見せたのだ。
「ヒルダ…」
「オラフィナ様、今です!奴が混乱している今が好機です!」
ヒルダのその言葉にオラフィナはハッとして、未だ悶えている牛頭に向けて杖を構え直す。体はまだ若干痛むが、それでも詠唱には差支え無い。オラフィナはこの一撃に全てを賭けるつもりで、ゆっくりを瞳を閉じて魔力を込める。
「汝、我に害成す者を滅する者。その身に形は無く、故に我が形を与える」
淡い輝きが杖から発せられ、オラフィナを中心に周囲の温度が僅かに上昇する。
牛頭も異常に感付いたのか、潰れた左目から流血しながらも、残ったもう片方の目でオラフィナを睨み付ける。
「体は赤熱し、害成す者を捕らえる炎の檻と成せ」
「グルァアアアアアアアアアアッ!!」
走り出そうとする牛頭、しかしそれを許すヒルダでは無い。即座に新たな矢を番えて、走り出そうとする牛頭の左足の膝を正確に射抜く。
「ギィイイッ!?」
刺さった矢は膝の関節の間に僅かに突き刺さり、無理に走ろうとする牛頭の足を強制的に繋ぎ止める。そうしている間にもオラフィナの詠唱は止まらない。
「その牙は毒牙に非ず、されど打ち込むは灼熱の奔流。汝から逃れ得る者はいない」
詠唱を残り一つに控えたオラフィナは閉じていた瞳を開け、視界に牛頭を捕らえる。膝に刺さった矢が関節を抉るが、それでも構わず再び走り出す。
迫りくる牛頭。しかしオラフィナは飽くまで冷静に杖を振り下ろし、魔法を発言させるための最後の詠唱を口にする。
「フィランメン・シュラング!!」
その言葉を合図に、牛頭の足元から三本の炎の渦が現れた。
混乱する牛頭をよそに、三本の炎の渦は徐々に形を変え、巨大な蛇の形を取った。三匹の炎の蛇は互いに絡み付くように体を巻きつけ合い、中心にいる牛頭を飲み込んでいく。
「ガッ、アァア、ギギィイアアアアアアアアアァアアアアアッッ!!!」
絡み合う三匹の蛇はやがて巨大な一匹の蛇となった。地から生える巨大な炎の蛇の腹部な大きく膨らんでおり、牛頭はまるで丸呑みにされた哀れな獲物のようであった。
断末魔の叫びは炎にかき消され、牛頭は体の端から炭化していく。天を仰ぐ巨大な蛇は牛頭にとどめを差すべく、自らの腹部へ向かって大きく口を開く。
次の瞬間には蛇は牛頭の真上から降下し、牛頭の体にぶち当たった。巨大な蛇の体は崩れ、そこに残されたのは、ただただ巨大な炎の檻だった。
「……ッ………!!」
牛頭は叫び声を上げる事も出来ずに炎の檻に囚われる。やがて炎は掻き消え、そこに残ってたのは黒く炭化した牛頭の骸だけだった。
「はぁ、はぁ……はぁ……」
牛頭を倒して張り詰めていた気が緩んだのか、思わずその場にへたり込むオラフィナ。視界の端にはヒルダがこちらに駆け寄って来ている。心配そうな顔で駆け寄ってくるヒルダを見て、オラフィナは緊張していたその顔に笑みを浮かべた。
(私が、魔物を倒せた…)
魔物を倒せた。その事実にオラフィナは今まで感じたことの無い充実感に包まれていた。
だからだろう。
自身の背後に佇む魔物の存在に気付かなかったのは。
「オラフィナ様っ!!」
ヒルダの声にハッとして後ろを振り向く。そこには先程までの牛頭ほどでは無いにしろオラフィナよりずっと大きな魔物が、こちらに手を向けて立っていた。
反射的にその場から離れようとするも、オラフィナの足には力が入らなかった。緊張感から解放され、腰が抜けてしまったのだ。魔法を行使しように頭が付いてこず、もはや防御魔法も効果が切れてしまっている。
どうしようも無い、と思ったその時だった。
バチュンッッ!!!
何も出来ずに目の前の魔物を見上げるオラフィナの耳に聞いたことも無いような爆音が飛び込んできた。銃声と似ているものの、どこか違うようなその音が聞こえると同時に、魔物の上半身は木っ端微塵になっていた。
あっという間に骸となった魔物の下半身は少しの間ふらふらとその場に立っていたが、思い出したかの様にバランスを崩し、後方に倒れた。
「危なそうだったから思わず撃っちまったが、別に問題は無いよな?」
「!…だ、誰かいるのですか……?」
目の前で起こった不可思議な事態に茫然としているオラフィナの耳に、突如男の声が聞こえてきた。その声はまるで鎧越しの様なくぐもった声なのに、なぜかきちんと聞き取る事ができた。
音源はオラフィナのすぐ真横から。しかしそこには何の姿も無い。混乱するオラフィナだったが、さらに追い打ちをかける事が起きた。
雷魔法を行使する直前にも似たバチバチという音と共に、何もない空間から人の形が浮かび上がったのだ。そうして現れた人物の格好は、オラフィナはおろかこの世界の誰も見た事が無いような姿をしていた。
まず目に付くのがその体の大きさだ。
鎧は通常、着用者の体格に見合ったものが使用されるのだが、目の前の人物の身長は明らかに2メートル以上はある。これほど身長のある騎士を見た事の無いオラフィナにとって、その威圧感は相当なものだ。
次いでオラフィナに奇妙な感覚を与えたのは、その鎧だった。この世界で一般的に知られている鎧とは大抵が鉄などの金属を加工して造られ、関節ごとに部品は分かれているものの、全体として見るとスマートな印象を与えるものだ。
一方、この人物が着込んでいる鎧の表面はかなりゴツゴツとしており、騎士というよりもゴーレムのような印象を与えるものだった。鎧の色も良く知っている銀色ではなく、重厚感のある鉛を彷彿とさせるくすんだ黒色であった。
しかしながら頭部の前面は滑らかな黒曜石のような物で覆われており、オラフィナはあれで前が見えるのだろうか、と場違いな事を思った。
右手には巨大な何かを持っている。その物体の先端部の方には小さな筒状の物体があり、そこからは僅かに煙が出ていた。それだけでは無く、その筒状の物体は熱されているのか、赤く赤熱していた。
もしもこの場に地球で生活している人物がいれば、この男の格好を映画やゲームに登場する、パワードスーツを身に纏ったヒーローのような印象を与えただろう。
摩訶不思議な格好をしたその謎の男はオラフィナを見下ろし、先程耳にした通りの声で話しかける。
「助けてやる。金は後でたんまり貰うがな」
オラフィナは顔が見えないその人物が、なぜかにやりと笑ったように感じた