プロローグ
プロローグ
「ここか」
日の沈みかけた秋の夕暮れ。人気がまるでない廃工場跡から、確かに異様な気配が漂っている。すぐにでも戦える体勢を整えておかなくては、自らが食われかねない剣呑な雰囲気だ。
コートの内ポケットから、朱色の梵字が綴られた符を取り出す。遠見の血筋が作成した符に魔力を込め、愛刀であるリルン・エルを実体化させる。異界からもたらされたと代々伝わっている、吸い込まれそうなほど透き通った蒼い刀身の両刃剣。先祖代々この剣で三谷の家はこの地の妖異を祓ってきた。
『ほーう、中々の気配だの』
「ああ、晴<ハル>にはまだ手に負えん」
リルン・エルの柄からひょこりと愛らしい女小人が姿を見せる。この剣に宿りし付喪神のような存在なのだろう。ミイコもリルン・エルと同じく、三谷の家を古くから守り、そして共に戦い続けてきた相棒だ。
『戦闘に出ても大丈夫か? 先日の戦いで風邪を引いておったろう。だから晴に仕事を任せたというのに使えん新人じゃのう!』
「気にするな。体調管理も仕事のうちだ」
三日前の戦いでは、敵との戦いよりも寒気との戦いが体に堪えた。気温が氷点下のさなか、海沿いで海水に浸かりながらの戦いが丸一日かかり、軽い風邪を引いてしまったのだった。畜生、吹雪いてさえいなければもっと早く仕留められていたのだが。
『お? 始まっているようじゃの』
声を上げ、こちらの存在が気取られたのだろうか。廃工場跡が俄かに騒がしくなる。
「急ぐぞ」
『おう!』
定位置である右肩の相棒と共に、リルン・エルを携え工場内へ駆けていく。
『危ない鎮<マモル>!』
工場の敷地へ足を踏み入れたその時だ。荒涼とし、そしてがらんどうとした内部には不釣り合いなほど綺麗に整った美しい石膏像が動き出しこちらへ光弾を撃ち放ってきた。
この程度! 音速にも達しない遷音速の一撃は苦も無くリルン・エルで斬りはらう。女性を象った全身像は穏やかな表情のまま四肢を獣のような這わせ、こちらへ迫りくる。光弾を放ちながら、だ。
しかし、所詮使役した妖異に過ぎない。姿勢を低くされると確かに斬るには面倒だが、突き殺せばいいだけのことだ。光弾を全て斬り距離を詰めた俺は、石膏像が屈み込み今にも跳躍しようとしているのに気が付く。これは逆にありがたい。
光弾よりは速い速度でこちらへ迫る石膏像だが、それでも俺には大した脅威ではなかった。上段で待ち構えた俺がリルン・エルを振り下ろすと綺麗に石膏像は真っ二つになり、そして崩れるように砂礫へと還っていった。
「この程度なら、晴にも造作もないな」
『まあ、時間稼ぎの捨て駒じゃろう』
幾棟も立ち並ぶ廃工場を突き進んでいくと、ようやく晴の姿が目に入る。しかし形勢は思わしくないようだ。いつも爽やかな顔立ちで周囲を魅了する顔は死を前に歪み、愛剣である両刃剣を杖代わりにする様で敵を睨み付けている。
敵はというと、下法で体を失い魔力体となって漂った怪物だった。魔力体を包み込んでいる擦り切れたローブからは白骨化した頭蓋のみが覗き見え、カタカタと歯を揺らしていた。
得物は刃渡り二メートルもある巨大な大剣。金属の塊といったほうが正しいのではと思わせる。
「どうやら間に合ったようだな」
「鎮さん! よかった……」
『馬鹿者! 油断しとる場合か!』
安堵し、力が抜けた晴は愚かにもへたり込んでしまう。その隙を見逃す敵ではなかった。巨剣を軽々と片手で引っ掴み、先程の石膏人形の比でない速度で晴目掛け跳んでいく。
このままではとても間に合わない! 咄嗟に俺は心の中で変身と呟いた。瞬間、身を包むは三谷の家系に伝わる伝説の鎧。リルン・エルが片割れに融合した尊剣の一対。魂がミイコと一体化し、全身から溢れんばかりの力が漲って来る。
大地に足が沈み込みながらも、俺は巨剣の振り下ろしをリルン・エルで受け止め、晴を背後で庇う。
「装甲騎士アルテア・エル……かっけえ」
晴の呟きと同時に、骸骨剣士は背後に跳んで俺から距離を取る。力を掴み損ねているようだな。その程度では距離を取り切れていないぞ。
骸骨剣士が反応するよりも速く。俺は敵をリルン・エルの間合いまで一気に踏み込み、そして横へリルン・エルを薙いだ。巨剣を二つに裂き、頭蓋を粉砕した一撃は魔力体もまた霧散させ、敵は消失したのだった。
その後、原付で遥々町はずれまで骸骨剣士を追いかけていた晴を自宅まで送り届けてやる。晴は車に乗るなりあっという間に眠りこけてしまった。幸い大した怪我もしていない。十分な睡眠を取ればまた元気になるだろう。
『学校にも通って退魔師もする。大変な男じゃな』
「ああ、だから応援してやりたいんだ」
まだ退魔師になって半月ほどだが、晴の成長ぶりは天才と言うほかなかった。既に中堅退魔師に伍する実力を身に着け、第一線を駆け回っている。いつかは俺も追い抜かれるかもしれないな……いつか必ず来るであろう未来の風景を、むしろ俺は楽しみに思えていた。
『なんじゃ、晴を見て笑って』
「こいつはいつか俺を追い抜くだろう。その時が楽しみだ」
『ふん。こいつにお主が追い抜けるかのう』
「どうした、不満そうだな」
ミイコは俺の頭へ伸し掛かってべたりと張り付き、ぼそぼそと囁いてくる。
『ワシにはお主が一番なのじゃ。お主も努力しつづけて、決して追い抜かれるでないぞ』
「無論そのつもりだ。この体が老いるまでは追いつかれるつもりはない」
そうこうしているうちに、住宅街に車が入っていく。佐藤晴。ごく一般的な家に生まれた男子高校生は、この住宅街の一軒家に両親と一緒にごく普通の生活をしていた。今の晴の怪我を見れば両親は退魔師から足を洗わせようとするかもしれない。それでも俺はありのままの現実を見せ、家族と共に晴が将来を決めてくればと願っている。
晴の家の前に車を止め、いざ晴を起こそうとするとトタトタ誰かが駆け寄って来るのが見えた。車から出ると、晴の幼馴染である裕子が俺の目の前で立ち止まりこちらを見上げる。晴とお似合いの綺麗な現役女子高生だ。その表情は微かに不安を帯びていた。
「鎮さん! 晴君は無事なんですか!」
俺が目線で晴を指すと、裕子は躊躇わず車内へ入り込み晴を揺さぶる。
「晴君、晴君?」
「ん、うーん……ふわああ…………おう、裕子か。どうした?」
「はあーっ。いきなり学校早退して心配かけて呑気なんだから……もう」
大きなため息を吐き、裕子は晴にもたれかかる。目ボケ眼をこすりながらボケっとしている晴は特に反応しない。二人は昔から親密な関係なのだと聞いている。家族同然、ということなのだろう。
「あーあーあー。あちこち怪我だらけじゃない。雪おばさん絶対心配するよ?」
「はあ? こんくらいなんともないって、鎮さんいなきゃ今頃死んでたレベルなんだぞ?」
「死……!?」
しくじったという表情で俺を見つめるが、そこまでフォローは仕切れない。代わりにミイコがリルン・エルの中から飛び出して裕子の肩へ飛び乗る。
『安心せい、小娘。この小僧なら鎮が一瞬で助けてやったからの』
「ミーちゃん。やっぱり晴君には退魔師の実戦は早いんじゃないかな」
『心配せんでよいぞ。鎮がいる限り、晴は助けてやる』
「鎮さん……」
何処か縋るような裕子に俺は頷いた。晴は強くなる。成長途中で死ぬことは俺が許さない。
「いっつも言っててうんざりしてるかもだけど、あの、晴君のことお願いします」
「安心しろ。ミイコも言っていただろう。こいつは一人前になるまで俺が守ってやる」
「ほら、晴君も!」
「ん。いつもありがとうございます鎮さん。これからもよろしくお願いします!」
爽やかな笑みで頭を下げる晴に俺の頬が緩む。調子のいい奴だ。
「任せておけ」
「あら? 鎮さんの車が止まっていると思ったら、ユウちゃんも来てたのね」
「あ、母ちゃん」
「こんにちは、雪おばさん」
人懐こい笑顔で玄関から出てきた晴の母親である雪乃さんは、エプロンを小麦粉か何かで汚した姿で車内からのそのそ出てきた息子を出迎える。
「今日は、随分あちこちすりむいているわね」
「別にこんなん大したことはないって!」
「鎮さん、うちの子は上手くやれているのかしら?」
「雪乃さん、あなたの息子さんは強い。大人顔負けで活躍してくれています」
「まあ、本当?」
「な? 鎮さんだって認めてるんだぜ」
おっと、調子に乗っているようだな。釘を刺しておこう。
「まだまだ、未熟ですがそこは俺が鍛え上げてやります」
「うちの子をよろしくお願いしますね」
握手を何故か交わした後、俺は帰ることにした。
「それでは、俺はそろそろ帰ります」
「あら、鎮さんも夕食たべてかない?」
「いえ、今日は……」
軽い咳で言葉が中断される。俺は少し笑って、今あまり体調が思わしくないことを伝える。
「大丈夫なんですか?」
『ふん。三日ほど前に東北まで行って吹雪の中海水に浸かりながら丸一日戦っておったのだよ。一旦出直せばよいのに馬鹿な奴よ』
裕子の疑念にミイコが勝手に返答するが、馬鹿とは何だ。俺はただ、敵は見つけたら逃がす気がないだけだ。
「あらー! ミイコちゃんじゃない! 久しぶりねえ!」
『むおお、あまり慣れ慣れしくするでない!』
早速罰が当たったようだな。可愛いもの好きの雪乃さんはミイコに対するスキンシップが過剰気味で、ミイコは先ほどまで裕子の長髪の中に隠れやり過ごそうとしていたのに、迂闊に声を上げるからだ。
「そうだわ、昨日買ってきた薬があるのよ。ちょっと待っててね!」
「あ、雪おばさんミーちゃんも連れてっちゃった」
「母ちゃんミイコ好きだからなあ、すぐ戻って来るかな……てか、上がろうぜ。鎮さんもほら、上がってくださいよ」
まさかミイコを捨て置く訳にもいかない。大人しく上がらせてもらおう。晴にリビングまで通された俺はテーブルに着く。
「あ、あー……鎮さん麦茶しかなかったですけど、どぞ」
「ありがたい」
晴の出してくれた麦茶は雪乃さんが麦から作っているそうで、市販品よりも格段にいい匂いがした。
「あれ、私には?」
「裕子は勝手に自分で入れろよ」
「えーっ、ひどーい」
「なんてな、ほらよ」
「ありがと、大好きよ。んく……ああー、沁みるわぁ」
全員で麦茶を呷っていると、雪乃さんがCMで度々見かける企業のロゴが入っている風邪薬の箱と水の入ったコップを持ってリビングへ入って来る。
「これなんだけど、鎮さんこういうの抵抗あるかしら」
『効能の欄を見たが、鎮が今飲むにはぴったしな薬のようだの』
正直、薬に頼るほど俺の体はヤワじゃない。だが、ここは厚意に甘えておこう。俺はありがたく、一錠だけいただき水で喉へ流し込んだ。
「一錠じゃ足りないでしょう。二日分あげるからもし足りなかったらまた来なさいな」
「いえ、そんな……」
「いいよ鎮さん。母ちゃん薬箱にぎっしり薬入れ込んでるから多少は減らさないと溢れちゃうよ」
そこまで頑なに断る必要もないか。俺は薬を追加で何錠か頂き、帰路へと付いた。
車で数十分ほど運転し、今の自宅である町外れのロッジに着いた。
「ただいま」
「帰りましたか、鎮」
出迎えてくれたのは、世話人のハンナ。俺が幼少の頃より共に暮らしている兄妹のような存在だ。
「風邪気味だから晴に任せたのでしょうに」
コートを脱がしにかかるハンナを俺は抵抗なく受け入れる。二十二年の人生の中で、いちいち反発しても意味がないと諦めてしまった。
「いい匂いだ。シチューか」
「はい、体が冷えてるでしょう?」
その時だった。不意に意識が飛び、体がふら付く。
「鎮!」
咄嗟にハンナが支えてくれたが、全身が震え出し体中が焼けるように熱い。頭痛も意識を乱す。これは、思った以上に重病だぞ。
「悪い……このまま、寝る」
歩こうとすると、膝が崩れる。畜生、もう立つこともままならん。駄目だ、意識が薄れていく。