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灰色の王国  作者: いちい
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白茶色の物語3

 


 白茶けた土の道を歩いていくと、一際大きな地割れに行き当たった。白茶さんの行き先では最早珍しいことではない。いつも通りに迂回しようと思ったが、数メートルはありそうな断裂の向こう側には、しばらく会うことのなかった白茶色のスーツの後ろ姿があった。


「白茶さん……?」


 異様な光景だった。深々と、砂利の混じった荒い白茶色の大地に断崖が刻み込まれている。その地割れは白茶さんの周囲の僅かな空間を三角州のように残すばかりで完全に孤立させ、ぱらぱらと小さな土の(つぶて)を今なお剥離させていた。

 だというのに彼は、何をするでもなくただその場で、冬の太陽の投げかける陽射しに身をまかせるばかりだった。

 私の足元から小さな礫が断崖へと落ち、その音に彼はこちらを向いた。


「こんにちは、空さん。……ああ、といっても朝食の席でもお会いしたばかりでしたね」

「それは、そうですけれど」


 和やかに会話をしている場合ではない。

 そこで何を、とか。何が起きてこんな、とか。聞きたいことはたくさんあった。

 しかしごちゃごちゃと色々な疑問が絡まり合い、結局どれもまともな言葉にはならなかった。

 白茶さんが微苦笑し、私もやや落ち着きを取り戻す。


「地割れに囲まれてしまっていて、大丈夫なのですか?」

「ええ。ご心配ありがとうございます。空さんは、またこの道に来られていたんですね」

「はい。私の行き先の『水族館』には、今は行けないようです」


 白茶さんは困ったように微笑んだ。


「そうですか……。空さんは、ここの奥を目指すんですか?」


 すぐには答えられなかった。

 橙さんの行き先に紛れ込んでしまった時は、彼が最奥に到達することで水族館の先に進めた。であれば、今回もまた、白茶さんの行き先の奥まで行き着けば、道が拓ける可能性が高いだろう。

 そうすれば、私はまた一つ。

 おにいちゃんの、ところに。


 無意識に、手が胸元のリボンタイを探る。指先が、兄様の私にくれた大切な(よすが)、夏の空の色を写し取ったリボンタイの布地に触れる。

 ひび割れた地面は硬く、とても乾いているようだった。


「おそらくは、そうする必要があるかと思います」

「私がここからの脱出を望んでいなくても、それは変わりませんか?」

「橙さんの時は少なくとも、残るか進むか選べました」


 最奥に達したからといって、帰らなければならないわけではない。鍵が手の内にあっても、使うかどうかはあくまでも自分次第なのだ。


「私が自分の過去を思い出したくないと言っても?」


 記憶と行き先の進行度は、他の人たちの話を聞く限りでは比例している。私が先に進むことは、白茶さんの記憶の修復を意味する。

 忘れている間はわからない。それはとても苦しく苦い思い出かもしれないし、辛いくらいに幸福な記憶かもしれない。

 本来、他人が強いるべきことではない。それはわかっている。

 白茶さんはいつになく困惑した様子だった。また、目を伏せ、深く考え込んでいるように見えた。


「私は……何があろうとも、先に進みたいです。帰りたい。帰って兄様のお顔を拝見して」


 それで、安心したい。

 兄様がいないと怖い。どうしたらいいかわからない。暗くて狭い廃屋の一室に閉じ込められたような心持ちになる。


「お願い、します」


 深くお辞儀をし、請う。

 彼のことは彼自身でしか決められない。だから、私にできることはただお願いすることだけだ。

 白茶さんがもし嫌だと言ったらと、そうも思うけれど。私は兄様に会いたい。何があっても、それだけは私も譲れない。もしもの時は、白茶さんの足に縋りついてでも翻意を求めるつもりだった。


「意地悪を言いすぎてしまいましたね。申し訳ありません」


 頭をあげると、白茶さんは疲れた老人のように肩を落としていた。灰色の瞳には、空虚な諦めの光が宿っていた。


「私も、もう決着をつけるべきなのでしょうね。自分の結末を見届ける覚悟をしましょう」


 同時に、小さな音が聞こえた。鐘の音とは全く違う。虫や蛇の這う音が近いだろうか。道を引き裂く地割れの奥から、何かが来る。

 少し後ずさって地割れの底に目を凝らすと、見えるのは若葉色。濃い緑のものは見る間に伸び上がり、絡み合い、数秒と待たずに地割れを完全に塞いでしまった。

 小さなハート形の三つ葉。細い萌黄色の蔓。華奢なその植物は、雑草として有名なクローバーに違いない。


「あっ」


 白茶さんは危険がないようだと判断すると、灰色の革靴で緑の足場を軽く踏んでみていた。一体どういう構造をしているのか、足は沈むことなく群れたクローバーの上にしっかりと安定している。


「上に乗っても大丈夫なようですよ。行きましょう、空さん」

「方向はわかるのですか?」

「ええ。ずっと、呼ばれています」


 (かな)しい表情で仰いだ方角の空から、重苦しい鐘の音が響いた。何か幽かなメロディーは、いつもより鮮明なようだった。

 リーン、ゴーン。リーン、ゴーン。

 上り(くだ)りする音階の陰に、滑らかな女性の声が聞こえる。


『ほら、急いで』


「多分……こちらです。空さん、ついてきてください」


『早く早く』


 迷いなく角を折れ、道を進んでいく白茶さんの、後を追う。時折鐘の音に耳を澄ませているが、彼には女性の声は聞こえていないようだ。密やかに笑うその声には、一切反応していない。


「白茶さん、何か覚えていらっしゃるのでは?」

「……いえ、何も。ですが無性に胸が騒ぐのです。私は何か約束をしていたように思います」


 いくつかの特徴のない生垣やコンクリート塀をやり過ごした頃、家々の向こう側に何か背の高いものが見え始めた。赤茶色の煉瓦を組んだ、高い三角屋根。頂には風雨にさらされてきたのか、年季の入った銀色らしき十字架が載せられている。

 同色の煉瓦塀で囲まれた広い敷地には芝生の代わりだろうか、緑色のクローバーが繁茂していた。隅の方に白いペンキ塗りの、これも古く、しかし綺麗に手入れされた素朴な長ベンチが一つ置かれている。


 そこは住宅街に紛れるようになった、大きな教会だった。屋根のところに釣鐘がいくつか抱き込むようにして収まっていて、からくり仕掛けで音階を奏でている。

 教会の鐘が鳴るのはどういう時だっただろう。葬儀と──あとはそう、結婚式くらいだろうか。


 白茶さんは、その白いベンチの方を見ている。その視線を追えば、さっきまでは無人だったそこに、黒い影のようなものが現れていた。

 影は髪の長い女性のようだ。細部はぼんやりと霞んでいて、顔立ちなどはわからない。鐘は壊れたように激しく打ち鳴らされ、頭が揺さぶられているような不快感と酩酊感がある。白茶さんはしかし、それも気にならない様子でベンチに座る影を見つめている。

 また、あの声が。鐘の轟音に紛れるようにして聞こえてきた。


『何よ。「おめでとうございます」なんて。こうやって折角、わたしが式の前に会いに来てあげたっていうのに』


 拗ねるような調子だった。おそらく見えない誰かと──白茶さんではないかと思うが、会話しているような間の取り方だ。


『あなたって、つまらない人ね』


 ふ、と影が笑うのが、気配でわかった。


『ねえ、だからお願いね。あなたはずぅっと、そのままでいてね。きっとよ』


 影は瞬きをしてまた目を開けた時には、もう消えてしまった。

 白茶さんは暫く動かなかった。泣きそうにして、影の痕跡も残っていない古びたベンチに目を向けていた。

 彼には見えていたのかもしれない。私とは違って、あの耳に優しい滑らかな話し方をする女性の顔も、表情さえも。

 今は見えなくても、記憶がきっと知っているのだろう。





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