白茶色の物語2
自室で椅子に座る私は、手にした本の最後の一ページを読み終えるとそっとそれを閉じた。小さく息をつき、目の前の机に積まれた数冊の本をちろりと見る。
これらのタイトルは、いずれも心理学や記憶の欠損について扱ったものだ。灰色の城にはその規模に見合うだけの蔵書数を誇る図書室があり、そこで借りて来た。兄様のことが思い出せないなら、せめてどういう状況に自分が置かれているのか知っておきたかったのだ。
幸い私の髪の空色はまだ退色する気配がない。調べるため、時間だけはたくさんある。
本によれば、心理学的に人の記憶は5つに分類されるらしい。私はその中でも、エピソード記憶と意味記憶と呼ばれるものが、兄様に関してだけごっそりと抜け落ちていた。
記憶喪失の原因は様々考えられるが、共通するのは強いショックの存在であると書かれていた。赤色たちが言うには、ここは夢のようなもの。彼らが全て私の夢の産物でもない限り、何かここにいる共通した理由が私たちにはあるはずだ。
改めて考えるとここは異様だと思う。
世界に色がついていないだけでなく、空から灰が降ったり、雨でもないのに虹がかかったり。
極め付けはこの城だろう。現実の問題として、こんな特徴的な建造物が無名であるはずもない。かといってあの時私が意識を失ってから体感時間ではそう経っていないように思えた。あそこから短時間でいける距離に、こんな城はなかったはずだ。面積的にも、気候的にも、これが現実であるはずがない。
だとしたら初めから全部が夢だったとも考えられる。もっともその仮定はたった今、これらの本を読んだことで打ち砕かれたけれど。
積んだ本から適当な一冊を開き、ぱらぱらとめくる。薄灰色の紙にみっしり書き込まれた、黒っぽい灰色のインクの小さな字。
心理学には今まで興味がなかったし、本を開いたこともない。これらの本の知識をたとえ無意識下でも、私個人が獲得できるはずがないのだ。矛盾なくこんな専門的な知識を展開できる以上、少なくともここは私の夢ではありえない。
本をめくるのをやめ、机の上に積み上げった本の塔の一番上に、角を揃えて置く。
そして小さくため息をついて立ち上がり、ベッド脇のサイドテーブルに置かれた時計を持ち上げた。手のひらに載るサイズのそれはアンティーク風の趣味のいいデザインだ。針は、文字盤を飾る褪せた金色のアラビア数字の7を指している。じきに朝食の時間だ。
時計を元に位置に戻し、私はここ数日と変わらず食堂に向かって食事を摂る。兄様のことで食が進まず、何を食べても、話しかけられても上の空になってしまう。
わかっている。焦ってもいい結果が出ないことは。でもどうしようもない。成果があるのかもわからない今できることをしていなければ、どうにかなってしまいそうだ。
皆の気遣いが逆に辛くて、今日の朝食も申し訳程度に済ませてホールに向かった。
開け放たれた大扉の先には、既に虹が架かっていた。ホールを中央まで抜けて、私は銀の扉をくぐる。
瞼を刺す激しい白光。目を閉て足を淡々と動かしながら強すぎる光をやり過ごし、再び目を開く。
閃光から回復した瞳が最初に映したのは、白茶色の土が剥き出しになった未舗装の道。凹凸のある道は見える限りずっと前方に続き、その左右に住宅街が広がっている。
頭上には青と灰色を混ぜて白で溶き伸ばしたような、冷たい色の空が横たわっていた。
半袖のブラウスや膝丈のスカートから覗く素肌を冷気が掠めていく。私は肌に鳥肌が立つのを感じた。気候で言えば、秋の終わりから冬の初めくらいだろうか。この服装ではかなり辛い。
どう見てもここは自分の行き先ではなさそうだ。別の場所に繋がるのはこれで二度目。物理的に危険があるわけでも、閉所や暗所でもない。十分冷静に対処できる。大丈夫だ。
状況を認識したところで、背筋が寒さに震えた。特に剥き出しになった手足が冷える。
手近な民家で防寒具を借りられないかと思いインターフォンを押したが、ここの住宅街には人がいないらしい。どの家も人が出てくることはなかった。数件のインターフォンを押す徒労をこなし、仕方なく諦める。
直接地面に座る気にはなれず、近くの家の軒先にあったコンクリート製の段に座る。
じっくりと観察すると、住宅街の殺風景さが気になった。ここは誰の行き先なのか、肌寒さの中で思考を巡らせる。
赤色は一緒に銀の扉に入ったことがあり、行き先も知っている。ということは、黄色と白茶さんのどちらかの行き先である可能性が高いだろう。二人は毎日欠かさずに銀の扉をくぐっている。待ってさえいれば、どちらかに必ず会えるはずだ。
できれば早く合流して、城に戻りたいものだ。家の軒先を借りて多少は風が避けられているとはいえ、空気の冷たさばかりは仕方ない。
寒さに身を竦めて人を待つ私の目に、背の低い人影が見えた。近付くにつれて姿がはっきりとしてきたその人は、泰然と一本道を歩んでいた。豪奢な装いは住宅街にひどくミスマッチで、何かの冗談か仮装のようだ。
灰色の王は玩具のような王冠を重そうにぐらつかせながら、濃灰色の厚いマントを引きずって、民家の軒先にいる私の前に立つ。
「何故ここにいる。疾く戻れ」
「戻れるものなら戻ります。銀の扉をくぐったら水族館ではなくここに繋がったのですから、仕方ありません」
灰色の王は濃灰色の無機質な瞳で私をじっと見上げていたが、一つ頷く。そして無表情に、右手の王笏で白茶色の地面を突いた。
なんの変哲も無い民家の地面から、迫り上がるようにして灰色の扉が現れる。
驚いた私は、息を呑んで王の隣に控える灰色の扉を見つめた。
「帰り道だ。これでよいか」
灰色の精緻なレリーフで飾られた扉からは、城の雰囲気と近いものを感じる。灰色の王というのは城の主人としての肩書き、単なる為政者の称号だと思っていた。こんな物語じみたことができるとなると、それだけではないのかもしれない。
しかし、なぜその王がわざわざ出口を用意してくれるのかわからない。そこまでして私をここから出したいのだろうか。
「なぜそこまでするのですか?」
「……ここは冷えすぎる」
冗談で済ませるには、灰色の王は真剣なようだった。凍りついた無表情ながらも、声や表情がそれを語っている。
彼は私を急かすでもなく、ただじっと見つめて来るばかりだ。不意にその幼い顔が背けられ、一本道の方を振り向いた。
「白茶の男が来る」
ぽつりと一言をこぼし、彼はそのまま庭を抜けて、来た時と同じ方向に歩いて行ってしまった。言動も何もかもが唐突で、呼び止めることも後を追いかけることもできなかった。
5分ほど経った頃、入れ替わりに白茶さんの背広姿が道に現れる。
「白茶さん……!」
声に反応した彼は、民家の軒先の段に座る私を見て瞠目した。柔和な顔に驚きが広がる。
「空さん、なのですか? なぜここに……」
「私はどうやら、何らかの要因で他の方の扉の先に迷い込んでしまうことがあるようです。ここは白茶さんの行き先なのですよね」
「ええ。つまらない場所で申し訳ない」
「つまらなくはありません。確かに、単調だとは思いますけれど」
通りの家にそれぞれ少しずつ、違いは存在している。例えば、庭の形や屋根の色合い、壁の古さ……。
それなのに総合的に見ると似たり寄ったりで、しばらく先まで見れば同じような家が他にも2、3軒はあるため、この家並みは単調に見えるのだ。
「……面白いです」
赤色はライブハウス。橙さんはスーパーマーケット、私は水族館。
建物に限られるのかとも思っていたけれど、ここに来て白茶さんの無個性な一本道だ。
無意識に口に出してしまったようで、白茶さんは目を白黒させた。
「面白い、ですか」
「すみません」
不躾な感想だったかもしれないと、謝罪する。緑さんにも言われたし、自分でもわかっている。興味を惹かれると相手の心情を慮らずに何でも口に出してしまうのは、私の悪癖だ。
白茶さんは気にしなくていいと首を横に振り、柔らかな表情で白茶色をした土の道の先を見やる。
「少し歩きましょうか」
「はい」
すっかり体温が移って温くなったコンクリート製の段から腰を上げ、庭を抜ければそこはもう一本道の中。私が座っていた段のある家も、少し歩けば家並みに紛れてわからなくなってしまう。
道は舗装されていなくても起伏はほとんどなく平坦だ。革靴でも歩くのに支障は無い。同じような家々を左右の視界に納めながら、言葉を探す白茶さんに付き合う。
白茶さんの服装も背広に革靴という組み合わせで、歩きにくさは私とほとんど変わらないだろう。けれど彼の歩みは意外なほど速く、段々息が上がって来た。
白茶さんはすぐに私の様子に気付き、速度を緩めてくれた。
「ああ、申し訳ありません」
彼は申し訳なさと同時にどこか、会話の端緒を拾えてほっとしたようにも見えた。そして道の先に視線を移し、間を取りながら話し始める。
「空さんは、ご自分の名前などの記憶があるのですよね?」
「はい。ここでは他の方に合わせて色の名前の方を使っています」
「私はね、何も思い出せないんです。名前どころか、年齢も、どこでどうして生きてきたのかも。けれど、私はそれでいいのですよ」
目を細め、郷愁を感じさせる瞳で白茶さんは家々と、住宅街を貫く道を見る。
「この家並みと、一本しかない道。私にとってこの景色は、私の人生そのものです。レールを敷かれた人生、などと言いますが……決まっているわけではないんです。嫌でもない」
白茶さんは、入念に磨かれた灰色の革靴を履いた足を止めた。薄曇りの空を見上げ、ふぅと息を吐く。
「僕はずっと、結局は何一つ冒険できない、無難な選択しか繰り返せない僕が退屈だった。自分に飽いていたのでしょうね」
私は追うようにして空を見上げた。白い太陽が中天で、薄曇りの灰色をした空に浮かんでいる。
灰色の空を映していた視界が徐々に白い光に侵食されていく。ホールに戻される刻限なのだろう。
どこかで重々しい鐘が鳴る音が聞こえた。光で姿は見えないけれど、すぐ側の白茶さんが動揺する気配がする。
光が晴れ、私はいつものホールに立っていた。
「白茶さん……?」
「あ、ああ、いえ……」
白茶さんは何か考え込むようにしていたが、私に声をかけられると首を振った。
「あの鐘の音……」
何か呟くと、また首を振る。彼は灰色の壁紙ではない何処かに想いを寄せた瞳のまま足早に、ホールを出て行ったのだった。




