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灰色の王国  作者: いちい
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灰色の物語8

 



 何もなかったはずの水槽の中で、鮮やかな橙色の小さな生き物が無数に泳いでいる。

 それが銀色の扉の先の、明確な変化だった。


 壁に埋め込まれた水槽や触れ合いコーナー。それだけでなく通路にまで危なっかしくせり出して積まれた大小様々な水槽。その全てで、それは悠々と橙色の鱗を光らせて回遊しているのだ。


 私は一番近くにある、通路に積まれた水槽の一つを見るため屈み込んだ。

 人を警戒する習性がないようで、むしろ水槽の上部に集まったその生き物。艶めく鱗を持ってはいるが、その形状はどう見ても水の中を泳ぐ魚ではなく、空を飛ぶ鳥のものだ。尾羽の代わりらしい長く優美な尾鰭を見せつけながら、何匹もの極小の鳥が水槽の中で群れている。


 以前も確認した天井から吊られたプレートを見上げる。『浅瀬のいきもの』。……確かに生き物は生き物だけれど。


 朝食後、以前と同じようにくぐった銀色の扉の向こう側。無人の水槽があるばかりだった空間は大きく様変わりしていた。

 せり出した水槽にぶつからないように避けながら、先に続くだろう橙色の壁の前に向かう。


 扉一枚ほどの幅の橙色の壁は私が前に立つと震えだし、ウィンチを巻き上げるような機械音を発しながら上に持ち上がった。

 進展があったことにホッとしつつ、開かれた壁の通路の先を見る。狭い空間に銀色の上りの螺旋階段があり、どこか上階に繋がっているらしい。ここからでは上の様子はわからない。室内にしてはやや不自然なことに、階段の上からは光が差し込んでいる。


 ────『橙』さんと別れた直後、動いた『橙』色の壁。その共通点、いや、共通色にひっかかりを感じつつも、私は先に進むことを選んだ。

 このままここにいても事態は変わらない。ならば少しでも先に行くべきだろう。赤色や橙さんの話を聞いた限りでは、その先に脱出の道は拓かれるはずなのだから。


 淡い水色と緑色の壁。そこにぽっかりと空いた通路を抜けて低い手すりのある螺旋階段を上ると、強い光が降り注ぐ。目を細めながら観察した私の目に飛び込んで来たのは、一面のアクアブルーだった。


 一本道の通路。そこはアクアリウムになっていて、透明なチューブ状の道が巨大な水槽の中を貫いているのだ。足元までもが透明で、水槽のちょうど中ほどを通路が貫く造りはかなり不安になる。

 足元を気にしながら通路の壁の透明な素材を叩けば、冷たい感触のそれからはガラスのような硬質な音がした。見た目は近いけれど強度的な問題があるし、普通のガラスではないだろう。強化ガラスか……そうでなければガラスによく似た別の物質のはずだ。


 ガラス材の向こうには何種類かの魚の姿がある。魚の分類には詳しくないので種類まではわからない。鱗や鰭の鮮やかな色からすると、暖かい海の魚だとは思うけれど。

 なんとなくだが、暖かい海なら鮮やかな色、寒い海なら銀や青、黒といった地味な色のイメージがある。少なくとも深海魚ではなさそうだ。通常の水圧だとかえって耐えられずに目が飛び出ると図鑑で読んだ気がする。


 水槽の底部には桃色や白の珊瑚、苔むした巨岩などが静かに座している。

 少し歩いてみたところ、通路のガラス材の強度は問題なさそうだとわかった。やはり不安定な感じはするものの、真っ直ぐ進んでいく。


 異常に気付いたのは時間にして数分経った頃だった。通路の終点の扉は見えているのに、どれだけ歩いてもそこに近づくことができない。足を止めて振り返ると、現在地は螺旋階段と出口のちょうど中間のあたりだ。

 進むのをやめて戻れば容易に螺旋階段に着くことができた。しかし、反対側の出口は相変わらず遠い。

 どうやら前に進めていないようだ。

 足を止め、しばらく黙考する。


 可能性として考えられるものは複数ある。けれど断定するには材料が足りない。

 まず私は螺旋階段の方を向いて、歩数を数えながら後ろ歩きに通路を進み始めた。ある程度まで歩くと、急に景色が動かなくなる。

 出口の方を向く。距離は最初の時点よりは詰まっているけれど、これ以上近づくことはできないようだった。


 『白茶』色をした木製の扉は観音開きで、金色のドアノブが左右に一つずつついている。最初はオレンジと紫。もっと言うと、橙色と藤色。そして今度は白茶色。こちらで出会った人たちと同じ色なのは、偶然なのか。


「……そうでなければ必然」


 直前まで一緒にいたはずなのに、兄様はここにはおらず、私だけがいる。これも何かの意味があるのだろうか。


 一昨日、そう、私がここに来ることになった原因の出来事が断片的に思い出される。

 確か、あの日は────。


 朝方いつもより早く起床した私は、一人森へと向かっていた。青々と茂った下草を踏む感触は芝生よりも柔らかく、それを楽しみながらどんどん森の奥へ進んでいった。

 昨晩兄様と約束したのだ。別荘の近くの森には綺麗な湖がある。だから一緒に散策しよう、と。

 待ち合わせは午前4時。早すぎる時間だとは思ったけれど、あまり遅いと父と鉢合わせてしまう。父は兄様との折り合いがあまりよくなく、私が兄様といるのを見ると決まって不機嫌になった。

 初めて来た場所だけれど、兄様から道は聞いていた。木立の間を抜けると教わった通り、古びた階段が見えてきた。土を固め、丸太を置いただけの簡素な階段。手入れはされているのか、腐食はなくロープで補強した形跡があった。服を汚さないように気を付けて、私はそれを登っていった。


 そして、その先。『鏡湖』という小さな湖のほとりに兄様は……。


「……あ…………」


 兄様は……。

 どんな人だった?

 兄様の顔が思い出せない。顔だけではない。声も、姿も。それどころか年齢すら。


「そんな、違う……」


 私は知っているはずだ。一生忘れることはないと、そう思っていたのだから。

 だったら……それなのに、何故。

 狂乱した感情が、頭の中で爆発した。


「兄様、兄様……助けて!」


 自分という人格の根底が揺らぐような、強烈な感情の奔流。

 目が眩む。視界が光に包まれ、体に慣性のような力がかかる。ホールの灰色も、今は目に入らない。


 名案が思い浮かんだ。

 そうだ、頭部に強い衝撃を受けると記憶が戻ることがあるかもしれない。

 ふらつきながら階段へと移動する。途中で誰かにぶつかったけれど、構わずに上まで登りきる。2階の踊り場から体を投げようとしたところで、誰かに後ろから羽交い締めにされた。


「離してください」

「おまえ何しようとしてるんだよ!」

「階段から落ちようとしています」

「クソがっ、錯乱してやがる! おい、誰か! 誰か来てくれ!」


 ホールから黄色と白茶さんが駆けつけた。黄色は状況がわからないのか戸惑いが強いようだが、白茶さんは冷静だ。


「これは……どうしたのです、赤色」

「こいつが錯乱して階段から身投げしようとしてんだよ……!」

「この程度の落差で、しかも絨毯が敷いてありますから死にはしないはずです」


 私は淡々と答えた。何も自殺しようというわけではないのに大げさすぎる反応だ。

 白茶さんはため息をつくと、赤色に指示を出す。


「とりあえず彼女を離してください」

「はぁ!? 何言ってんだよ」

「抵抗する様子はありませんし、今すぐ事に及びはしないでしょう。それより話をすることが先決です」


 赤色はしばらく悩んでいたが、やがて私の体を離した。白茶さんが問う。


「空さん、なぜそんなことをしようとしたのですか?」

「思い出せないからです」

「それは……。だからといって、どうしてそんな」

「強い衝撃を受ければ思い出せるかもしれないかと」

「はぁ!? お前バカか!?」


 馬鹿とは失礼な。少なくともそう言う赤色よりは知能指数は上だと思う。

 察しのいい人間以外は気付かれない程度、つまり赤色が逆立ちしても気付けない程度で、彼に侮蔑の視線を送る。


「もしも、ですが。それが貴女にとって大切な記憶ならば、銀の扉の向こう側にあるのかもしれません」

「あの扉は何なのですか?」


 私に問われた白茶さんは少し困ったように眉尻を下げた。


「それは私たちにもわからないのですよ。ですが、ここでは記憶が欠損していることなど珍しくはない。運が良ければですが、あの先で見つけることができるでしょう」

「……アホらしい。あそこにあるのはそんないいもんじゃないだろ」


 赤色はおざなりに言い捨てると、自室に戻っていった。いつの間にか黄色も姿がない。

 私は白茶さんに会釈だけしてその場を辞した。自室に戻る気にもなれず、以前迷い込んだ塔の一角、四阿(あずまや)のような部屋のソファに腰を埋める。


 装飾の施された太い支柱の間に見える空からまだ灰は降り出していない。色鮮やかな虹を無数に空に架けた、灰色の街並み。一時だけしか見ることのできない対照的な風景を臨み、私は自問する。


 ──兄様、あなたは誰ですか?


 答えは当然、帰って来なかった。




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