灰色の物語1
幸せの青い鳥モチーフの物語となります。
いちいの作品全般に言えることですが、ややグロい描写が入ることがあります。苦手な方はご注意下さい。
水の音が聞こえる。
無音にも似た静けさの中で、水が動く音だけが耳に届いてくる。肌を生温い水が撫でていく。
瞼を開く。
水面は遥か遠く、私の頭上で陽光を透かして綺麗なプリズムを作っている。急に水中に転落したために詰めていた息も続かなくなり、ごぽりという耳障りな音をたてながら、私の口から空気が泡になって吐き出された。
口から、鼻から、入れ替わりに塩素の匂いを含んだ水が、呼吸器に侵入してくる。
どこかぼんやりとした意識で、私はきらきらと輝く水面に昇る泡を眺めていた。
視界の隅で、薄手の赤いスカートが金魚の鰭みたいにゆらゆらと揺れている。
水を吸った服は重いけれど、泳げないわけじゃない。こんなプールから浮かび上がるくらいなら簡単だ。
それでも体は沈んでいく。泡が途切れ、視界が霞む。
何がいけなかったんだろう。私はただ、嬉しかった。あるがままの毎日が幸せで、浸っていたことがいけなかったのかもしれない。
甲高い異音が心地良い水の音を覆った。耳鳴りだろうか?
そう考え、瞬時に否定する。
……いいえ、違う。これはきっと…………人の悲鳴だ。
◆◇◆◇◆
「────おい、しっかりしろって!」
若い男性の声で、霞がかかったような意識が次第にはっきりとしてきた。
私が立っているのはどこか、見覚えのない広間だった。ここはどこで、どうしてこんな所にいるのだろう。さっきまで、別荘の周りを糺兄様と散策していたのに。
思い出そうとするけれど、まだぼんやりとしていて上手くいかない。
目の前に立つ、やはり知らない青年が途方に暮れたような声を出した。
「なあ、こいつ大丈夫なのか? それとも来たばっかりってこういうもんなのか?」
何度か瞬きをして、意識を覚醒させる。
彼は誰だろう。とりあえず兄様ではないことは確かだ。兄様はもっと優しげだし、こんな粗野な喋り方はしない。何より全身髪まで灰色ずくめで、左側の一房だけ赤毛なんて意味のわからない装いをすることはありえない。
そんなことを考えながら彼を観察していたせいで、質問とも言えない泣き言じみた言葉は無視する形になってしまった。……まあ、いいか。兄様に、知らない人と話してはいけないと言い含められているのだし。
彼は困ったように背後を振り向いた。
少し離れた所で数名の統一感のない男女が立ってこちらを見ている。その中にも、兄様の姿はない。
「ちょっとぼんやりしちゃってることはあるけど、この子のはちょっと心配ねぇ」
目の細い、妖艶な雰囲気の女性が心配そうにこちらに目をくれる。
同じく見ず知らずの方ではあるものの、乱暴そうな青年よりは彼女の方がまだ話しやすそう。私は彼女に話しかけてみた。
「すみません、兄様はどこでしょうか?」
「…………兄様?」
耳慣れない言葉のように繰り返したのは、部分的赤毛の青年だ。
内装が灰色一色なのを度外視すれば、このホールはかなり豪奢で広い作りをしている。我が家の別荘よりも遥かに大きい。
おそらく散策中に貧血でも起こして、兄様が近くのお屋敷に運んでくれたのだろう。あの辺りは夏でも涼しい気候と湖があることから別荘地帯になっていたから。
そうであるならば、挨拶をしなければ。
「あの、私は倉屋敷繭と申します。この度はご迷惑をおかけして申し訳ございません。後ほど兄とご挨拶に伺いますので」
「いや、ちょっと待て。お前さ、勘違いしてないか?」
「はい?」
青年は背後の人々に助けを求めるような視線を向けたが、誰も口を出そうとはしない。諦めたように、彼は息を吐いた。
「とりあえず、思い出せる最後の記憶を話してみてくれ」
言葉の意図は計りかねるものの、直前の記憶がはっきりしないことは確かだ。ひとまず言う通りにしてみることにした。
「……時間ができましたので、家族で沢井の別荘に行っていました。近くに湖があって、糺兄様と散策に行く途中で」
途中で、何があったのだったか。
思い出そうとすると、霞のかかったようにぼんやりとしたものに思考を遮られる。それでもいくつかの断片を拾い集め、どうにか繋げていく。
「水が……綺麗だったんです。泡がきらきら光って昇っていって」
鼓膜の更に奥から浮かび上がる、水の音。
遥か頭上に煌めくプリズム。直視することの叶わない太陽も、輪郭のぼやけた白い円にしかすぎなくて。
でも、それは水の下からしか見えないはずの光景だ。
私は泳ぎに出たわけではなかったから、水着を持ってはいかなかった。だからそんな物をみることは、ないはず。
どうしてだろう。わからない。
「……間違いないな」
彼は一つ頷くと、淀みなく説明をし始める。
「ここは灰色の王国っつう場所だ。夢の中みたいなもんで、ここから現実に帰るには鍵を見つけないといけない。タイムリミットは、色をなくすまでだ」
「いろ…………」
どこもかしこも灰色なこのホールで、色がついているのはこの場にいる人たちの一部にだけ。
青年の左側の一房の赤い髪に目が留まる。彼の背後の人々にも目を向ける。誰も青年の説明に動じる様子はない。
「お話はわかりました」
「それじゃ────」
「あなた方がおかしいということは理解しました」
ほっとして緩みかけた青年の表情が、険を帯びる。
「はぁ!? せっかく人が丁寧に説明してやれば」
多分その説明とやらも、真実ではあるのだろう。この人たちの頭の中に限っては。
「倒れたところを助けて頂いたことは確かですので、後日改めて使いの者がお礼に参ります。失礼いたします」
「あ、おい!」
ちょうどホールの向かいに出口を見つけた。青年の横をすり抜けて、重厚な扉を押す。大きいだけあって固いけれど、体重をかけるとなんとか一人で開けることができた。
直後、視界いっぱいに広がったのは灰色だ。これもまた立派な庭園は、几帳面に刈り込まれた生垣が迷路のようにはしっている。しかし、その色彩がありえない。
瑞々しい葉も、咲き誇る花も、要所に設置されたベンチや街灯も────全てが灰色なのだ。
まるで、世界から色が抜け落ちてしまったかのように。
呆然とする私の肩に、ふわりと何かが舞い落ちた。払いのけた指についたそれは。
「…………はい」
雪片のようにひらひらと、分厚い鈍色の雲から灰の欠片が降り注ぐ。
自分の指の色さえも、くすんで黄色人種らしからぬ薄い灰色になっている。
白いブラウス。赤いフレアスカート。衣服のどれもが色をなくしている。青いリボンタイが持ち物の中で唯一色彩を残しているのを見つけ、灰色の世界とそれを交互に見やる。
……気持ち悪い。たかが色彩だというのに、あるはずだったものがないという、それだけで本能的な嫌悪感を感じる。
当たり前だったはずのものが崩れている。昨日まで空気のようにありふれていた日常が、灰色という色に侵されている。
灰色に染まった光景から逃れようと数歩後ずさり、私の体は何かにぶつかった。
「…………あ」
振り返れば、そこにはあの青年の姿があった。動揺してはいても、習慣にならって私は慌てて体を離した。
「だから言っただろ。ここは灰色の王国」
吐息のように呟き、彼は開け放たれた扉の向こう、灰色の庭園を睨む。
「そんな…………嘘では」
「嘘じゃない、全部本当のことだ。信じるか信じないかは自由だがな」
言葉だけで信じられるほど素直ではない。目にした光景が信じられず、スクリーンや投影機、自分の知るあらゆる映像手段の機器を目で探す。しかし粗を見つけることができず、私はやっとこれが現実であることを理解した。
生垣に近付き、触れてみる。葉も花も色がない他は正常で、屋敷で育てていた植物と大差はない。
やや血の気の引いた顔で振り返ると、そこには聳え立つ巨大な建造物。見上げるのも辛いほど巨大なそれが何なのか尋ねれば、幼児でも答えることができるだろう。
それは、城。堅牢な灰色の城壁と幾つもの尖塔を持つ、城だ。
『タイムリミットは色を失うまで』。
城のホールに立つ彼の、一房だけ赤い髪が、ふわりと風を孕んで揺れた。その言葉が真実なら、残された時間はあとどれ程なのか。
私はセミショートの髪を握り、視線を落とした。染めるなど言語道断と言われていた黒髪は、雨のあとの空のようなスカイブルーに変色していた。