「曼珠沙華」
拝啓
夜闇に沈んだ柔らかな肉の間からぬっと這い出した骨の色を君は知っているかね? 君の骨はたった一粒のラムネ菓子によく似た桃色の錠剤によって、死して尚もその表に白さを称えることはなく。燃え残ったその欠片に浸み込んだその色は、その髄にまで達しているしまった悲しみの如く。君を死に追いやったのは間違いなく私なのだろう、と。私はその消えぬ色彩を瞼の裏に焼き付けて、今日も、明日も、明後日も。生き続けている。
どうだい? 滑稽だろう? しかし、これで、私達は今も尚繋がれている。
それは、なんと幸福なことか。
私はその晩。奇妙なゆめをみた。
白雪のようにキメ細やかな顔を覆う、お化けにも見える長く伸びすぎた漆黒の毛髪。その髪の赴くままに隠れた夜闇を映し出す少し潤んだ両の瞳。それとは対照的に白無垢を思わせる純白の白装束を纏った、女が一人。雪に覆われた森の入り口にいた。女は、背筋を木の幹の如くすらりと伸ばし、一寸たりとも身じろぎせず、ただじっと。こちらを見つめ、立ち止まっていた。
女は私と見つめ合ったまま、今にも消え入りそうな声で、もう十分ですと云う。一体何がもう十分なのか。私にはとんと見当もつかなかった。そもそも、この女が誰であったか。確か遠い昔に一目見たことがあるような。脳裏に映る輪郭の定まらぬその姿。そんな女がもう十分だと、どこか冷たく、突き放すように私に云う。しかし、私の中の誰かがそれはまだ不十分だ。まだ不十分だ。と呪詛の如く、低く、繰り返し、繰り返し胸の内に強く訴えかける。そうしている内に、私自身も、何だか目に見えぬそれは不十分であるように思い始めてきた。だから私は、そっとカサついたシミと皺で汚れた首を左右へ振り、女を否定した。
すると女は、長い睫を伏せ、どこか哀しげに艶やかな黒髪を揺らした。それから女は血の気のない白い手で、私の着物の袖を掴み、どこへ行くのかも云わず、ただ濃い白に染まった霧深い森の中へと歩み出した。私は、母に手を引かれる幼子のようにその手の赴くままに、私と女の物以外、足跡一つ見当たらぬ積もったばかりの柔らかな新雪の上を闊歩した。
そうしながら、青々とした葉を落とし、すっかり乾いてしまった木々の間を潜り抜け、歩みを進めていくうちに、私はふと視界の端に赤い花の群れを一群見つけた。おや、あれは一体何だろうか。と、わざわざ歩みを止めることなどせず、ただ軽い心持で、そちらへと顔を向け、じっとその赤を見つめる。
すらりと伸びた花弁は木々の水を全て飲み込んでしまったのだろうか、しっとりと雪のそれとは異なる、内に秘められた血液の上に敷かれた皮膚のようだと感じた。
枯れているように静まり返った木の幹の下で、太く、艶やかな、新緑を讃える茎や葉は、流れる月日を無視して過ぎて行く梅雨のようだ。
そうして観察してみると、それはどうやら彼岸花の群れであることが分かった。しかも、周りを見渡して見ると、それは私達が進んできた後ろや、女の歩く道の前に、四、五輪で集まり、深い沈黙を守りながら、ひっそりと白銀の世界に咲き誇っていた。
今年は一段と花を赤く染めてしまったようですね。冬の風が耳元を駆けるように、鋭く、冷たい女の声がうら寂しく鼓膜を揺らす。私は意味も分からぬその言葉に、何だかばつが悪くなって、足元に咲く彼岸花達へと目を背けた。
そうしたら、確かに。生きている人間の血肉に見えなくもないその色彩。今まで見てきたどんな花よりも鮮やかで艶やかで、不気味なその紅。その死を感じさせる恐ろしい程美しい赤に、私はどこか虚しさを覚え、また女の方へと目をやった。しかし、女はこちらを少しも振り返らずに、やけに冷たく息苦しい霧の中を、淡々と歩み続ける。私には向かぬその視線が憎らしくて、わざと歩みを遅くして、ぐずつく幼子のように女に引っ張られながら歩いた。
それからどれ程の間、深い森の中を歩き回ったのだろうか。気づけば小さく開けた雪の広場のような場所に私達はいた。
もうね、私は十分なんですの。散々ですの。だから、もう終わりにしましょう。そう云って女は歩みを止め、私を見上げるように振り返る。私はね幸せでしたの。だから、もう十分。
常世の闇のように深い髪の間から覗く潤んだ切れ長の瞳と、きつく一の字に絞められた頑固な唇。見覚えのあるその形に胸の中に熱い愛おしさが広がっていくのを感じた。と、同時に無性にこの女を力の許す限り、骨の髄までこの胸に抱き締めてしまいたいと願った。そして、その想いのまま、無意識の内に女へと手を伸ばす。だが、しかし、嗚呼、何という無情。伸ばしたその手が柔い肌に触れることなどなく、ただ寒々とした空を切り、そうして女の手さえも、私からそっと離れて行った。
解けた骨のようにほっそりとした人差し指を矢印にして、女は霧の先を指し示した。すると霧だと思っていた白い水滴の塊がふわっと宙へ浮かび上がり、青い絵の具を溶かしたような空にぺたりと張り付いた。次いでまた、白は青い海の上を、冬の凍えそうな風に身を委ね東へ、東へと流されどこかへと消えて行く。それはまるで遠い昔、墓の下へと埋めてしまった思いのように。
ほら、お前さん。女がまた袖を軽く引きながら、白い雲が消えたそこへと私を誘う。そこには苔の生えた、しかし、手入れの行き届いた古い墓が一つ。寂しげに建てられていた。私は女に急かされるまま、その墓石の前へと歩み出る。
そこに記された「橘」の文字。
はっと息を飲み込んだ。
それから、声とも呼吸とも似つかぬ悲鳴と共に、その四文字を吐き出した。
私がそれを外に出すと同時に、私の苗字が重々しく彫り込まれたその石の周りを覆い尽くすように、地面の中から無数の彼岸花が顔を出す。更にその、埃っぽい墓石の前に青い紙に包まれた真っ白な百合の花が三十七本。どこからともなく浮かび上がり横たわる。女はその様子を他人事のようにただぼんやりと眺めていた。そして、私はそれが意味する事柄を初めの日から、終わりの時まで知っている。いや、思い出した。
ただ茫然と立ち尽くす私を余所に、花束の中から、茎のところが奇妙にひしゃげた一輪を、横から伸びてきた筋張った女の手がひょいと持ち上げ、かき上げた右側の後れ毛と耳の丁度真ん中に引っ掛けるようにして、まだ蕾のそれをそろりと挿す。女の艶めかしい首筋に私は唾を飲み込む。まだ花が開いていないにも関わらず、ふわりと鼻腔を甘ったるい白百合の懐かしい香りが擽ったような気がした。
私はね幸せなの。だから、これ以上勝手に荒らさないでちょうだい。そして、ここへはもう二度と来ないでください。そうではければ私は安心して眠りにつけやしませんわ。女が突然私の眼前に迫り、瞳を零れ落ちそうな程大きく見開き私を見つめ、頭の上に覆いかぶさるように両腕を大きく広げ、そのまま女の柔らかな胸一杯に私を抱き締めた。すると私の胸の辺りからぽきり、ぽきりと滑らかな屈折音と共に、何か生暖かな物が私の中で音もなく潰れ、溢れ出していく音が響いた。
彼女は一体何という名だったのか。
そしてここはどこだったのか。
脳髄の端からちらりと姿を表しては、悪戯に私の手の届かぬ所へと逃げて行くそれを、私は少しも思い出すことが出来なかった。ただ、どこかで触れたことのある温かなこの人の体温に喉の奥がじわりじわりと熱を持ち始める。そうして気づけば私の右の眼から大粒の雫が流れ出した。悲しくはないはずなのに、何かが悲しい。そして、いくら頭をの中をさぐってもちっとも思い出せぬ女の名を、口をぽっかと開け嗚咽を漏らしながら一心不乱に探した。
脳裏に映った、夜闇の中赤に沈んだ彼の女は誰ぞや? それは我が愛しの人か?
そして絶え間なく私から流れた水が少しずつ女の身体から色彩を消していく。止めてくれともがいても、きつく絡みついた女の体は私を一向に離してはくれぬ。そうしているうちに女の身体は上から下までそっくり綺麗に半透明に透けて本物の幽霊へと。次いで、溢れ返った涙は地の底へと浸み込んで、地面が音もなく崩れ去ってゆく。赤い彼岸花も一緒になって水の中へと飲み込まれていく。黒い墓石も飲まれていく。白い雪は溶けて透けていく。森に生えた木々は有り余る水に腐り溶けていく。
そして最後は、私も女も。全て水の中。
口からあふれ出た泡の粒が音を立てて地上へと上っていく。それは止めどなく私から逃げ出して、女の長い髪と絡み合い幻想的に広がってゆく。首を上げ、その様子をただ見つめては、その美しさに熱っぽい溜息を吐いて、また私の中身を地上へと還していく。
ほら、こうしてお前さんの血肉は返してあげるから。もう二度と私の名を呼ばないでちょうだい。女がそう云って水の中に沈んだ一輪の彼岸花を掴むと、あれほど鮮やかであった紅色が、揺らめく透明な水面の中に溶け出し、そうして純白になる。それから、それを皮切りに、一輪、また一輪と上から少しずつ紅を吐き出し、最後には花の付け根まで純白に変わる。
全ては白になる。
そうして後に残るは噎せ返る程甘い花の海だけ。
それからその終わりには、赤を全て吸い取った液体が紅から蒼へとぶくぶく音を立て、私の背中の方からじわじわと成り変わっていく。
気づけばそこは優しく私を包み込む空だった。そんな爽やかな晴天の中で私は目を覚ましす。
遠い昔。私がいなければあったかもしれぬもの。冷たい赤に濡れた肌に触れ、咽び泣いたあの夜。あの夜から永遠を誓い続けた。しかし、それも、もう止めにしよう。
涙の上を、私と彼女が堕ちていく。彼岸花と一緒に。くるくる回りながらゆっくりと、ゆっくりと。そうしていつの間には私一人で。もうお別れだ。女が白と青の宙を漂いながら優しい笑みを浮かべ私を見つめる。もうお別れしましょう。私も涙を拭って女に微笑み返す。最後にそっと小指を空に伸ばし、二度とそこへは行かぬと指切りをした。
私は目を覚ました。酷く長く苦しい夢だった。長らく枯れ果てていた涙が頬を流れ出し、愛おしい彼女の名を求め唇が震えた。すると、私はようやく妻の名を思い出すことができた。そのことが、嬉しくて、嬉しくて、私は口を大きく開け、咽び泣きながら、彼女の為に、彼女の名を幾度となく叫ぼうとした、
しかし、私は慌てて両の手で震えるその唇を塞ぎ、愛しい名を、きつく噤んだ口内に溶かし、熱い涙と共に飲み込んだ。
こうして彼女の願いは永遠に守られることとなったのだった。
敬具
学校に提出した課題の一つです。絶対に選ばれない事が分かっているので、ここで供養。前半は夢十夜のオマージュのような物を少し。人物の名前や、出来事は、少しだけ知人の事をモチーフに書いております。