二十三枚目
生きるとは呼吸することではない。行動することだ。----ジャン=ジャック・ルソー
僕たちの部活、『製菓研究会』が出来て三日が経過した。相変わらず、僕たちは調理準備室で、グダグダと活動を続けている。
静かな放課後に水を指すような事は起こる事もなく----。
「ハッチ先輩。大変だ」
局切子。ジャージの上からスカートを履いた変態女が、読んでいた新聞から顔を上げ、真面目な顔をして僕に迫る。
「先輩、私と『エロくないものをエロく表現するしりとり』をしよう。エロ要素が足らなくなった」
「……急過ぎるだろ」
「恥ずかしがる事無いさ、先輩。男の子は八割がた『ピンク』と言う言葉に反応する。多感な時期に溜め込まず、一気に放出しておかなければ身体に悪いぞ」
両手を広げて演説する切子ちゃんに聞こえるように、僕は溜息を漏らす。
「はぁ……。お前は僕をどうしたいんだよ」
「うーむ。ストレートに言うなら『喰ってかかる』といったところか」
「噛みつきは勘弁願いたいんだが」
「あら、違うな。喰ってやろう、か? まぁ、とにかく--放課後の静かな部室で、健全な男女がやる事といえば……もう答えは一つだろう? 先輩」
長いまつげを弾かせ、ウインクして見せる。全く、ウインクに負けたわけじゃないぞ。暇だったから、暇だったからやるんだ。その辺は分かっておいてもらいたい。
「で……しりとりだよな」
「エロくないものをエロく表現する! しりとりだ」
「はぁ……例えば?」
「こんにゃく」
切子ちゃんは声色を変えた。それはまるで四つ年上のツンデレナースが、僕を誘っているかのような……なんとも艶かしい声だった。
「なっ、なんて声出すんだ!」
「ははっ、先輩。女の子を舐めてもらっては困るな。いや、私は存外舐めてもらいたい派なのだが……」
「黙れ」
「ん……。二人きりなのだから、いいじゃないか。まあ、とにかく、女の子は色んな声が出せるぞ。----このような声とか」
切子ちゃんはそう言って、様々な声質で、様々な人物を演じた。プチモノマネショーに参加している様で、暇をしなかった。
「ふぅ、まーこんなものだな!」
得意気に張った切子ちゃんの胸--ちなみに、大きくも小さくもない。至って標準な--を一瞥して、僕はそれとなく話を流してみる。
「そう言えばさ、切子ちゃん。気になっていたんだけど……」
「ん? 私はDカップだぞ」
「そんなこと訊いてんじゃ……マジかーー!!!」
「私は着痩せするタイプなのだ」
流されているのは間違いなく僕の方だった。チラッと切子ちゃんの胸に視線が向いてしまう。
「ああ、先輩の情熱的な視線を感じていたからなぁ。なんとも、キモチが良い」
「そんなに凝視してねーし! チラッと見ただけだろ!」
「ほほーう。チラッと見てたか、ハッチ先輩」
ガッ……!
カマをかけられた。僕を騙すなんてやるな……こいつ。
「ととと、とにかく! 僕をからかうのは辞めろ。何の得も無いだろ」
「ははっ、敵を騙すにはまず味方からと言うしな」
「お前は何と戦っているんだ?」
「今は先輩とだ。さぁ先輩! 次は『く』だぞ!」
僕は呆れて肩を落とした。
今日は誰かくるかな〜とか、御乃辻の声を聞きたいな〜とか、そんな事を考えていた時、ましかからメールが届いた。
『やほーん! ましかちゃんだよぉ☆ 今日は部活いきませ〜ん。ちなみに、沙矢ちんは用事あって帰りまーす。ちなみにちなみに、鈴白くんは、学校にきていませーん! では、ばははーい♪』
はぁ、☆とか使うなよ。こっちが恥ずかしくなってしまう。
ん? と言う事は、今日は切子ちゃんと二人……か。
「ん? 何だか今、物凄いエロい思考をキャッチした気が……」
「気のせいだ。そして、勘違いだ」
僕の名誉のために言っておこう。しりとりはもう終わっている。案外盛り上がってしまったのは僕の黒歴史になりそうだ。
「いや、それよりさ。今日は誰も来ないみたいだよ。ましかから、メール来てさ--」
「ようやく愛の告白が?」
切子ちゃんは両手を頭の後ろに組んで、ニヤリと笑う。
「いや、今の流れでどうしてそうなる」
本当にこいつは話をまともに進めようとしないな。とことん話を聞かないなぁ。
「で? 何と?」
「ああ、ましかのメールでさ。みんな用事があるみたいだって……今日は僕と切子ちゃんの二人だけみたいだ」
身体を寄せて僕に近づく変態。
僕はじりじりと後ろに下がる。
「二人きり……なのか。良い響きだ。ということは先輩とアンナコトやコンナコトが、やりたい放題なのだな!」
「帰る」
「あぁ〜ん。先輩のいけずぅ〜」
鞄を持った左手をしっかり両手で固められた。僕は筋力に自信が無いので、無理に切子ちゃんを引き剥がそうとはしない。正直、切子ちゃんには普通に負けそうだ。握力強いよ! この女!
「今日はぁ、帰さないゾ☆」
「☆とかヤメロ!」
「せんぱぁ〜い」
「いやらしい声とか禁止!」
自然と声が大きくなってしまうが、僕は構わなかった。自分の貞操を守る事に、誰が躊躇するだろうか。僕は左手を握られたまま、どうやって準備室を出ようかと画策した。
そして、完璧な作戦を考えた。
「誰かぁぁぁぁーーーー! たぁぁすけてぇぇええええ!」
こんな僕を、みっともないと笑うだろうか、後ろ指を指して噂するだろうか。
しかし、僕は助けを呼んだ。精一杯。腹の底から、叫んだのだ。その刹那、準備室の扉が開き、誰かが入ってきた。
「あぁん? 誰か叫びよったと思うんじゃけどぉ〜……なんかあったんか--」
背の高い、紫色の長い髪。なんとも記憶に新しい。ましかと街に出掛けた時、映画館で会った、広島弁の男だ。
何故こんなところに、この人が居るのか。思考が追いつかない。
少し気を抜いていた僕は、切子ちゃんに押し倒される。
「んん? おぉ! ふぅむ。ほぉほぉ」
紫髪男は、何かを考えている。目を閉じて、眉間を人差し指でトントンと叩いている。
「邪魔したのぉ」
そう言って、男は調理準備室を出て行こうとしている。僕は藁をも掴む気持ちで、彼に助けを求めた。
「待ってくださいっ! 助けて下さいよ!」
男は立ち止まり、こちらを振り返らずに言った。
「んー。な〜んか、たいぎそうじゃけんなぁ……。じゃが……その声、どっかで聞いたのぉ〜。はて、何処で聞いたか〜」
「デパート! 違う、映画館! 映画館、映画館で道を聞かれました! 思い出して! さぁ、僕を助けて下さい!」
どうしよう。切子ちゃん、僕に覆い被さってる。僕がライスなら、切子ちゃんはカレー……とか、そんな事考えている場合では無い。
「はぁ〜。仕方ない奴じゃの〜。ほらっ」
男はこちらに近づき、僕に覆い被さった切子ちゃんをひょいとつまみ上げた。変態ジャージ娘が、借りてきた猫の様に大人しくなる。
僕は制服についた汚れを払いながら、男に言った。
「助かりました。学校の関係者の方だったんですね。ありがとうございます」
男は一度、切子ちゃんを見てから、僕を見下ろしながら口を開いた。
「ん〜? まぁのぉ。関係者っちゃあ、関係者じゃわいのぉ」
「新しい……先生ですか?」
切子ちゃんが間髪いれずに、男に言った。口調が正しくなったのは、気にしないでいた。
「ん〜。あれじゃ。ワシは〜、この部活の顧問になった、らしいわ。な〜んか、たいぎいんじゃが……まぁ、特別手当くれるって言うとったし、やろーかのー、って」
「それでわざわざこの学校に、こんな時期に?」
また、切子ちゃんが問う。
これから顧問になる先生が、口を開く。
「まぁ、この部活が潰れるまでって契約じゃけ〜……よろしくの」
「どういう、意味でしょうか。部活が……潰れるまでって……」
勘違いしないで欲しい。このシリアスな台詞は僕の口から出たものだ。流れで切子ちゃんに言われる前に、先手を打ったのだ。
男は紫色の長髪を弄りながら、言った。
「ん〜? そんままの意味じゃろ。ワレ、国語だけはやっとけよ。ちゃんとした社会人になれんで」
「脱線しそうなのでスルーします。先生、で、いいんですよね? まずは……お名前、お聞きしてもよろしいでしょうか」
僕は制服の襟元をただし、先生を睨みながら言った。
先生は「はんっ」と鼻で笑って言った。
「ワシは剣持。剣持蓬じゃ。よろしくの。問題児達よ」
そう言って、剣持先生は切子ちゃんから手を離し、準備室を出て行った。
しばらくの間、僕たちはぽかんと、馬鹿みたいに口を開けていた。
「先輩、そろそろ口を閉じたらどうだ? 馬鹿みたいだぞ」
「お前にだけは言われたくない台詞ナンバーワンだよ」
部屋いっぱいにオレンジジュースを零したように、外の光が流れ込む。
僕たちに、顧問?
いや、それだけじゃない。剣持蓬。彼の言葉が引っかかる。
『この部活が潰れるまで--』
何だろう。この胸のざわめきは。