狩場不安定
「頼む、うまくいってくれよ……」
木の陰に隠れながら彼は小さく祈りを捧げる。もう手元には罠に使える道具が残っていない。彼にとってはこれが最期のチャンスだった。周囲の木々が予想よりも深く、彼の位置からはソレの様子を伺い知る事は出来ない。彼は物音だけを頼りに、ソレが罠に掛かるのを待った。普段はさわやかな気持ちにさせてくれるはずのそよ風が、今は雑音にしか聞こえない。意識を集中させ、彼は自分が望む音以外全てを遮った。やがて……
「……! 掛かった!」
木々の揺れるさざめきの中に重量感のあるズシンという音。彼が急いで罠を仕掛けた場所に向かうと、そこには黒く大きな獣の姿があった。普段ならば巨体ながら素早い身のこなしで、目で追うことすら難しいその怪物が、今はその場に身動きが取れずにいる。後ろ足が穴にはまって出られないのだ。用心深いヤツだったがやっと掛かってくれた。どうやら落とし穴の上に生肉を置いておいたのが効いたらしい。彼はその様子を見るや、背負っていた鈍器を持った。
「くらえっ!!」
それを怪物の頭に向かって2、3回叩きつける。流石に直撃すれば良く効く様で、傍目からも昏倒している事が見て取れた。これまで正面からぶつかっていた時とは大違いである。勝てる、そんな考えが彼の頭の中を過ぎった。
「いや、まだだ!」
しかし首をブンブンと横に振ると、彼は再び鈍器を振り上げる。相手は化け物なのだ、容赦などしてはならない。そう言い聞かせながら、安易な考えを払い除けようと思い切り鈍器を振り下ろした。同時に、獣からも悲鳴が上がる。
「まだ咆哮する体力が残ってるのか!」
その声にも彼は怯まない。過去の戦いでなんども威嚇された経験を元に、今回は耳栓を付けて来たのだ。今度こそ止めを刺そうと、武器を持つ手に力を込める。しかし、
「!? うわぁっ!」
彼は獣が吼えながら大きく飛び上がるのを見た。ついに落とし穴を抜けたのである。驚いた彼は思わず尻餅をつく。自由の身となった獣はそれを見逃さなかった。着地と同時に距離を詰め、前足で彼にのしかかる。そして身動きが取れなくなったところに鋭い牙で襲い掛かった。
「クッ……化け物めぇっ!」
彼は襲い来る牙を右に左にと紙一重でかわす。しかし、それも長くは保たないであろう事は火を見るより明らかだった。必死の抵抗にと、彼は武器をがむしゃらに振り回す。普段の獣ならばかすりもしないであろう攻撃。しかしその時ばかりは違った。度重なる頭蓋への殴打で動きが鈍っている獣にその余力はなく、攻撃は再び顔面……それも右目に直撃する。獣の呻き声と共に、前足の力が緩んだ。
「……! 今だっ!」
隙を突いて獣の腹に蹴りを入れる彼。ダメージこそそれ程大きくはないだろうが、獣は目の痛みで踏ん張りが利かず、姿勢を大きく崩す。黒い体毛が辺りに飛び散った。
「うおぉぉぉおおっ!」
それだけで彼は止まらない。再び武器を構えると、フルスイングで露出した獣の腹部に一撃を加える。獣は勢い良く後方に転がり、彼もまた勢い余って回転しながら倒れ込んだ。起き上がったのはほぼ同時。しかし行動を始めるのは僅かに獣の方が早かった。彼は起き上がりと同時に、獣が林の中へと逃げようとするのを目にする。ゆっくりと、足を引きずりながら。
「逃がすかっ!」
林に身を隠されたら厄介だ。ああいった場所では人間よりも動物の方が素早く動けるし、探している間に回復をされてしまう。彼は咄嗟に近くにあった石を拾った。それを逃げる獣の後ろ姿に向かって投げつける。幸い獣は後ろを向いていて石に気付かず、動きも鈍っていたので外れる事はなかった。見事足に当たり、獣を転倒させる事に成功する。
ここで彼は確信した。普段からは考えられない程のろのろとした動きといい、石一つで倒れ込む脆さといい、ヤツは相当に弱っている。そこに勝機を見た彼は、再び武器を大上段へと構えた。
「……とどめだあぁぁああっ!」
助走をつけ、飛び上がり、全体重と共に武器を一気に振り下ろす。グシャリ、という血生臭い音が聞こえた。獣の頭蓋に直撃した瞬間、ソレの全身が痙攣したが、それ以降はピクリとも動かない。傷だらけの身体に触れると、まだ暖かい……が、じきに冷たくなるだろう。もう、脈は聞こえない。そしてそれは、彼の勝利を決定付ける証となった。
一瞬の沈黙、しかしその静寂は彼の絶叫によって掻き消される。
「討伐……完了ォォオオッ!」
声と同時に豪快なガッツポーズを見せる彼。頭の中には彼の勝利を讃えるかの様にファンファーレが鳴り響く。いや、今の彼には木々のざわめきすらも賞賛の歓声に聞こえただろう。そんな状態で、背後から近づいて来る影に気付く事など出来ようはずもなかった……。
「おい、何をやってる」
彼の後ろ襟を掴んだのは、中年程の男性だった。ボサボサの黒髪にはフケが溜まり、不潔感が漂う。すすけたワイシャツの上から所々汚れたほっそりとした身体は痩身という言葉が良く似合うが、見た目より力があるらしい。彼はそのまま片手で宙に浮かされ、離れる事が出来なくなった。同時に、手に持っていた武器も取り落としてしまう。
「まったく、公園で中学生くらいの子供がバットでドーベルマンを虐めているという話を聞いたから来てみたら、案の定か。一体なんのつもりでウチのペットを……」
どうやらこの男が黒い獣……大型のドーベルマンの飼い主らしい。少年が考えていたより余程落ち着いた様子で、男は問い掛ける。対する少年は、気味の悪さを感じさせる薄笑いを浮かべながら答えた。
「モンスターの討伐さ」
「モンスター? 君にはあの犬がモンスターに見えるのか?」
聞き返しながら男は襟を掴んだ手を離す。自由になった少年は手前にあった鉄棒に飛び乗り、腰掛けた。顔こそ笑ってはいるが、その目は怒りと蔑みに満ちている。狂気入り混じる表情で少年は答えた。
「犬がこんな所に縄もつけずにいるはずないだろう?」
言いながら親指を後方に立てる。指の先には立て看板に「ペットの放し飼い禁止」の文字が書かれていた。看板は所々が傷み、文字も煤けていて辛うじて読める程度である。とても、昨日今日に立てられたものという様子ではない。
「つまり、アレは犬に見えても良く似た違う生き物だ。人を襲い、住民を脅かすモンスターなんだよ」
少年は座った姿勢のまま鉄棒で後方に一回転し、そのまま着地した。顔を上げるとあれきり動く気配のないドーベルマンを睨みつける。その憎しみに満ちた視線から迷惑以外の物を感じ取った男は、少年に尋ねた。
「人を襲い、とはどういう事だ。被害者でもいるのか?」
少年は小さく頷く。そして、
「僕の姉がそうだ」
こう答えた。そこからは彼の独白が続く。
「姉はジョギングの後この公園で休憩を取るのが日課でね、その日は特別疲れていて居眠りしてしまったらしい。目を覚ましたら目の前にアイツが居て、驚いた拍子に上げた声で今度は向こうが驚き、ガブリだ。幸い怪我は大した事はなかったが、傷口から何か悪い菌が入って今は入院している」
少年の言葉を男は何も答えずに聞いていた。ペットを殺されたにも関わらず不自然に落ち着き払っているのは気になるが、罪悪感にでも苛まれているのかと思いながら少年が言葉を続ける。
「アンタが悪いんだぜ? 無断で、不用意に、無責任な事をするから……」
「なるほど、良く分かった」
突然、沈黙を続けていた男が少年の言葉を遮る。と、今度は男が語り始めた。
「君のお姉さんには悪い事をした、今度謝罪をしにいこう。それに、今後あの子をこの公園には連れてこない、これも約束する。そして不用意な行動への戒めとして、君があの子を殺しても不問としよう」
少年は男の言葉に一瞬感動を覚える。不遜な態度は気に入らないが、彼の発言は言わば全面降伏だ。自分が罪を背負う事は構わない、それでも恐れる事なく悪に立ち向かう事こそ英雄の証だ。そう思い、少年院送りも覚悟しての行動だった。それが、まさかこの様な形で完全勝利が訪れるとは。しかしそれも一瞬の事、次に彼を襲ったのはまるで犬が生きているような言い回しに対する違和感と、続けられた男の言葉だった。
「ただし君があの子を殺せれば、の話だがね。あの子を怒らせたのは君の自己責任だ、相手はしっかりしてもらおう」
少年は既に不安と困惑を隠す事が出来ない。怒りや憎しみといった色が消え、焦燥感に支配された瞳で男に問いかけようとする。
「おいあんた、一体何を言って……」
「そろそろ”仮死状態”が解けるぞ」
しかしその問いかけは男の声によって遮られる。だが、同時にそれは問いに対する答えともなった。直後、鼓膜を直接打つようなドクン、という音が聞こえる。もうテレビなどで飽きる程聞いた鼓動の音。しかし、驚くべきはその大きさだ。それは確実にドーベルマンを音源とし、数メートルを置いてなお耳元へと響いていた。
「なっ……!?」
先程まで息すらしていなかったはずのドーベルマンがゆっくりと起き上がる。そしてあろう事か、ソレは目の前でその四肢を膨張させ始めた。
「極度の興奮状態になるとカムフラージュが解けてしまうのは分かっていたが、まさかドーベルマンに挑む人間が居るとは思わなかったな……どうした、モンスターの討伐がお望みだろう?」
男はなおも冷静な表情のまま、腰を抜かして震え上がる少年に声を掛ける。少年はというと、鼓動相応に大きくなった、山の様に大きなソレを見上げながら「あ、あぁ……」と嗚咽を漏らす事しか出来なかった……。
本当の狩りは、これから始まる。