追憶6『迫り来る恐怖』
静かな闇の中。
聞こえてくるのは2人の足音と僅かな息遣い。
少し強めの風が、俺の前髪と傍らの女の髪を撫でて行く。
「風が、出てきたな」
ポツリと呟き見上げた空には、大きな月とその光を奪おうと押し寄せるどす黒い雲。
雲に覆われそうになる綺麗な月に目を細めていると、隣から女の声が聞こえた。
「ここです……」
女の呟きに視線を戻す。
大きく開けた空間。
視界を遮る木々もなく、地面を覆う草花もない。
枯れ果てた大地。
歩き続けた俺とクシナダは、オロチが現れるという山の頂にやって来た。
何もない寂しい空間の中に、ひっそりと佇むいくつかの大きな『樽』が目に入る。
「何だこれは?」
そう言って樽の中を覗き込む。
香る独特の匂い。
「……酒か」
山の頂に何故か置いてある大量の酒樽。
視線をクシナダに向ける。
酒樽を見るクシナダの表情に影が落ちる。
「きっと昨日の内に村の者が運び込んだのでしょう…」
そう言って目を伏せるクシナダの瞳には悲しい色が浮かんでいた。
「ふぅ……」
何と声を掛ければいいのかも分からず、俺はそっと溜息を吐いた。
「……」
「……」
俯くクシナダの姿を見つめる。
月下の泉で、仕舞い込んだ想いをぶちまけ、泣きはらした生贄の姫。
泣きやんだ彼女は俺の目を見つめ優しく微笑んだ。
別にたったあれだけの事で俺を全面的に信用した訳でも、必ず生き残れると確信した訳でもないのだろう。
けれどその儚い微笑みの中に、生きようとする意志のような物が浮かんでいるのを見て、俺の心は少しだけ満たされたのを思い出す。
「おい――」
俯くクシナダに声を掛けようとした瞬間。
「――――ッ!」
突然大地が大きく震えた。
不気味な音を立てて震える大地。遠くから寒気のする地響きが伝わってくる。
クシナダが身を縮こませる。
「目覚めたか」
遠くから感じる気味の悪い感覚。
あれほどまで温かく感じていた世界が、みるみる絶望と恐怖に包まれる。肌がねっとりとした空気に悪寒が走る。
疑う余地もない。
今この瞬間、邪神『八岐大蛇』が動き出したのだ。
「しかし……」
言って俺はその不気味な気配のする彼方へと視線を向ける。
遠くに感じる巨大な妖気。
あらゆる物を破壊しつくす様な冷たく歪な力。
(大物だとは思っていたが)
唇を噛み、遠くを見つめる視線に力を込める。
(まさかここまでの化け物だとは)
遠くから感じる妖気。
途方もない悪意の渦。
今まで感じた事のないほどの穢れを纏ったとてつもない大きな力。
(これは、まずいな……)
目を細める。
(気の大きさだけなら、イザナギやイザナミ様を軽く凌駕するぞ)
自分の右手を見つめる。
これでも俺は『天界最強』などと言われていた。
どうしてそう言われるようになったのかは知らないが、実際の所は違う。
天界で最も強かったのはイザナギ、そしてイザナミ様だった。
(はっはっは、まだまだだなスサノオよ)
頭の中にいつか聞いた父、イザナギの野郎の言葉が木霊する。
(結局イザナギには一度も勝てなかったが)
嫌な記憶を思い出しそうになり俺は頭を左右に振る。
天界の力の序列。
一番がイザナギとイザナミ様。
その次が俺とツクヨミ、そしてアマテラス。
(もっともあの女は戦い向きじゃなかったがな)
単純な神気の大きさで言えば、俺やツクヨミすら凌駕していたのだが。
(その次はタケミカヅチ辺りか?)
頭の中に豪快な笑顔を浮かべた大男の姿が現れる。
短い髪に屈強な肉体を持った戦士。
――タケミカヅチ。
大らかながら一本芯の通った真っ直ぐな性格。
気さくで明るい性格は周りの者をいつも勇気づけていた。
気は優しくて力持ちを地で行く男。
イザナギ譲りの剣術と正義の雷を振るう天界の勇者。
(今頃は高天原の戦士達のまとめ役でもしているか?)
幾度かした手合わせも中々楽しかった。流石に負けはしなかったが。
俺がツクヨミ以外で最も信用していた男だった。
(もっとも本来なら)
そう考える俺の頭の中に別の嫌気のさす声が響く。
(覚えてろよスサノオ! この借りは必ず返してやる! あの女もだ! ひゃ~はははは)
灼熱の炎のような髪の色に、地獄の業火を思わせる赤い瞳を持った男。
本来であれば俺やツクヨミと共に高天原の中核を担っていたはずの男。
(お前はもう死んだんだ……カグツチ)
思い出の中で恨み事を言う男にそっと告げる。
カグツチ。俺が強さを求めた原因。母上を傷つけた男。
(確かに、生きていれば俺やツクヨミといい勝負だったかもな)
だがもうこの世にカグツチは存在していない。
左腰に携える宝剣に手を添える。
そう、カグツチは数年前、この剣によってその魂を切り裂かれたのだ。
俺の手によって。
体に伝わる振動で意識が引き戻される。
ふと放りっぱなしだったクシナダを見やる。その顔は青ざめ、体は小刻みに震えていた。
(さて、どうする?)
あれだけ大見栄をきったのだ。今更奴の方が強い――などとは口が裂けても言えない。
思案する俺の視線が酒樽を捉える。
(そうだ!)
ある事に思い至った俺は右腰に手を伸ばす。
そこにあるのは何処にでもありそうな普通の『とっくり』。
酒樽に歩み寄りながらとっくりを手に持つ。
そしてとっくりの中身を酒樽全てに垂らし込む。
(これでいい。後は――)
酒樽に背を向けクシナダを見やる。
クシナダは身をすくめたままその場にへたり込んでいた。
(直接戦わないにしても、動けないのは流石にマズイな)
戦いの余波もある。身を隠すくらいには動けてもらわないと困る。
まさか俺が姫を抱えながら戦う訳にもいくまい。
クシナダの傍まで歩み寄り、その傍らに腰を落とす。
俺の気配にクシナダが俺を見やる。
見上げてきたクシナダの表情は青ざめていた。
「ひどい顔だな」
少し穏やかな声で語りかけてみる。
「あ……、ごめんなさい。ちょっと、驚いてしまって」
そう言って無理やりに笑顔を作ろうとするクシナダ。
(護ると言った俺に恩義でも感じているのだろうが、無理をする)
自然と俺の顔に笑みがこぼれる。
「?」
そんな俺の様子をいぶかしむクシナダ。
「オロチがここに来るまでに話しておく事が二つある」
「話し……ですか?」
疑問を返すクシナダの目の前に先ほどの『とっくり』を掲げ手渡す。
「これは?」
首をかしげるクシナダ。
「少しだけ口に含んでみろ」
俺の真意に疑念を持ちつつも、言葉通りとっくりに口を当てる。
「本当に少しだけにしておけ、間違っても飲みこむな」
そう言った俺の目の前で、とっくりを口にしたクシナダがせき込む。
「――ッ!? けほ、けほっ」
「はっはっはっ」
何とも言えない微妙な表情のクシナダの姿に、俺は思わず笑いをこぼす。
「けほっ、けほっ……何なのですか、これは?」
少し目尻に涙を浮かべクシナダは俺を睨みつける。
「それは天界最高と謳われる酒だ。『産霊』という」
笑いを堪えつつ俺はクシナダの疑問に答える。
「お酒、ですか? けほっ」
未だせき込むクシナダにさらに告げる。
「あの酒樽にもいくらかその酒を忍ばせた」
言って、村人が用意したのであろう大量の酒樽を見やる。
「あの……?」
訳が分からぬままのクシナダに、俺はある『思いつき』を話し始めた。
「姫よ。八岐大蛇がここへやって来たら、酒を進めろ」
「えっ!?」
「さっきも言ったが、その酒は天界で最も強い酒でな。そうとうの酒豪でさえ一口で酔いが回る幻の逸品だ」
実際その酒『産霊』を飲んで平気な顔をしていたのは、俺の知る限りイザナミ様だけだった。
「一口飲めばたちどころに酔いが回る。おそらく八岐大蛇でさえもな」
気持ち楽観的に語ってやる。
「そしてオロチが酔いつぶれた所を俺が叩き斬ってやる」
表情を引き締めクシナダの瞳を見つめる。
左腰に携えた宝剣を右手で引き抜き、その刃を姫の眼前に持って来て静かに告げる。
「この宝剣『天羽々斬』でな」
姫の美しい顔を照らす様に、金色の刃が妖しく輝く。
「――――」
まるで刃の美しさに見とれるように、クシナダはジッと天羽々斬を見つめる。
刀身から発せられる光は見る者を魅了し、立ちふさがる者すべてを切り裂く美しくも冷たい輝きを纏っている。
その宝剣は剣に詳しい知識がなくとも一目で感じ取れるほどの圧倒的な力を放っていた。
「まあ、酔いつぶさなくとも真正面から切り裂いてやってもいいのだがな。用心に越した事はないだろう」
言いながら剣を鞘に戻し、再び表情を緩める。
「初めから俺の姿があってはオロチも警戒するかもしれん。だからお前にオロチに酒を進める役目を任せたい。なに、現れてすぐ取って食われる事はないだろう」
恐怖や不安を少しでも紛らわせるように、ゆっくり穏やかな声でクシナダに語りかける。
「万一いきなり襲ってきても案ずるな。素早さだけは自信がある。オロチの牙がお前に届く前に救い出して見せる」
これだけは出まかせではない。
実際俺の速さについて来れる者は天界にもいなかった。
(イザナギにもイザナミ様にも……ツクヨミにもな)
「どうだ? 出来そうか?」
クシナダの頭に手を載せ問う。
「あ、はい!」
呆然としていたクシナダに表情が戻る。
(いくらか気が紛れたか)
不安は残りつつも、幾分表情の和らいだクシナダを見て、俺は内心胸を撫で下ろす。
だんだんと大きくなる地響き。
震える空気に身をすくめながらも、クシナダが真剣な面持ちで語りかける。
「あの、先ほど二つのお話があると。もう一つは何なのでしょうか?」
どうやら酔いつぶし作戦と天羽々斬のおかげで少し生きる希望が持てたらしい。
待ちきれないとばかりにクシナダは身を乗り出してくる。
「ああ、お前は戦いの経験は?」
ふるふると首を横に振るクシナダ。
「だろうな。何か武器や戦う手段などは持っていないのか? それだけの霊力を秘めているのだ。使いようによっては大抵の妖魅は撃退できるだろう?」
俺の問いにまたも力なく首を横に振る。
「戦う術は持っておりません。武器もありません。霊力があると言っても、せいぜい村の子供が転んでひざ小僧を擦りむいた時に治してあげるくらいしか」
期待していた事とは違う内容の話しだったのだろう。
クシナダは顔を曇らせ力なく俯いた。
「そうか。まあ、期待はしていなかったが」
そんな俺の呟きにクシナダは身を縮こませる。
そうこうしている内にも地響きはより大きな音を立てて近付いて来ている。
(あまり時間も無いな)
近付く気配に意識を向けつつ、俺はクシナダの綺麗な両手を掴む。
驚いたクシナダが顔を上げる。
「あ、あのっ、何を!?」
少し慌てている様が可笑しかった。
「いいか、両手を胸の前で組め。そうだな、祈りを捧げるような感じで」
クシナダが持っていたとっくりを奪い地面に置くと、俺は言いながらクシナダの両手の指を組み合わさせる。
「えっと――」
訳も分からないと言った顔で俺を見るクシナダに、少し強めに言い放つ。
「いいから言うとおりにしろ」
そっとクシナダの手から自分の手を離す。
「…………」
いくらかの沈黙の後、クシナダは俺の言ったとおり祈るような仕草をする。
「よし、いいか? 合わせた掌の中に意識を集中しろ。子供の傷を癒す時と同じような感じだ」
俺の言葉にクシナダは目を瞑り意識を集中させる。
高く澄んだ音色が地響きの続く空間に響き渡る。
クシナダの手元から淡く青い光が漏れ出る。
(この澄んだ霊気。この女本当に人間か?)
目の前の女から漏れ出る霊気。
一切の邪悪を近づけないような気高く澄んだ力。
(高天原にもここまで澄んだ気を持つ者はそういなかったはずだ。あの女の神気までは届かないがな)
一瞬、泣き崩れる『太陽の女』の顔がチラついた。
「ちっ」
頭を振り目の前のクシナダに意識を向け直す。
「よし、いいか? そうしたら頭の中で武器を思い描け。剣でも弓でもなんでもいい。自分が扱えそうな武器を思い描くんだ」
俺の言葉にクシナダは無言で頷く。
意識を集中するクシナダの額に汗が浮かぶ。
「体に力を入れる必要はない。意識を掌に向けて思い描くだけでいい」
俺の言葉通り肩の力を抜き静かに深呼吸をする。
すると、掌から漏れ出ていた淡い光が、ゆらゆらと立ち上りゆっくりと姿を変えていく。
「そう、そのまま。焦らなくていい、ゆっくりと」
俺の言葉が途切れてからほんの少し後、立ち上った淡い光が一瞬激しい光を放つ。
「――――ッ!」
驚いて瞑っていた目を開けたクシナダの両手の中、形の定まらない不安定な状態だった霊気が、優しく温かい輝きを放つひと振りの短刀のような形へと姿を変えてそこに在った。
――霊気の短刀。
そう表現出来そうな淡い青色の刀身を輝かせた短刀だった。
「これ……は?」
突如自分の手に現れた霊気の短刀と俺の顔を交互に見比べながら、クシナダは目を白黒させる。
「見たとおり、お前の相棒だ」
表情を緩ませクシナダに声を掛ける。
「私、の……?」
そう言って両手で握った霊気の短刀をジッと見る。
「ああ。高天原の連中は自分の神気で物を作り出せる術を持った奴が沢山いたんだが…。今お前に教えたのはそんな術の中でも本当に簡単なものだ」
(そういえば『あの女』は弓矢がお気に入りだったな)
また過去の夢に浸りそうになる俺の思考を、低くうねる地響きが現実に引き戻す。
「適当な教え方だったが、予想以上に体現して見せたな」
クシナダが握る霊気の短刀を見る。
その刀身から発せられる淡い光は、その温かさを表す清浄な力で満ち溢れている。
(しかし、これほどとは)
その発せられる力強さに思わず俺は呟いた。
「これは……術というより、もうすでに『神技』の域だな」
「神技?」
俺の言葉を聞いたクシナダが首をかしげる。
「ああ。神技。その名の通り神の技。そうだな、神が自分の力を体現する……一番の得意技ってやつだ」
言ってまた笑みを返してやる。
「神技……」
手元の短刀に視線を落としそうつぶやくクシナダ。
「おい、ちょっと向こうに向かって振りかざしてみろ」
そう言って、俺たちから離れた何もない中空を指差す。
「え? あ、はい」
頼りない返事ながらも、ゆっくりと立ち上がったクシナダは、言われた通り何もない空間に向かって短刀を振りぬく。
高く澄んだ音が辺りに木霊したかと思うや、短刀の青く澄んだ刃から一筋の青白い閃光が飛び立ち闇の彼方へと消えていく。
「――――っ!?」
突然の事にその場に固まるクシナダ。
俺は閃光が消えた闇を見据えつつ思う。
(最初にしてはかなり上出来だ。まあ、戦うとなると話は別だが)
スッと立ち上がりクシナダの顔を覗き込む。
唖然とした表情のクシナダが俺の顔を見つめる。
「これが話しの二つ目だ。丸腰よりは心強いだろう?」
そう言ってまた少し微笑んでやる。
(さっきから甘やかし過ぎか?)
ふと慣れない笑顔を作る自分を想像して気分が悪くなった俺は、視線をクシナダから外しそっぽを向く。
「ふふっ」
笑い声に視線を向ければそこには穏やかな笑顔。
クシナダの表情にいくらかの明るさが戻る。
そんな笑顔に心奪われる。
内心を隠す様に視線を外し語りかける。
「まあ、なんだ、その。最初にしては上出来だ。一体何を思い浮かべながらその短刀を作ったんだ?」
俺の問いにクシナダは笑顔はそのままに答える。
「そうですね……。先ほどスサノオ様が見せてくれた美しい剣、天羽々斬でしたでしょうか? はじめはその剣を思い浮かべようとしたのですが、私が扱うには無理があると思いまして。そこで昔見た我が家に伝わる護神刀を思い出しその姿をスサノオ様の剣と重ねました」
ゆっくりと、噛みしめる様に語るクシナダ。
「そしてどうせならと思い、私の宝物であるあの泉の景色も取り入れてみました」
「どうせならって……意外と欲張りなのだな」
「ふふふ、そうです。私、意地汚い女なのですよ?」
そう言って呆れた顔の俺を可笑しそうに覗き込む欲張り姫。
覗き込んできたクシナダの顔に浮かぶ笑顔が嬉しくて、ついこちらも表情を緩めてしまいそうになる。
「そうか、おかしいな? 俺が初めて会った時は欲も何も無い純粋な女なのかと思ったのだが」
内心の葛藤を誤魔化そうとそんな事を言ってみる。
「それは申し訳ない事を致しました」
それでもなお笑顔のクシナダ。
そんなおどけたクシナダの姿を嬉しく思いつつ、俺はさらに言葉を掛ける。
「せっかくなのだ。どうせなら名前でも付けてやったらどうだ?」
「名前? この霊刀にですか?」
「霊刀というか神技だな、お前の」
「私の……神技」
神妙な面持ちで呟く。
「あの、スサノオ様も神技をお持ちなのですか?」
「ああ、俺の神技は『虚空』という名だ」
神技の名を口にした瞬間、俺の胸がチクリと痛む。
そんな俺の様子に気づいた様子も無く、クシナダは俺の神技の名を反芻する。
「虚空……」
「別に、お前の神技なのだ。好きな名を付ければいいだろう」
「では……『結美』と」
「『産霊』ぃ?」
「はい。あ、違いますよ? 結ばれるという字に美しいと書いて結美です」
俺の素っ頓狂な反応に慌てて訂正してくるクシナダ。
「なんでよりによって同じ音なんだ?」
「いろいろな想いを詰め込んだらこうなりました」
言って悪戯っぽく笑うクシナダ。
「一体何を詰め込んだんだ?」
呆れ顔で聞き返す。
「『むすび』という音は先ほどスサノオ様に意地悪された所から、美しいという字は月の光を受けて輝く泉の水面の景色とスサノオ様の『天羽々斬』から、そして結ぶという字は――」
言いかけて俺の顔を見つめるクシナダ。
「……内緒です」
穏やかな表情を浮かべながら、クシナダは優しく呟いた。
「まあ、言いたくなければ構わん。そこまで興味もないのでな」
最後は冷たく言い放ちクシナダに背を向ける。
背後から伝わってくるクシナダの気配。
そこに恐怖や絶望に沈み込む姿は無かった。
あるのはただひたすらに深く優しい感情だけ。
(体がすくんで動けないって心配は無くなったか)
もう、すぐそこまで地響きが近付いて来ている。
左腰の天羽々斬に手を添える。
(…………)
泣き崩れる太陽の女。
無感情に俺を見つめる、夜を支配する男。
月下の泉で儚げな笑顔を見せる生贄の姫。
頭の中をさまざまな表情が現われては消えていく。
背後を振り返る。
そこには漆黒の瞳に強い決意を湛えた美しい姫。
もう震えて絶望している姿は無い。
クシナダと視線が絡まる。
「…………」
「…………」
無言で頷く俺にクシナダも無言で頷き返す。
空を見上げる。
先ほどまで優しく世界を照らしていた大きな月は、絶望を纏ったかのようなどす黒い雲に覆われその姿を捉えられていた。