欠けた盆、満ちる月
庭先の叢から、鈴虫の声が絶え間なく湧き上がっている。かつては騒がしいとさえ思えたその声が、今夜は不思議なほど静けさに馴染んでいた。
縁側の黒ずんだ杉板は、昼の熱をすっかり吐き出して、厚手の靴下越しにもひんやりとした。暖かなズボンに履き替え、膝にはひざ掛けまで掛けている。
『夜は冷えるんだから、そんな格好でいるんじゃない』
生前、彼には何度もそう言われたものだ。
今ではもう、口うるさく言ってくれる人はいない。それでも、夜の縁側に出るときだけは、言われた通りにしている。
膝の上においた少し節の目立つ両手が、どこか所在なげだった。傍らには、いつもの半月盆に載せられたみたらし団子が三本、醤油の甘辛い匂いをかすかに漂わせている。自分の湯呑みからは、もう湯気が立っていない。男物の湯呑みがひとつないだけで、盆の上の景色はひどく間延びして見えた。
見上げれば、中天に見事な満月が掛かっている。雲を透かした光が、地上の陰影を濃く暴き出していた。昨日、植木屋が整えたばかりの生垣も、月明かりの中では黒々とした輪郭を浮かべている。
「ちょっと具合が悪いだけだよ」
半年前の春先、居間のこたつで不意に手許を狂わせ、湯呑みを落とした彼は、そう言って照れ臭そうに笑ったのだ。医者嫌いの彼が、珍しく弱音を吐かないことを健気だとさえ思った己の浅はかさが憎い。
脳梗塞、という冷徹な言葉を医師から告げられたときには、彼はもう、遠い場所へと一人で旅立つ支度を終えていた。呆気ないほど静かに、あっさりと息を引き取った姿が、今も瞼の裏に焼き付いて離れない。
悪い人。本当に、勝手で悪い人。
湯呑みのない盆の上に指を這わせ、そこだけがひどく冷たいことに、今更のように気づいた。四十年以上も連れ添った男の気配は、家々の隙間を吹き抜ける夜風よりも簡単に消え去ってしまうものなのか。
「去年は、一緒に見ていたのにね」
声にしてみると、それは呟きというよりも、夜の深みに吸い込まれていくため息のようだった。
満月の白い光を凝視していると、輪郭が次第に滲み、歪んでいく。あの頑なで、どこか不器用だった夫の丸い背中が、月光のなかにぼんやりと浮かび上がってくるような錯覚に囚われた。冷たい光のはずなのに、見つめていると、胸の奥がじんわりと焦げるように熱い。
鈴虫の声が、一段と高く夜気を震わせた。
ふ、と我に返る。いつまでも月を見上げていたところで、あの人が戻ってくるわけでもない。
こわばった手をゆっくりと伸ばし、すっかり冷めて少し硬くなった団子をひとつ、口へと運んだ。
そのとき、生垣の向こうから、聞き覚えのある声が弾んだ。
「ばばちゃーん!」
「夜だから走らないよ。ほら、手をつなぐ約束」
「はーい!」
ぱたぱたと小さな足音が近づいてくる。すぐ後ろから、娘の足音も聞こえた。
やがて家の角から、手をつないだ二人が現れる。孫はするりと娘の手を離すと、私の膝に飛びつくようにしがみついた。冷え切った体に、小さな重みと温もりがどっと流れ込んでくる。
「お月さま!おっきいの!見たー!?」
「はいはい。見ましたよ」
「とても綺麗な月だね」
娘が私の隣で、月を見上げる。
そして、ふと縁側の盆に目を留めた。二本並んだみたらし団子。
「……お父さんも好きだったよね。『みたらし団子は絶対に譲らん』って頑固でさ」
娘が苦笑いを浮かべる。
「そうだったねぇ」
思わず笑みがこぼれた。
『これは大人の団子だ』と、よく分からない理屈をこねていた顔が、まだ目に浮かぶ。
「ばばちゃん、団子あるの?」
孫が目を輝かせる。
「ありますよ。ひとつ食べますか?」
「たべるー!」
孫は膝から下りると、私の隣にちょこんと腰を下ろし直した。手を伸ばしてくる小さな手のひらに団子を渡すと、待ってましたとばかりに頬張る。ひと口かじった途端、顔がぱあっと華やいだ。口の端に、たれが少しついているのをハンカチで拭ってやる。
その隣で、娘も靴を履いたまま腰を下ろし、ひとつ手に取った。
「じゃあ、私ももらおうかな」
縁側に、二人分の重みと温もりが戻ってくる。
さっきまでひどく間延びして見えていたのは、盆の上ではなく、この縁側だったのだと気づいた。
ふっと息をつき、口元がわずかに緩む。見上げれば、月は相変わらず大きい。
「……お父さんにも、見えてるかな」
ぽつりと呟くと、娘が月を見上げた。
「見えてるんじゃない?」
「そうかねぇ」
「そうだよ」
鈴虫の声が、夜の庭いっぱいに響いている。
去年まで隣にあった気配は、もう戻ってこない。それでも、あの人が好きだった月を、今年もこうして皆で見ている。
あの人を思い出すのに、静けさはいらないのかもしれない。
「ばばちゃん!お月さま、まんまるー!」
「そうだねぇ。本当に、まんまるだねぇ」
もう一度、月を見上げた。




