うつしよの少女
蝉の声が秋虫の音に変わる頃。夜更けに机へ向かい、読みもしない教科書をひらいていた折のことだった。ふと顔を上げれば、正面の鏡に私が映っていた。
いや、正確には私ではない『私』がそこに在った。
姿形は確かに私と同じである。肩にかかる髪の長さ、ぼんやりとした目元、少し乾いた唇の色。それでも、その微かな違和感に、私は言いようのない胸騒ぎを覚えたのだ。
彼女は、鏡の中の『私』は、わずかに微笑んでいた。しかし私は真顔で、笑っているつもりもない。自分では気づかぬうちに、こんな顔で笑っているのだろうか。笑おうとしてもぎこちなくなる表情筋で、そんな自然な笑みが浮かぶはずがない。なのに瞬きをする度、その微笑みは確かなものに思えてくる。
不思議だった。気味が悪いと感じるにはどこか優しすぎて、美しかった。
彼女は自分のことをルリと名乗っていたが、やはりそれは私の名前とは違っていた。
その夜はそれきり。私は電気を消し、布団に潜り込んでしまった。
翌日、高校より帰宅し部屋の明かりを点けると、鏡の中のルリはやはり微笑んでいた。
そればかりか私と同じ制服を着て、同じように前髪を留めているはずの彼女は、私とどこかが違って見えた。艶のある髪は絹のように整い、口角の上がり方はいかにも自然で、人当たりの良さまで感じられる。
――私よりも、少しだけ素敵な『私』がそこにいた。
そう思ったとき、胸の奥がずんと重くなった。けれどなぜだろう。その重みは少しだけ心地良い。まるで、ずっと探していた誰かにようやく出会えたような。そんな錯覚を覚えていた。
私は彼女を見るのが楽しくなっていた。今日の彼女はどんな日を過ごしたのだろうか。どこへ行き、何を食べ、誰と会ったのだろう。
私はルリに話しかけるが、彼女はいつもマイペース。返事をくれることもあるのだけれど、私たちの会話は一方通行になることが多かった。
私が話しかけてもリアクションをくれないことも多いし、ルリが延々と一人で近況を呟き続けることもある。
俯瞰して考えると不健全な関係にも見えてしまうけれど、私は彼女を日常を見ることに時間を奪われていた。
だって私はルリと同じだし、ルリは『私』なのだから。
ちょっとだけ私よりも素敵なところも、憧れを持って見ていたはずだった。
次の日も、その次の日も、私は鏡を見ていた。彼女はいつも同じ場所にいて、同じように私を見返していた。
ただ、やはり私と違うところがある。少しずつ、ルリが私の理想に近づいていくことだった。
最初は髪型だった。私よりも整った前髪、艶やかな毛先。
次に服装。私が持っていないような色合いの服、細やかな刺繍の入ったブラウス。
その変化は日替わりのように訪れ、私は気づけば、それを探すために鏡を覗き込むようになっていた。
変わるのは姿だけではない。
彼女の表情には、私の知らない大人びた影が差すようになった。笑うときの口元は何かを含んでいるようで、私よりも世界を少し先回りして見ている人間のそれだった。
私は、自分の中に生まれた感情をうまく言葉にできない。憧れのような、嫉妬のような、どちらも混ざった苦いもの。
その感情は、日常の隙間に忍び込み、勉強中にも、通学路でも、ふとした瞬間に私を締め付けた。
彼女と私の世界は何が違うのだろうか。育ち、性格、環境、才能。
それとも、努力。
私にもできるだろうか。彼女のようになれるだろうか。ルリみたいになるにはどうすればいいのだろう。勉強も、運動も、人付合いも特段得意ではない私が少しでも彼女に近づくため。
雑誌を開き、メイク動画を漁り、人気ブランドのタグを検索する。けれどもルリと同じものを手に入れることは容易でなかった。
週末に数時間、ファーストフード店でアルバイトをしているだけの私では手に届かない商品ばかりだった。
私がルリのようになるためにはこんなにもお金が必要なのかと思うと、彼女への好意は徐々に黒く毒が蝕み始める。
お金が足りない環境、ルリへの嫉妬心。私の現実は見窄らしく、惨めだ。
アルバイト中、聞こえてきた会話があった。
「あんた、今日もパパに会うの?」
「ご飯だけで一万くれるからね。でも今日はその先までいかれそうでダルい」
「ホ別三万だっけ? よくやるわ」
下品に笑う彼女たち。年の頃は私と同世代だろうか。
ボロボロと食べかすをこぼし、行儀悪く椅子に足を上げるから下着も見えそうだ。
少し前ならば内心で軽蔑していたような世界の人間なのだが、今の私の視線は別にあった。
彼女たちが無造作にテーブルに投げ出している鞄はハイブランド。はみ出ているコスメもインフルエンサーが紹介している高級品だ。
彼女たちとて、決して裕福な産まれではないだろう。にも関わらず、不相応なそれらを持てていることには理由があるということだ。
私の心臓は強く跳ねた。
私にも、できるのだろうか。
バイトを終えて部屋に戻ると、私はベッドに腰掛けて深く深呼吸をした。
スマホを握る手が震えている。カメラを開き、自撮りを試す。アイラインが綺麗に出来ていない。髪も上手くまとまっていない。スマホに映る私は、ルリとは似ても似つかない冴えない女の子だった。
けれど、それでも、彼女に近づくためならば、私はほんの少しの悪意や軽率を見ないふりができる気がした。
そうだ。最後にルリから勇気をもらおう。
嫉妬に狂う気持ちがあることに嘘はないが、憧れを持たせてくれたのもまたルリだ。ルリはきっと私に最後の一押しをくれる――そう思っていたのに、ルリは鏡の中から忽然と姿を消していた。
いない。呼びかけても、鏡を叩いても、待っても待っても、彼女の姿は戻らなかった。
私の憧れ。私の理想。私より少しだけ素敵だったルリ。
まるで私の全てがこの世界から抜け落ちたよう。
胸の奥が万力の力で締めつけられる。
「ルリ……あなたはどこに行ってしまったの」
溢れる涙を止められず、私は情けないほどに取り乱していた。ルリの喪失感はあまりにも大きく、私は半身をもがれる思いだった。
そのときだった。
ルリの消えた鏡に文字が現れる。
『このアカウント、ルリの母です。娘は先日に亡くなりました。娘はパパ活中、男性に刺されました』
文字は、震える指がスクロールするたび、次々と続いていった。
『親として恥ずかしい限りですが、若い女性へ注意喚起のためにも報告とします。ルリは本当は優しい子でした。少し危ういところもあったけれど、最後まで自分らしく生き抜こうとしていたと思います。ルリのような子が一人でも減ることを祈っています』
私は、その投稿から目を離すことができなかった。
そしてようやく思い出した。ようやく気がついた。
これは、私がルリを見ていたのは鏡ではなかった。私はずっと、パソコンのディスプレイに映るSNSを『鏡』と錯覚していたのだ。
私とそっくりな、何処にでもいる普通の女の子。ルリは私ではない。ただの他人。
けれど、私はその『他人』の日々に、夢を見て、憧れて、嫉妬して、取り憑かれていた。
電源を落とすと、暗くなったディスプレイには今度こそ自分の顔が映っていた。泣きはらして、腫れぼったくなった目。唇はきゅっと結ばれて、少し震えている。
そこにいたのは、ただの私だ。ルリではない、ルリにはなれない私。
私はスマホからSNSのアカウントを削除した。
それはささやかな儀式。依存の終わり。呪いの解呪。そして、現実に足を戻す一歩。
もう、鏡は見ない。私が見るべきものは、スマートフォンの向こうじゃない。
後日、私は久しぶりに図書室へ足を運んでいた。
窓から差し込む光の下で、ページをめくる音だけが静かに響く。
誰にも見られていない私。誰にも演じる必要のない私。
それは気楽で、秋の陽射しのように優しかった。
窓ガラスを見ると、今も私が映っている。もう誰の真似でもない、自分自身。私は私の輪郭を自分の手で少しずつ描き直していく。
もう、鏡を覗く必要はない。もう、誰かの中に自分を探すことはしない。
それでも、時折思い出すだろう。
燦々と輝く画面の中で微笑んでいた、あの少女のことを。




