前新
心の奥で、小さな歯車が軋んでいる。
その音だけがずっと鳴っていた。
「藍原。今日のフォーム、ちょっと硬かったぞ」
コーチの声が背中に刺さる。私はそれに頷くだけで精一杯だった。
全国大会常連の女子陸上部のエース、それが私。皆が目指す場所に、私は既に立っている。
いや、もう立ちすくんでいるのかも。
自己ベストはずっと、更新できないまま。
あと一歩分、前に出ればいい。たったそれだけが、できない。されど、それだけ。
私にはできっこない、のかもしれない。
――ピストル音。踏み出した一歩。その先に、過去も未来も集約される。でも私は、失敗する。どこかで、足が震えているのだ。
帰り道、校舎裏の自販機でスポーツドリンクを買う。蓋を開け、中にある淡く光るサイダーを一気に飲み、喉を潤す。その冷たさが、すっと身体に巡って気持ちいい。
「陸上部の人?」
突然後ろから声をかけられて、私は一瞬肩がびくっとなった。慌てて口許を拭い、声がした方へ振り向く。
そこには赤いイヤホンを耳にして、ベンチに座りながら空を見上げている見知らぬ女の子がいた。
なぜか涙が出そうになって、私は目をそらした。
女の子はそれ以上何も言わず、空を指差した。
私は顔を上げた。茜色が広がっている。久しぶりにその色を見た気がした。
………そう、私はずっと下ばかり向いていた。
私の目に映った空は、まるで生まれたての赤子のような温かい色をしていた。風に揺れるあの雲が、どこか自由に見える。
空はゆっくりと、前に進んでいる。
私はどうだろうか。ちゃんとゴールの方を向いて走っていたのだろうか。
「そっか…ありがとう」
自分でも驚くほど、自然に、私はそっと呟いた。
でも、ベンチの方を見ると、女の子はもうそこにはいなかった。
私は全然分かっていなかったんだ。
踏み出すためには、上を見ることも必要だった。そんな当たり前のことに、気付かされた。
私はなんだか無性に走りたくなった。今じゃない。きっと、明日じゃない。だけど――いつか、もう一度、心から走れる気がする。
翌朝、トラックに立った私は、スタートラインに爪先を揃え、深く息を吸った。ピストルが鳴る前、昨日の空が頭に浮かぶ。
私は、顔を上げ。
そして、走った。
誰かに追われるでもなく、誰かに見られるでもなく。ただ、空の色を思い出しながら、自分のために。
前進した。




