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短編小説どもの眠り場

前新

作者: 那須茄子
掲載日:2025/11/07

 心の奥で、小さな歯車が軋んでいる。

 その音だけがずっと鳴っていた。


「藍原。今日のフォーム、ちょっと硬かったぞ」


 コーチの声が背中に刺さる。私はそれに頷くだけで精一杯だった。



 全国大会常連の女子陸上部のエース、それが私。皆が目指す場所に、私は既に立っている。

 いや、もう立ちすくんでいるのかも。


 自己ベストはずっと、更新できないまま。


 あと一歩分、前に出ればいい。たったそれだけが、できない。されど、それだけ。

  

 私にはできっこない、のかもしれない。

     

 ――ピストル音。踏み出した一歩。その先に、過去も未来も集約される。でも私は、失敗する。どこかで、足が震えているのだ。


  




 帰り道、校舎裏の自販機でスポーツドリンクを買う。蓋を開け、中にある淡く光るサイダーを一気に飲み、喉を潤す。その冷たさが、すっと身体に巡って気持ちいい。



「陸上部の人?」


 突然後ろから声をかけられて、私は一瞬肩がびくっとなった。慌てて口許を拭い、声がした方へ振り向く。


 そこには赤いイヤホンを耳にして、ベンチに座りながら空を見上げている見知らぬ女の子がいた。


 なぜか涙が出そうになって、私は目をそらした。

 女の子はそれ以上何も言わず、空を指差した。


  私は顔を上げた。茜色が広がっている。久しぶりにその色を見た気がした。

 ………そう、私はずっと下ばかり向いていた。


 私の目に映った空は、まるで生まれたての赤子のような温かい色をしていた。風に揺れるあの雲が、どこか自由に見える。


 空はゆっくりと、前に進んでいる。  

  

 私はどうだろうか。ちゃんとゴールの方を向いて走っていたのだろうか。

 

「そっか…ありがとう」  


 自分でも驚くほど、自然に、私はそっと呟いた。  

 でも、ベンチの方を見ると、女の子はもうそこにはいなかった。   


 私は全然分かっていなかったんだ。

 踏み出すためには、上を見ることも必要だった。そんな当たり前のことに、気付かされた。


 私はなんだか無性に走りたくなった。今じゃない。きっと、明日じゃない。だけど――いつか、もう一度、心から走れる気がする。




 翌朝、トラックに立った私は、スタートラインに爪先を揃え、深く息を吸った。ピストルが鳴る前、昨日の空が頭に浮かぶ。


 私は、顔を上げ。

 そして、走った。


 誰かに追われるでもなく、誰かに見られるでもなく。ただ、空の色を思い出しながら、自分のために。

 前進した。

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― 新着の感想 ―
うふふ♪ 爽快感のある青春のひとコマだねぃ♪  (´∀`*)
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