最後の微笑
※≪診断メーカー≫のお題『攻めが惚れ直して、受けが攻めに金を借りる、最後はキスシーンな話、ペンを登場させるべし』をもとに書きました。
初老のマスターがカウンターの中でゆっくりとコーヒーを入れている。
昔ながらの小さな喫茶店は、この時間、客は一組だけだった。
いつもの窓際のテーブルで、債務者の持つペンが署名を終えた。
それを見守っていた代理人は、表情のないまま頷いて言った。
「完済ですね」
澄人は数年前、よんどころない事情により、ある金持ちから金を借りた。
苦労話をする気はないので、詳細は省くが、遊ぶための金ではない。
以来、毎月の返済は欠かしたことがなかった。
そんなこと当たり前ではあるが、澄人にとっては簡単なことではなかった。
金持ちの老人は、自らが表に出てくることはなく、対応は常に、代理人である田中がおこなっていた。
初めて田中に会った日のことはよく覚えている。
とにかく事務的で、終始にこりともしなかった。
田中は内心、こいつ信用できるのか? と思っていたのかもしれない。
澄人が「必ず返します」と言ったとき、田中は澄人を見て一言、
「当然です」
と言った。
あのときの田中の顔を、澄人はずっと忘れることができないでいた。
「ね、田中さん。期日までに返せましたよ」
澄人は、完済した安心感から、今までよりも明るい声で田中に言った。
「見直しました?」
田中相手に、つい、こんな軽口まで出てしまった。
使い終わったペンを田中に返す。
毎月見てきた田中のペンは、黒とゴールドのとても美しい姿をしている。
書き心地もよくて、きっと有名なメーカーの製品なのだろう。
田中は澄人の手からペンを受け取り、それを胸ポケットにしまいながら答えた。
「そうですね。というか、惚れ直しました」
一秒くらい、澄人は何を言われたのかわからなかった。
次の一秒で、え、田中さんも冗談言えるんだ、と思った。
けれどその次の、三秒目の展開に腰が抜けそうになった。
田中は澄人に微笑み、そして言った。
「ずっとあなたが好きでした」
田中はそれだけ告げると、いつもの無駄のない動作で書類を片付け始めた。
澄人は何も言えないまま、そんな田中を眺めるしかなかった。
田中は鞄を閉じると席を立ち、澄人に一礼した。
「それでは、これで失礼します。どうぞお元気で」
田中は会計を済ませ、店を出ていく。
姿勢のよい歩き方も、初めて会ったときから変わらない。
きりっとしていて、淡々と仕事をこなす田中はいかにも『できる男』という佇まいで、澄人は向かいの席からいつも盗み見ていた。
田中の後ろ姿がドアの外に消えたとき、マスターが独り言のように言った。
「悪い人間じゃないよ、彼は」
だからってわけではない。
マスターに言われたから追いかけるわけではない。
にこりともしないし、冗談なんて言えば死ぬと思ってるような人。
それなのに――
最後の日になって微笑むなんて、それはあまりにもずるいじゃないか。
「田中さん!」
街路樹が続く歩道を田中は歩いていた。
澄人の声に立ち止まり、振り返った田中に澄人が追いついた。
「田中さん、勝手に帰らないでください。俺は言われっぱなしですか」
自分が今どんな顔をしているのか、澄人自身にもわからない。
ただ田中は、そんな澄人を街路樹の陰までそっと連れていった。
それきり黙った澄人に、田中もまた何も言わず、澄人の頬に唇を寄せた。