16:兄弟は好きですか
ノエル様は非常に優秀な子どもだった。
要領が良い上に頭も良く、人当たりも良いため誰からも愛される。
四歳にして完璧な行儀作法を身に着け、専門書を読み、流暢な外国語を話す。
ユリウス様が教師の問いに間違えれば横から正答し、ときには教師と一緒になって解説することもあった。
たまったものではなかっただろうが、ユリウス様もノエル様に悪気がないことはわかっていた。
だから笑ってノエル様を褒めた。
調子に乗ったノエル様は勉学にのめり込み、真綿が水を吸うようにあらゆる知識を吸収し、周りの人間から神童として持て囃された。
事あるごとに弟と比較され、ノエル様が兄だったら良かったのにという家庭教師や使用人たちの心無い言葉を受け流し、ユリウス様は耐えた。
耐えて耐えて耐え続けて――三年が経ち、とうとうユリウス様に我慢の限界が訪れる。
ユリウス様は授業中、無邪気に間違いを指摘してきたノエル様を突き飛ばし、涙ながらに罵倒した。
呆気に取られているノエル様を残してユリウス様は屋敷を飛び出し、ラスファルの公園へと向かった。
ユリウス様は猫が好きで、疲れたときはこっそり公園へ行き、そこに棲みついた野良猫たちに癒されていた。
公園のベンチで野良猫を抱え、自己嫌悪で死にそうになっていたユリウス様は一人の魔女に声をかけられる。
黒髪に印象的な銀色の瞳を持つその魔女の名前はドロシー・ユーグレース。
彼女は当時国内に二人しかいなかった『大魔導師』だった。
ドロシーはユリウス様の浮かない表情を見て、猫になることを持ちかけた。
天才の弟と比較されることに疲れ切り、変身魔法が禁止魔法だと知らなかった十歳のユリウス様はその問いに頷いてしまい、猫になった。
後は私の知る通り。
一年後にユリウス様がリュオンの手により人間に戻っても、兄弟の関係はぎくしゃくしたまま。
ユリウス様は弟に負い目を感じ、ノエル様は兄の前では一切笑わなくなった。
「ユリウス様はノエル様をどう思っておられるんですか? 本当はいまでも大好きで、仲直りしたいのではないんですか?」
「…………」
ユリウス様は長いこと黙り込んだまま何も言わなかった。
風が何往復もして、黒猫はやっと口を開いた。
「今朝のあいつの顔を見ただろう。猫になった俺を見下しきった、あの瞳が答えだ。俺があいつをどう思おうと無駄なんだ。嫌いという感情を通り越して、ノエルは俺を軽蔑してる」
「答えになっていません。私が聞いているのはユリウス様の気持ちです」
無礼なのはわかっていた。
侍女の分際で何を偉そうに、と自分でも思う。
でも、私は冷え切った二人の関係をどうにかしたいのだ。
ユリウス様の境遇を自分のそれに重ねているのもある。
優秀すぎる弟に劣等感を覚えた兄――ああ、まるで私とイノーラを見ているようだ。
私はいつだってイノーラと比較され、無能と謗られた。
ブランシュ家は魔女の家系であることに誇りを持っていて、いくら勉強が出来ても魔法が使えない魔女はゴミ扱いだった。
もし泣いていたときにドロシーが現れ、そんなに辛いのなら人間を辞めて猫になるかと聞かれたら。
私はきっと、頷いていた。
「教えてください。ユリウス様はノエル様のことがお嫌いですか」
肯定されたらどうしようと怯えつつ、私は尋ねた。
「……好きに決まってるだろう」
「良かったー!!」
思わず私は素で叫んでいた。
驚いたのか、ユリウス様がこちらを向く。
「それなら後は簡単ですね!! ノエル様のお気持ちを確認するだけですから!!」
私は大喜びして両手を握った。
「簡単って……あいつに俺が好きかどうか聞いたところで、嫌いと即答されて終わるだけだろう。嫌いどころか『死ねばいい』と冷たく言い放ってもおかしくはないぞ」
「ノ、ノエル様はそんなことを言われたりしませんよ」
「どもったじゃないか。あいつなら言いかねないと思ったんだろう。改めて俺に現実を思い知らせてどうするんだ。お前には人を虐めて喜ぶ加虐趣味でもあるのか」
黒猫は紫の瞳を細めた。
「ありませんよそんなの! とにかく私に任せてください! きっとお二人の仲を修復してみせます!」
「嫌い」
しとしとと雨が降り始めた夕方。
わずかに靴と肩を濡らした状態で帰宅されたノエル様を玄関ホールで迎え、思い切ってユリウス様のことをどう思っているか尋ねると、彼は顔色一つ変えずに即答した。
「くだらない用件で呼び止めないでくれる? 疲れてるんだ。夕食はいつも通り部屋まで運んで」
私の返事も待たずにノエル様はそのまま歩いて大広間に向かった。
天井から糸でつられているかのようにぴんと伸びた背中はこちらを振り返らない。
すぐにノエル様の足音は聞こえなくなった。
軍人だからか、ノエル様はあまり足音を立てない。
驚いたことに、その気になれば彼は完全に気配と足音を殺せる。
「………………」
冷や汗など流しながら、ちらりと大広間のほうを見る。
ほんの少しだけ開かれたサロンの扉の隙間。
そこからやり取りを見ていた黒猫が室内へ引っ込んだ。
ああああああああ――!!
私は頭を抱えて遥かに高い天井を仰いだ。
「おやまあ。兄弟間の亀裂がより深くなってしまいましたねえ」
厨房の前に立ち、頭を下げてノエル様を出迎えたネクターさんが苦笑しながら私に近づいてきた。
「好きかどうかなんていまさら聞かずとも、お二人の関係が冷え切っているのは見ていればわかるでしょう。踏み込まず、そっとしておく。それが使用人たちの暗黙のルールでしたのに、どうしてまた草むらの中にいた蛇を棒で突っつくような真似をしたのです?」
「……どうにかお二人の関係を改善したくて……」
私は両手で顔を覆った。
「ではこんなところで立ち止まっている場合ではないでしょう。一度問題解決に取り組むと決めたのなら、中途半端に投げ出してはいけません。このままでは貴女はただいたずらにお二人の関係を悪化させただけです。嘆くのは全力で足搔いた後でも遅くはないですよ」
ネクターさんは私の肩を優しく叩いた。
「今日の夕食の支度は私一人でやります。セラはノエル様と腹を割って話してきなさい。セラも気づいているでしょう? ユリウス様は猫になってしまうという見た目にもわかりやすい問題を抱えていますが、ノエル様の抱えている問題のほうがより暗く、根が深いことに」
「……はい。行ってきます」
私は表情を引き締めて頷き、足を踏み出した。
「ノエル様。夕食まで少しお時間をいだたけませんか。話したいことがあるんです」
雨音が聞こえるほど静かな屋敷の三階廊下。
閉ざされたノエル様の部屋の扉に向かって私は呼びかけた。
「さっきぼくは疲れてるって言ったんだけど、聞こえなかった?」
扉の向こうから返事が返ってきた。
「いえ、聞こえました。でも、いますぐお話ししたいんです。どうしても」
数秒経って、内側から扉が開く。
「何の話がしたいの」
部屋着に着替えたノエル様は無感情に私を見つめた。
「ユリウス様のお話を――」
無言でノエル様が扉を閉めようとしたため、私はとっさに扉の端を掴んだ。
閉めようとする力と開けようとする力が同時にかかり、私たちの間で扉が震える。
「お忘れですかノエル様。私は侍女です。ノエル様の部屋の鍵も持っているんですよ。無駄な抵抗はお止めください」
私は全力で抗いながら、にこやかに告げた。
「職権乱用でしょう……」
呆れたように言ってノエル様は嘆息し、ドアノブから手を離した。
「わかった。入って」
「ありがとうございます!」
私は頭を下げてから入室した。




