04
「どなた様でしょうか?」
藍風堂の入り口で、番頭らしき男が鈴に声をかけた。その目は、みすぼらしい身なりの鈴を上から下まで舐めるように見ていた。
「藍風堂の、お琴様にお会いしたいのですが」
「お琴様は今、お忙しゅうございます。ご用件は承りますが」
鈴は背中の茜をそっと下ろし、深く息を吸った。
「姉上に、鈴が来たとお伝えください」
番頭の目が驚きで見開かれた。
「あなた様が……若様の妹君?」
噂には聞いていたのだろう。家を飛び出した次女の話を。番頭は慌てて店の奥へと消えていった。程なくして、三十歳になったお琴が現れた。
十年ぶりの再会だった。お琴は藍色の高級な着物に身を包み、髪は美しく結い上げられていた。女将としての風格が漂っている。一方の鈴は、旅の埃と疲労で顔色は青ざめ、着物はくたびれていた。
「久しぶりね、鈴」
お琴の声は氷のように冷たかった。
「姉上……」
鈴は頭を深く下げた。茜も母に倣って、小さな頭を下げる。
「奥へどうぞ」
お琴は短く言って背を向けた。鈴と茜は言われるままに、店の裏手にある居間へと案内された。
店には多くの客がいて賑わっていた。父の死後、お琴は見事に店を切り盛りしているようだった。
茶を出させた後、お琴は正座して鈴を見据えた。
「何の用かしら?」
直球の問いに、鈴は一瞬たじろいだが、すぐに覚悟を決めた。
「姉上、どうかお願いです。しばらくの間だけ、私と茜を置いてください」
お琴の表情は動かなかった。
「越後屋が潰れたと聞いたわ。あなたの夫はどうしたの?」
鈴は俯き、小さな声で答えた。
「夫は……博打で家を潰し、私と茜を捨てて逃げました」
お琴の口元に冷笑が浮かんだ。
「あんたが勝手に家を出て、商売敵の呉服屋の息子と結婚したことは父上も母上も許さなかった。今さら何しに来た?」
その言葉に、鈴の心は締め付けられた。しかし、背筋を伸ばして答えた。
「母上はどうされていますか?」
お琴は目を伏せた。
「去年、父上を追うように亡くなったわ」
鈴の目から、熱い涙がこぼれ落ちた。両親に孝行することも、最期を看取ることもできなかった。
「……知らなかった」
茜が不安そうに母の袖を引いた。
「お母様、泣かないで」
鈴は慌てて涙を拭い、娘に微笑みかけた。そして再びお琴に向き直った。
「姉上、どうか茜のためにも……」
お琴は黙って鈴を見つめていた。その目には複雑な感情が渦巻いていた。一瞬だけ躊躇いの色が浮かんだが、すぐに表情を引き締めた。
「帰れ。ここはあんたの居場所じゃない」
鈴は膝をついて土下座した。
「お願いします、姉上。働きます。どんな仕事でも。ただ、茜のために……」
お琴は立ち上がると、障子を開けた。
「番頭、この者たちを外へ出しなさい」
鈴は愕然とした。心の中で、何度も謝罪の言葉を繰り返した。父上、母上、ごめんなさい。姉上、ごめんなさい。そして、茜、ごめんね……。
番頭が部屋に入ってきたとき、鈴はゆっくりと立ち上がった。背筋をまっすぐに伸ばし、頭を高く上げた。
「ありがとうございました。お邪魔しました」
鈴は茜の手を取り、静かに部屋を出た。お琴はただ黙って、その後ろ姿を見送った。