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瞳に光が灯る時

作者: 本庄源

 一


 夏草の匂いを運ぶ南風が、軒先の風鈴を撫でた。湯船に浸かっている間に、通り雨は過ぎ去ったようだ。紅く染まった入道雲が、蔵王連峰の稜線に重なる。一羽の鷹が、悠然と雲の切れ間に吸い込まれていく。

「お父さん、そろそろ帰ろうよ」

 母の面影を少しだけ滲ませる柔らかい声が階下から届いた。


 右手に風呂桶、左手に美音子の手を引いて銭湯の暖簾を潜る。昼間の雨が残した水たまりをよけながら定禅寺通を北上すると、周辺から集まった屋台が軒を連ねていた。塩釜の寿司屋や宮城野の天ぷら屋が、等間隔に飾られた竹灯りの前に並ぶ。三々五々から集まる下駄や草履の足音がからんころんと鳴り響き、芭蕉の辻を行き交う若竹色や撫子色の浴衣姿からは明日の本祭りに向けた高揚感が漂っていた。

「ご苦労様です。良い湯でしたか」

 そば屋の出前を終えた源次郎が、斜向かいから日焼けした顔を覗かせた。

「爪の泥はきれいさっぱり洗い流せたんだが来月から入湯料が上がるらしい。仕事柄、通い続けるしか選択肢はないけどな」

「身も心も清めて明日に備える訳ですかい。お嬢ちゃんも温まったかい」

「うん、もう一人で洗えるようになったよ」

 お湯に火照った小さな背中からは湯気が出ていた。

「どれ、もり蕎麦をいただいていこうか」

 木戸を開けて敷居をまたぎ、店主の藤兵衛に頭を下げる。

「明日は源次郎をお借りします。美音子の面倒も見ていただけるとのことで、何とお礼を申し上げてよいやら」

「純さんの両肩には明日の成否がかかっていますからね。なんてったって祭りの頭を務められるわけですから」

「恩に着ます。食べ終わったら、東照宮の宮司様にご挨拶をしてきます」

 十割蕎麦をすすりながら、緊張と興奮で徐々に高まる鼓動を感じた。今日と明日は、しばらく疎遠になっていた知人にも気軽に出会うことができる。祭りという交点を目指し、町人は移動を繰り返す。それゆえ、毎年その場所を守り続けることが大切なのだろう。考え事をしながら蕎麦を喉の奥に流し込んでいると、つゆをそのまま飲み干していた。


 宮町通りを左に曲がると途端に民家が少なくなる。昼間は黄金色の頭を垂れる稲穂も、夜は草原のように風にたなびく。暗闇の中で足元を照らす提灯の炎を頼りに、田畑を貫く砂利道を一直線に歩く。

「明日のお祭りに向けて寺子屋で灯篭を作ったよ」

「今年は良い和紙が漉けたと瓦版に書いてあったなあ」

「お母さんへの伝言を書いたから明日見せてあげる」

「そうか、ひらがなは全部書けるようになったか。これでそろばんができれば店は安泰だな」

「うん。お父さんの帳簿もつけてあげるよ」

「そいつはありがたい。昔は、夏海に台帳記入を全部任せていたからな」

 梅田川に近づくと、眼前を二筋の光が通り過ぎた。闇夜に眼を凝らすと、命の軌跡を残すように蛍が飛び交っていた。弧を描いたり重なってはまた離れたり、しばし発光体の明滅に見とれていた。

「きれい」

 左下からため息が漏れた。

 遠い昔の記憶が蘇る。夏海と二人の帰り道で見た光の大群。もしかしたら、あの時から別れの瞬間は刻一刻と迫っていたのかもしれない。


 人形職人として駆け出しの頃、馴染みの茶屋が注文をくれた。銀婚式にあわせて神棚に辰を飾りたいとのことだ。喜び勇んで窯に火をかけたが、あろうことか焼成が足りずに尾の先端が欠けてしまったのだ。その箇所は青と緑が混じり合っており、全体の調和を保つ役割を果たしていたので、自分の仕事に心底がっかりした。とにもかくにも、本体と欠けた尾を握って畦道を駆け出した。

「遅くなりました。まずはお詫びをさせてください」

「おやおや。暑い中ご苦労様でした。お天道様は見えているから、まだ日暮れまでは時間がありますよ」

 薫婆さんが麦茶を運んでくれた。正造爺さんは縁側で雲を眺めている。

「本当に申し訳ありません。私が未熟なばかりに尾が欠けてしまいました。今から作り直しては、明日のお祝いに間に合わないと思い急いで持ってきてはみたのですが」

 頭をかきながら、風呂敷から欠けた辰を取り出した。

「あら、きれいな翡翠色ね」

 台所から、割烹着姿の若い女性が顔を出した。

「せっかく良い色が出たのに欠けてしまって。あれ、女将さんこの方は」

「秋田から丁稚奉公に来とるんだよ。地元にとどまらずに仙台を見た方が良いってね」

「夏海と申します。以後お見知りおきを」

 何はともあれ、明日の祝宴には間に合いそうもない。

「大変申し訳ないのですが、明日は尾が見えないように飾っていただいて後日新しい人形をお持ちいたします」

 正造爺さんが口を開いた。

「このままでかまわないさ。この世界に完璧などありはしない。あなたが明日に間に合わせて焼いてくれたという気持ちだけで十分さ」

 嬉々として夏海が飛び出す。

「そしたら、私このかけらもらってもいいかしら。堤の土質は素晴らしくなめらかっていうじゃない。その土地のものは大事にしないとね」

「お受け取りいただきありがとうございます。次こそは完全な堤人形を焼いてみせます」

 帰り道に、夕陽を映す水田を見やるとすすきが風にそよいでいた。人形作りに没頭して、景色を顧みる余裕がなかったようだ。気づいた後に、季節は巡る。


 あの日は珍しく、堤人形の行商に妻の夏海がついてきた。なんでも、八乙女の茶屋で味噌団子を食べたいらしい。団子を頬張りながら家路を歩いていると、錦秋色の尻尾を振るきつねの親子にふと気が付いた。二匹の子どもが白い腹をむき出しにして寝そべっている。親狐が藪の中に入る前に、ちらとこちらに目をやった気がした。

「巣穴を見てみようよ」

「やめておけよ。雁も沼地に帰る時刻だぜ」

「ちょっとだけ」

 夏海はそう言うと、きつね親子の跡を追いけもの道へ踏み出した。森に飲まれる恐怖と暗闇を帰る孤独を天秤にかけた結果、後をついていくことにした。うっそうとした木々に入ると、夕陽を避けるように巣穴が掘ってあった。栗を親子で分け合っていたのだ。微笑ましい光景に気を緩めていると、足元の感覚が急に消えた。

 気が付くと、夏海が私の頭を支えてくれていた。どうやら、岩が崩れて斜面を滑り落ちたらしい。立ち上がろうとした瞬間、左足のくるぶしに鈍い痛みが走った。体を支えてもらい、真っ暗な森の中を見渡す。その時、碧い光に包まれた空間を見つけた。落ち葉の上を足を引きずりながら近づくと、小さな池の上を無数の光が飛び交っていた。群生する蛍が水面を照らしていたのだ。生命の営みを切り取ったような光景に立ち尽くしていると、雲間から現れた月が頭上に輝いた。その先に藪の出口が開かれている。

「行こう」

 月に照らされた水田を目指し、寄り添いながら二人は家路についた。


 記憶の旅から戻ると、石鳥居の前に立っていた。立ち止まり、一礼し、右下を通る。御神橋を渡り長い階段の続く先には、随身門の堂々たる黒い影がそびえている。石燈籠に見守られながら、ところどころで高低が変わる階段を一歩一歩踏みしめながら進む。あと少しで登頂する手前で美音子が躓いた。握った手を離さなくて良かったと安堵する。登りきると、かすかなせせらぎが聞こえる水舎で手を清めた。賽銭箱に四文銭を入れ、鐘を鳴らしながら火難除けを祈念した。

 お参りが終わると、社務所の玄関をそっとたたいた。

「夜分にすみません。明日のご挨拶に伺いました」

 ややあって、真っ暗な廊下の奥からかすれ声が届く。

「遅くまで大変でしたね。上がっていきなさい」

「失礼いたします」

 四足の草履を丁寧に並べ、軋む廊下を真っ直ぐに進んだ。障子の前でひざまずき、ゆっくりと襖を開けた。

「本祭りの開催に向けてご尽力いただきましたこと、あらためて御礼申し上げます」

「そちらを伝えるためにわざわざお越しいただいたのですか。祭りの頭は大変ですね」

「花火を打ち上げることができるのは、宮司様が幕府のお役人にかけあっていただいたからでございます」

「いえいえ、伊達綱村公に青葉城の本丸御殿からご覧になられると、たいそう美しいでしょうと進言したまでですよ。前例は乗り越えなければ意味がありませんからね。祖先に恥じない立派な祭りにしてください」

「謹んでお引き受けいたします」

 私にならって、正座をした美音子が深々と頭を下げた。

「墓参りをしようと思って土産を持ってきたのですが、思ったよりも早くに暗くなってしまいました」

 懐から象牙色に塗った犬乗り童子を取り出す。

「それでは私が預かっておきましょう。明後日、祭事の撤収を見届けてから再びいらっしゃい」

「必ずや、無事に終了させて戻ってまいります」

 外に出ると北風が袖を通り抜けた。思わず身震いした美音子が左足にすがりついてくる。秋が近づいていた。


 二


 雀のさえずりが障子越しに聞こえる。布団から聞こえるかすかな寝息をかき乱さぬよう、ゆっくりと襖を開け忍び足で部屋を出る。ぬか床からきゅうりとたくあんを取り出し、味噌汁の隣に小鉢を用意する。玄関を出ると朝もやの中で露草が水滴を落としていた。

 工房にて、祭りに出品する堤人形の最終確認を行う。私にとって、陶芸の命は火に宿る。皮膚と爪の間にこびりつく台原の粘り気が強い土に最適な広瀬川の水の配合を探り、薪の量と風向きを調整しながら自然との邂逅を目指す。脳裏に描いた完成形を再現することが到底無理なことは分かっているが、せめて作品には感情の発露を試みる。火の揺らぎが作り出す不定形の軌跡が好きだ。異なる瞬間に、同じ形が現れることはない。完成直前は額の汗を拭うどころか、瞬きさえも忘れる。実際には瞬いているのだろうが、火の残像は暗闇が深くなるほどよく見える。私が堤人形に携わる理由は、炎が躍った痕跡を後世に残したいからなのだろう。今回は祭りにあわせて期待感を表現したかったが、連日の準備に追われたためか、群青色の松川だるまも黄檗色の招き布袋もどこかくたびれた表情をしている。ひとまず、すでに完成していた躑躅色の餅つき兎や鶸色の饅頭食いとともに、合計四十二体の堤人形を丁寧に和紙で包み風呂敷を被せて荷車を押し出した。


 定禅寺通に入り欅並木の緑陰が覆う緩い傾斜を歩いていると、一年間の出来事が脳裏によぎる。


 昨年の灯篭流しが終わった日の夜、二十六年にわたり頭を務めていた八百屋の定九郎が引退を申し出た。

「母親の膝が悪くなってな。石巻に帰ってほしいと言われているんだ。俺も長年の準備には疲れ果てた。来年も頭をするならば、明日から祭りに気持ちを持っていかなければならない。すまないが、余生に入らせてもらいたいと思っている」

 一同の盃を持つ手がぴたりと止まった。今年で最後だという気配を醸し出していたとはいえ、実際に口に出されると空気が沈む。

「来年は、人形師の純にやってもらいたいと思っている。いつも本祭りの翌朝には屋台を回収するだろう。その時、必ず彼は自分の店だけでなく通りの道を隅々までほうきで掃いてくれている。頭たるもの、全体を見渡す目を持たなければならない。私は、彼にその資質があると考えている」

 頭に指名された動揺はあったが、反面、夏海を亡くした悲しみを忘れて没頭できる時間を求めていた。美音子も寺子屋に馴染んできたから、昼間は留守にしても大丈夫だろう。だが、いまだに喪失感を拭いきれない私に頭が務まるのか自信がなかった。

「来月、大曲で妻の三回忌があります。そちらが終わるまでお返事をお待ちいただけますでしょうか。自分の心を整理してまいります」


 秋雨がしとしとと瓦屋根を包む午後、私は義父の豪蔵とちゃぶ台を挟んで正対していた。夏海が息を引き取った朝も、同じような強さの雨が降り注いでいた。

「本日は大変お疲れ様でした。地元の旧友の顔が見られて、妻も喜んでいることと思います」

「私も美音子に会えて良かったよ。こちらに来るのは大変だったろうが、友達もできたみたいで救われたな」

「冬になると動けなくなりますからね。お義父さんとお義母さんにお会いできる今年最後の機会かと思いまして」

「子どもの姿には勇気をもらうな。今年は十号玉を作る気になれなかったが、来年はどこかで一花咲かせようかと思い直したよ」

 義母の珠美は夕飯のけんちん汁を温めている。

「正直に申し上げますと、夏海が亡くなった年の冬は仙台で暮らし続ける意味を見失いそうになりました。美音子の背が伸びることだけが楽しみで、どうにか春を迎えられましたが」

 常磐色の湯吞み茶碗をすすりながら、豪蔵は言葉を嚙みしめた。

「私も、風がいつもより厳しく感じたな」

「今でも自分がこの土地で暮らすことが正しいことなのかどうかは分かりません。ただ、来年の広瀬川灯篭流しの頭を拝命いたしまして。もしかしたら、その答えを見出す機会をいただけるかもしれないと考えています」

 もう一度煎茶を飲んでから、豪蔵は目をつぶった。

「純さんの中では、とっくに迷いは振り切れているんじゃありませんか。私も、若い頃は江戸や箱根湯本に旅をしました。ところが、どうしても東北に戻ってきてしまうのです。先祖代々繋いできた命の炎が、この場所で燃え続けることを望んでいるのでしょうね」

 一瞬で消える光を、心の中で永遠に残せたなら。

「ぜひとも、お義父さんの花火を広瀬川に打ち上げていただけませんでしょうか。秋が来る前に、夏海が逝ってしまった季節に、夜空に願いを刻み込みたいのです」

 豪蔵はゆっくりと二度頷いた。

「私の人生最後の旅にします。東北の夏にふさわしい雅な花火を打ち上げましょう」

 渓流に沿った帰り道を歩き続けても、与えられた役割を全うする決意が揺らぐことはない。透き通るように流れる水が、岩に当たり白く砕け飛び散る。水と空気が交わり泡を生み出し、円環を維持する流体となって森を繋ぐ。生保内川の水流を子守唄に美音子をおぶりながら、定九郎から正式に引き継ぎを受ける準備を整えていた。


 永町橋に到着すると、棟梁の丈が十二人の大工見習いたちに檄を飛ばしていた。

「馬鹿野郎。櫓のはしごは右側に掛けるんだよ」

「朝早くからありがとう。この高さなら会場全体が見渡せるな」

「お前のおかげで花火大会の準備もあるからな。前倒しでやらないと間に合わねえぞ」

 目線を櫓の最上段から外すことなく弟子たちに指示を送る。

「手の空いている奴は打ち上げ場所の草むしりをしていろ。火事が起きたらとっとと消せるように水もたらふく汲んでおけよ」

 堤人形を自分の屋台に並べていると、花火玉と円筒を牛車に引かせた豪蔵が到着した。

「遠路はるばるお越しいただき感謝申し上げます。少しお休みになられますか」

「いや、今日の湿気だと火薬を少し足さないといけません。打ち上げ台も段丘崖に固定してきます」

 広瀬川に立ち込める水蒸気に包まれながら、職人たちの作業が黙々と進められていく。


 木漏れ日となった斜陽が川面に降り注ぐ時、本祭りは始まった。遠路はるばる集まった岩出山の鳴子こけしや亘理の腹子飯が姉歯横丁に立ち並び、昨日に増して賑わいをみせる。魚屋の小三馬が釣ったばかりの岩名を香ばしい塩焼きに仕立て上げる。酒屋では浅葱色の腹掛を結んだ若大将が威勢の良い声が呼び込みを始めれば、艶やかな菖蒲色の着物をまとう女将が日本酒をお猪口に注ぐ。連坊小路では尺八と小太鼓の演奏に合わせて、本材木町の面々が朗々と歌唱を添える。


 宵巡り 木遣りが響く 杜の空


 自分の人形屋台を見に行くと、源次郎の店番を美音子が手伝っていた。

「どうだい、売れ行きは上々かい」

「お嬢ちゃんの呼び込みで二体売れましたよ。暮れなずむ空に朱色の人形が似合いますね」

「なんとか十五体は売れてくれると良いんだが。少しだけ美音子と川に行かせてくれ」


 広瀬川の灯篭流しはすでに始まっていた。水面に反射する揺らいだ月の上に、鎮魂の炎が列をなして運ばれていく。ろうそくが消える頃には、想いが空に届くのだろうか。事前に預けていた灯篭を受け取り、ろうそくに火をつける。すると、「わすれないでね」という文字が側面の和紙から浮かび上がってきた。忘れるわけないさ、障子窓へ吹雪が打ちつける夜に命がけで産まれてきてくれたのだから。

 さらさらと響く川のせせらぎに逆らわないよう、二人は灯篭をそっと離した。ゆらゆらと小さく左右に揺れながら、光の道へと連なっていく。去年よりは落ち着いて夏海を見送れたかな。そう思った時、ふいに真っ白な大鷺が対岸から水に三度足をつけて飛び立った。


 強い西風が大年寺山の杜を揺らした。焦げつくような臭いが漂い後ろを振り返ると、永町橋のたもとに置かれた屋台の提灯が炎に包まれている。とっさに立ち上がりあたりを見回すと、小三馬が河原の四手網から岩名を捕らえようとしていた。

「おい、提灯が燃えているぞ」

 小三馬が顔を上げた瞬間、炎が天井に燃え移り夜風に火の粉が舞った。熱に驚いたとんぼやかえるが草むらから飛び出す。土手への延焼を想像し、拳を握ったまま身体が固まった。自分が掌握している窯の火を愛しながら、無秩序に解き放たれた炎の前に立ち尽くしている。泣き出しそうな顔をした美音子が右足にすがりつく。

「全員屋台から離れろ」

 つむじ風のように土手から駆け下りた丈が、さすまたを屋台の中央に突き刺した。引っこ抜き屋根を叩き崩す。すかさず引き連れた大工見習いに指示を出す。

「桶をかき集めて川の水を汲んでこい。解体しながら材木にぶちまけるんだ。絶対に燃え広がらせるわけにはいかねえぞ」

 棟梁の緊張感が祭りに向けた防火意識の高まりを生んだのだろう。八人の弟子が列を作り、川から桶を手渡しで繋いでいく。水を炎に放り込むと、残った四人が桶を持って川へ走る。一心不乱に手から手へと水を届ける姿に勇気が湧き出した。

「美音子は源次郎のところで待っていなさい。お父さんは今夜の祭りを守ってくるよ」

 くるりと踵を返し、櫓の上に立った。すっと息を整え発した声は、自分でも驚くほど鼓膜に轟いた。

「焦らず土手に上がり宮沢橋に向かってください。二列に並んで押さないよう足元に気を付けて移動をお願いします」

 対岸では長屋の住人たちが心配そうにこちらを見つめている。

「皆さん、彼らは陸奥国一の火消です。落ち着いて、安全な場所まで避難してください」

 赤ん坊を抱いた少女が宮沢橋に到着した頃、焼け跡から立ち上る白い煙が夜空に吸い込まれた。


 火は消し止められたものの、道路には看板が倒れ酒樽が転がっていた。宮沢橋周辺に避難した群衆は、固唾を飲んで次の指示を待っている。この状況で十号玉を打ち上げられるのだろうか、失敗したら永町橋を燃やし尽くすのではないか、広瀬川が近くにあるから大丈夫か、さらなる避難に人出は足りるのか。洪水のように逡巡が押し寄せ星々の間に映る闇夜が広がった時、大きな手が肩に回された。

「馬鹿野郎。問題を解決するために俺がいるんだろうが」

 その言葉で、心は決まった。


 ようやく混乱が収まり、人流は秩序を取り戻した。美音子を肩車した源次郎が、弾けるような笑顔で声をかけてきた。

「旦那、さっきは避難の陣頭指揮を執られて大活躍だったそうじゃないですか。お客さんが押し寄せて、あれよあれよという間に人形は完売ですよ。そうだ、お嬢ちゃんにも櫓からの景色を見せてあげてくださいよ」

 一段一段ゆっくりとはしごを登ってきた美音子に、壇上から手をさしのべる。二人が櫓に立った時、龍の尾ひれを想起させる一筋の光が天空に向けて放たれた。一瞬の消失を経て冠菊が咲き誇り、雲間を縫うように分散した光の筋が放射状に伸びる。続けざまに三発の花火が連続して打ち上がり、赤白黄の光がしだれ柳のごとく空に流れた。

「きれいだな」

 本祭りの終了に安堵し、ぽつりと言葉がこぼれた。右隣で夜空を見つめる美音子は、瞳を潤ませながら消えゆく千輪牡丹を映し出す。近しい人がそれぞれの場所で、私を支えてくれている。だからこそ、季節の移ろいに記憶を積み重ねることができるのだろう。来年も、同じ光景が見られるように生きてみるか。

「さあ、撤収の準備だ」

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