4_稼働区画_娯楽経験
今日は稼働区画の整備をした。
ここは人類が無計画に退避してきた際に、すぐにでも生活圏として利用できるよう、疑似的な生活を常時運営させている区画だ。
家があり、食料があり、娯楽があり、そのすべての人類が飽きないような変化を続ける仕組みを作りつつ、また、どんな人類でも適応できるよう様々な文化を内包し、再現できる。
はっきり言って、贅沢の果てだろう、と思う。
放棄したはずの都市に逃げ込むような人類というのは、要は避難民だ。
当座の生存さえ賄えれば十二分だろうに、ここには人が生まれて死ぬまでを保証できるほどの設備が整っている。
限りなく無駄に近い。
だが、今の人類にはその余力があった。
地球の人口は最盛期で百二十億人に上った。
食糧問題、エネルギー問題、居住地域の問題が叫ばれてはいたが、人類は無数の努力によってこれをどうにか克服した。
少なくとも二百億の人間が居ようとも地球が滅ぶまでの間程度なら文明を続けられるという資源を手にした。
そして今、地球の人類は十億人を割り込んだ。
人類は手に余るほど無数の資源を手にしていた。
その余剰は、百年をかけて無数の事象に使われ、今も余っている。
一番は医療目的に使われてきた。
不老不死に近づくための時間粒度の高機能化は研究期間を重ねるごとに精度を増している。
計算上の話でしかないが、技術成長を込みで今日生まれた子供は五百歳くらいまでなら生きられてしまうのではないか、という試算結果も公表されている。
その結果は正しくも、だが間違ってもいる。
間違いなく今の技術でも五百年の命をもつ肉体を人間はもっているし、技術の発展を利用し続ければ千年も不可能ではなさそうだ。
しかし、一部の人間は、もう少し早く――二百歳程度で死の道を選ぶ。
人生に飽きるのだ、と知り合いの寿命学者は言っていた。
人間は長く生きるほど、あらゆる事象を個別にではなく、大まかに理解していく能力が発達する。
経験によって考えずに対応できる、というのはその一部だ。
脳機能の老化を補うためにともいわれているが、新たな環境に適応するための人間の社会性から生じた能力ではないか、とも思う。
ともあれ、万物を大まかにとらえていく能力は、万物の違いを認識できなくなっていく能力に等しい。
たぶん、わからなくなっても生きていけるから、その能力が衰えていくのだろう。
私の見解に過ぎないが、人間という構造は肉体的にも精神的にも、平均的には二百歳程度が寿命なのだとは思っている。
だが、人類は――正確には、彼らの作り出したAIは運命にしぶとく抵抗した。
肉体を時間そのものを遅らせる技術、時間粒度の高機能化で老化を遅らせ続けるようになった。
精神の摩耗を外部記憶容量で補いつつ、ニューロン機能を反物質による二重置換によって精神の崩壊を事実上肉体の崩壊のはるか先にまで延長できるようになった。
生き続けるのだ、という目的があれば、あらゆる臓器の時間粒度を高機能化させ続け、脳機能を活性化させ続け、人は長らく生き続けるはずだ。
このメソッドが完成したのは地球人口が30億人程度にまで下がり始めたころ。
AIの試算では、出生数がどれだけ下がっても、それ以上に生きる人類がいるのだから、人口低迷は避けられるはずだった。
それでも、人口低迷は続いた。
理由は様々だ。
世界中の出生率はAIの予想以上に下がり続けている。
事故死、というのはどれだけフェイルセーフを心掛けようが生じ続ける。
また、人類全員が長く生きよう、と心掛けてくれるわけでもなかった。
人類の減少グラフはあらゆる手段で緩やかになっていくが、しかし、一度も上昇傾向になることはなく。
そして先日、人類の総人口が十億人を下回った、と発表されたのだ。
かつて――今も――人類は資源を取り合って争いを繰り広げていた。
土地を、水を、食料を。
現在、たとえ地球全土でもう一度核戦争が起きて死の灰が降り注いでも地球人類は生きていくのに不自由ないだけのものを蓄えられている。
其処までの余剰があるのは技術発展だけでなく、人口が減ったからだ。
二百億人の人間を支えられる資源が、たった十億人に分配される。
そりゃあ、余るというものだ。
適切な分配がされるAI当地の領域では間違いなく、人類は豊かな生活を送っている。
なのに、1パーセントにも満たない人類の一部は、旧大都市で戦争の真似事を繰り広げて、わずかでも自分たちの取り分を増やそうとしている。
彼らこそが、人類の平均寿命を間違いなく減らし続けている要因だった。
そして、毎年ごく少数が、その旧都市へ出向き、命をすり減らす人間へとなり、人類の平均寿命にも影響を与えていた。
実におろかだと思うが、わずかにだけ、理解できないわけでもなかった。
――彼らは、刺激を求めているのではないか。
死の恐怖。誰かからものを奪う喜び。身近なものを失う悲しみ。安穏たる幸福より、早急たる不幸が望みなのだ。いや、彼らにとっては安寧こそが不幸で、波乱こそが幸福なのか。
――そうなる要因の一部を、知らないわけでもない。
AIに管理されつくしてしまう安穏よりも、獣のように戦い続ける闘争が彼らの望みなのではないか。
その渦中に身を置き続ければ、きっと自分の生を実感し続けられることだろう、とは思う。
自らの無価値に苛まれる人生よりはまし、という判断なのかもしれない。
人生に飽きて死ぬよりは、破滅の価値観のまま、死に向かって走っていく人生の方が幸福かもしれない。
ただ、それは勘違いでしかない。
快楽物質の自己発生による、幸福の内製。
それは果たして、薬物投与による快楽と何が違うのか。
幸福と感じることと、幸福であること。
その差を、どこに線を引くのか。
明確なものはないままに、私は今日の作業を進めた。
あらかた、効率化の方は終えたが、まだ稼働区域の余力はあるようだった。
私はせっかくなので、都市の稼働区画の一部である娯楽ユニットに手を加え、遊園地を作ってみた。
大部分は仮建築になってしまうが、肝となるアトラクションの建築であれば一日で作れる程度には資材があるようだ。
ネットワークから設計図を引っ張り込んだものをベースにしたから娯楽としての有効性の高さは保証できるはずだ。
「マスター、なぜこのようなものを作ったのですか?」
ネフィラを呼び出してみたところ、疑問を呈された。
妥当な言葉といえよう。
私も丸ごと遊園地作っちゃうのはやりすぎだったとは思っている。
「ネフィラが人を学んでみたいと言っていただろう。人間の娯楽をあじわってみるのはどうか、という提案だよ」
半分くらいは自分のやりすぎをごまかす言葉ではあるけど、半分は本心だ。
……いや、それでも遊園地全部作るのはやりすぎだったか。
「私の提案でマスターのお手を煩わせた、というのであれば大変恐縮なのですが」
「なあに、私も遊園地で遊んでみたかったんだ。ほら、デートと行こうじゃないか」
ネフィラの手を引いて、お手製の遊園地に突入した。
ジェットコースター、フリーフォール、メリーゴーランドといったアトラクションを中心にネフィラと二人で回ってみた。
最後に観覧車へのりこみ、向かい合わせに座った。
自作した遊園地部分も見通せるし、遠景部分も急場に作ったにしては悪くないテクスチャではある。
個人的には及第点と言えなくはないが、感想は聞いてみたい。
「それで、どうだった」
「存分に人間の娯楽を経験できた、とは思います」
「楽しかった?」
「率直に言えば、酩酊による感覚器官の変動や音楽、水しぶきの連動による歓楽性を体感することができたとは思いますが、それを楽しい、と表現してもよいのかはわかりませんでした」
なんだか、珍しい反応が来た。
ネフィラは都市運営を目的としたAIだから、人間規模の楽しさを理解できなくても仕方ない、とも思ってはいた。
しかし、今の反応はどうも、別の理由がありそうだ。
「ネフィラ、ほかに気になることでもあったか?」
「マスターのお顔がどうにも、楽しいという感情を想起させるものではなかったように感じました」
問題は私の方か。
「それなりに楽しんでるつもりだったけどね」
「ええ、それなりどまりではありませんか」
ふむ。指摘されてみると、納得するものがあったというか。
娯楽施設に来ておいて、目の前のアトラクションを全力で楽しんでいるものではなかったかもしれない。
「どうにも上の空であったように感じます」
ネフィラの反応を気にしていた、というのもないではないけど、それは私が集中できていなかった要因として大きな要素ではないと思う。
彼女を連れまわせること自体は私にとって楽しいことではあるのだし。
それ以外の要因ということにはなるだろう。
……ふむ。
「すぐに思いつくのは、そうだな。あのウォ-タースライダーはもう少し内部構造を簡略化するべきだった」
VRでの仮想建築による構造確認はしていたつもりだったが、現実に落とし込んでみると思いのほか光源が曲がり角にさえぎられせいもあってか暗く感じるものだった。
暗さによるスリリングというのもあるが、見えるからこその連想からくるスリルもある。
演出としてわかりやすい減点ではあった。
「それに、ジェットコースターの方はもう少し旋回角度を急にしつつ、それとは別に空を広くとる工夫はしてもよかったな」
実際に乗ってみたところ、やはり景色はいいほうがいい。
ジェットコースターのスリルは高低差だけで十分表現できると思っていたが、周囲がごちゃごちゃしている環境では没入感が減る。
周囲の高度がある建造物は少し遠くに話す、程度のことはしてもよかったかもしれない。透過素材の利用によって疑似的にでも再現してもよかったかも。
「それに導線も気になった」
売店を想定したエリアは建築途中ではあったが、レジャーとして訪れることを考えるならもう少し区画として多くの場所に置くことを考えてもよかった。
「総合すると、マスターは遊園地で楽しむことよりも、遊園地の配置自体に気を取られていた、と」
「……そうなるのかな」
「少なくとも、ジェットコースターに乗っているときよりはジェットコースターの改善点を語るときの方が生き生きとしておられます」
「……そうかもしれないな」
言われてみれば、そもそもこの遊園地を作る、という行為の時点でずいぶん楽しくやっていた。
自分やネフィラが遊ぶため、というのは後付けであったかもしれない。
「むう、私が楽しむためでさえなかったかも、というのは反省だね」
「構いませんとも。むしろ、よければ私もマスターの遊園地改良についてお手伝いさせていただけませんか」
「……私が楽しいだけかもしれないけど、それでもいいのかい?」
「私も施設の運営であれば得意としていますから、ご助言できることはあるかと」
微妙に答えになってないような気もするけど、まあいいか。
観覧車の中でディスプレイを表示する。
「じゃあ早速改良案を考えていくとしようか」
「ええ、まずは双方向性である――」
結局、観覧車が三周する程度には話が広がった。
広大な景色なんて目にもくれず小さなディスプレイを二人で眺めるだけの時間ではあったが、間違いなく楽しかった。
寿命学:
生命の寿命を研究する学問。
バイオ素子の発展により人間の寿命が延びるようになってから確立されつつあった学問。
始まりは人類はどこまで生きるのか、死とは何か、を哲学や生命倫理の方面から論じるだけのものだった。
時間流に干渉する技術が発達するようになってから人間が肉体的に滅びない未来を想像されるようになって、意識の問題を取り扱っていたこの分野が注目され、生物学と結びつきながら学術的な方面へと発展した。
現在では一つの学問として成立しており、長く生きた人間に人気な学問となっている。