逢魔ㄌ"時၈山中 一
草の匂いのする風が、さらさらと吹き抜ける。
風が降りていく山裾のほうを涼一はながめた。
「行員さん……?」
何を言いはじめるのやら。目を泳がせる。
夏に遭った大規模な霊現象に関わっていた女性。
正体は不動明王だったのだが、こんな営業職の社畜にそうそうなんども手助けを求めたりはしないだろう。
あの折にも、つぎはえらい坊さんか志しの高い政治家にでもたのめと言っておいたのだ。
「──そこら辺にいるんでねえの?」
「いるわけねえだろ。根拠は」
「──勘」
土屋が大まじめに答える。
「おまえ、勘だけで仰々しくな。人類なんかいつまで経っても滅亡しねえし」
「滅亡しない言ったの鏡谷くんじゃん」
涼一はためしに周囲を見回した。
さあっと風が吹き抜ける。
「だれもいねえよ」
言いながらスマホをあらためて耳に当てる。
一瞬だけ目をそらした草むらに、なにげにもういちど目線を移した。
つい一秒まえまでは誰もいなかった場所に、白いブラウスと紺のベスト、紺のタイトスカートの女性が立っている。
行儀よく手をまえで組み、きれいな姿勢でお辞儀をした。
「ごぶさたしております。ご健勝でなによりです」
涼一は、ポカンと女性を見つめた。
「こ……」
行員の霊池さんこと、不動明王。
女性がゆっくりと顔を上げる。
あいかわらず大きな目の童顔アイドル顔だなと涼一は思った。
女性がにっこりと笑いかける。
「本日はJAの経理事務の姿でうかがいましたが、いかがでしょう」
「いかがって……」
前回とあんま変わらん。
「なに? 俺またどっか取られてんの?」
「各パーツきちんとそろってます。ご安心ください」
行員がそう答える。
何か知らんが、逆に安心できん。
「──どした? 鏡谷」
通話口の向こうから土屋が尋ねた。
「行員さん、いた。今回はJAの経理事務らしいが」
「──今回は何を失くしたか聞いておけ」
土屋が言う。
もしかしてパシリやる気満々か、おまえが一人でやれと言いたくなる。
涼一はスマホを耳から外した。
「とりあえず聞いておくけど、今回は何を失くしたわけ?」
大きな目でこちらを見つめる行員に問う。
「俺はもう引き受ける気ないけど、土屋はやる気満々だから帰社したら伝えとく」
「なにも失くしておりません」
行員がにっこりと笑う。
「そ」
涼一はきびすを返した。
「んじゃお元気で。うちの爺さんと、つぎの “お使い” によろしく」
生い茂った草むらをざかざかと歩き行員から離れる。
まえに行員と遭遇したときと違って、いまの季節は夕方すぎには肌寒くなる。
こんな吹きさらしのところで気絶させられたら体調を崩しかねん。
「かくれんぼはご存知ですか?」
行員が背後から問う。
「は?」
涼一は振り向いた。
「鬼がさがしにくる」
「そら知ってるわ。いまのガキでも幼稚園くらいでならやるだろうし」
「では、ご健闘を祈ります」
行員がかわいらしく小首をかしげる。
「あ゙?」
何を神仏が人に向かって祈っとんだ。
ただの定型文として言ったのかもしれんが。
とたんに涼一の足元から力が抜けた。
立っていられなくなり、草むらに尻もちをつく。
かろうじて片手はついたが、スーツをなるべくクリーニングに出したくなくて汚れを気にした。
「くそっ……」
何とか脚に力をこめようとするが、どんどん視界にモヤがかかり気が遠くなる。
ザッ、ザッ、ザッと草をかき分けて歩く足音がした。
行員がこちらに近づく。
「近くに来んな。あんたが来ると気絶率が高いんだ……」
とうとう全身の力が抜けて、草むらにあおむけに倒れこんだ。
顔のすぐ横にエノコログサの葉が生えているのが見える。目の前に広がる空は、紅い夕焼けが混じりだしていた。
逢魔が時って、このあたりの時間帯を言うんだっけ。
血が逆流するような感覚を鼻のあたりに感じる。鼻血でも出たのか。
やべ、格好わると思うが、立ち上がれん。
行員が横に座る。
膝くらいのタイトスカートなので微妙に目のやり場に困るんだがと、こんな場合なのに考えてしまった。
行員が、かがんでこちらの顔を覗きこむ。
「まあだだよ」
歌うようになんどか繰り返す。
まるでブラックホールに吸いこまれるかのように意識が闇に呑まれた。




