千鳥 三
千鳥が、グググッとますます爪に力をこめる。
「いたたっ!」
涼一は声を上げた。
頭をふって逃れようとするが、ものすごい力で押さえつけられていて首がふれない。
「ウソでしょう?」
千鳥がさらに顔を近づける。
つめたいものが鼻先にふれた気がして、涼一は懸命に首をふった。
よく分からないが、何か日常では接することのないような感触。アイスや保冷剤とかとは根本的に感覚のちがう冷たさ。
死体の冷たさだろうかと推測した。
足元から冷気がよじ登ってくるかのような、ゾワゾワとした不快さを覚える。
「あの人はあたしのこと待ってんの。いまでも元気で待ってんの。なのに代官が邪魔して。あたし自害しなきゃならなくなったじゃない」
「自害したの分かってんじゃねえか!」
涼一は声を上げた。
つぎの瞬間、真っ暗いなかに大量の水の流れる川をはるか上から見下ろしていた。
川の水が、ごうごうと音を立てて流れていく。
さきほどまでの河原とはちがう。非常にふかい川だ。
千鳥のほそく白い腕に頭をグッと押され、涼一はとっさに木製の欄干のようなところに手をついた。
頭をグッグッと押されながら、ここはたぶん橋の上だと理解する。
木製の古めかしい橋。
夢で見たレンガの橋になるまえの。
千鳥が身を投げた橋だろうか。
「ウソつくな、死んじゃえ。針千本のーます」
千鳥が頭部をグイグイと押す。涼一は必死で欄干につかまった。
土屋は何してるんだ。
おなじ目に会っているのか、それともさらに何か動けない事態にでもなっているのか。
「あたしとあの人の仲を邪魔するやつは、死んじゃえ死んじゃえ」
「いてっ! いてって!」
頭部に爪が食いこむ。涼一は声を上げて抗議した。
「いてぇだろうが!」
グググググッと押され、欄干に上半身が乗り上げた形になる。
「針千本のーます」
とつぜん欄干が消えた。
身体が宙に放り出される。
落ちる。
心臓がバクバクと音を立て、全身から血の気が引く。
ごうごうと音を立てるふかい川の水の音が耳に過剰に響く。
うわあああああと叫ぶ声が遠くから聞こえた。
土屋だろうか。
涼一は、何かをつかもうと手をのばした。
だが何も手には触れてこない。
後悔の念が心に広がる。
考えてみたら、何で俺がこんなことやらなきゃならないんだ。
お不動さんの使いとか放っておいてバックレればよかった。
こんな日本を救うみたいなこと、もっとえらい政治家とか、高位の坊さんとか、えらい霊能力者とか。
「うっ」
つぎの瞬間、さきほどの均した土にしりもちをついた。
「うわ!」
すぐ横で土屋がまるでころんだかのように地面に手をついている。
「何あった」
土屋が起き上がり、そう問う。膝についた土を雑にはらった。
「千鳥に橋から落とされそうになった」
「おなじだ」
土屋が答える。
かたわらに、つけたままの懐中電灯が落ちている。涼一は手をのばして拾った。
土屋が、しゃがんで自身の持った懐中電灯をつけたり切ったりして壊れていないか確認している。
周囲は、部屋一つ分ほどのせまい空間になっていた。
上空の高いところにある夜空も、向こうまで広がる河原も古めかしい木製の橋もない。
奥のほうに成人の背の高さほどの箱型の建造物が見えるが、あれが祠だろうか。
「剣……落ちてるか?」
涼一は建造物の周辺をあちらこちら見た。
「ざっと見たとこそれらしいものは見あたらない……かな」
土屋が建造物のすぐ下の地面を照らす。
「細長いやつだろ。たぶんゴチャゴチャ飾りがついた」
「倶利伽羅龍王だっけ……炎がぐるぐる絡んでるデザインだよな、さっきググッたとこによると」
土屋が下を向いて、ハァと息を吐く。
「――鏡谷くん、使いとやらのくせに認識が雑」
「うるさ……」
とたんに、シャツの胸元のあたりにベタッと血の手形がついた。
「う……」
涼一は一瞬固まってから、しりもちをついた格好であとずさった。
「うわああああああ!」
さきほど降りてきたコンクリートの段差とガードレールが、街灯にうすく照らされて上のほうに見える。
「撤退。鏡谷くん、一時撤退。またへんな幻覚攻撃が来ないうちに」
土屋があわてて立ち上がった。




