病院 診察室 一
目を見開いて手鏡を凝視する涼一を、医師が怪訝そうに見る。
「映ってるよね? 見える?」
そう話しかけながら、いっしょに手鏡をのぞきこむ。
「いや……えと」
涼一は何と答えていいのか分からず困惑した。
「僕の顔とちがうっていうか」
医師が涼一の顔と手鏡を交互に見た。
「渋沢 栄一さんソックリの貫禄のある顔だよ?」
「いや……もともと貫禄とかないっていうか。いや」
何と説明すればいいのか。
涼一は自身の脳内にある、あまり豊富ではない医学知識をさぐった。
「えと……顔が違うように見える病気なんてありますか?」
「違うように見えるの?」
医師が問う。
「そもそも渋沢さんにはぜったいに似てたはずがないっていうか」
「じゃあ、いままでの認識のほうがあやしいよ。たしかに渋沢さんソックリだもん」
医師が言う。
何となく精神的な疾患のほうをうたがいはじめた表情に見える。
自分でもどちらが正解か分からなくなりそうだ。
「手鏡、細工とかありませんよね。何か変なもんが映る工芸品とか」
「何もないよ。ふつうの百円ショップの手鏡」
医師が答える。
お医者さんでも百円ショップのものを使うのかと、どうでもいいことをつい考える。
何が起こっているのか。
それともこれも熱中症か何かの幻覚なんだろうか。
涼一は額に手をあてた。といっても、額にあたるものは手にふれてこないし、額に手が当たる感触もない。
「あの……会社に連絡してきていいですか?」
涼一はそう尋ねた。
「ああ、うん。CTとMRI撮るから、準備できるまであと待合室で待ってて」
医師がそう告げる。
一角に置いてあった青いスリッパをこちらに持ってきて、ベッドの足元においてくれた。
「あ……はい。あ、ども」
涼一はスリッパを履いて立ち上がり、カゴに置かれたスーツの上着と財布を手にとった。
自身の感覚では脳内はしっかりしていて何ら変化はない気がするが、やはりどこかおかしくなっているのか。
検査すれば何か病巣でも出てくるのだろうか。
「待合室……」
「そこのドア出て廊下まっすぐ行って、右」
医師が指で指ししめす。
「ああ、はい」
「歩ける? 大丈夫? ――まっすぐ歩いてみて」
医師がこちらを向く。
涼一は上着とネクタイを腕にかけ、医師を横目に見ながらドアまで歩いた。
「歩き方はおかしくないな。まあCTとMRI見てみるか」
医師がひとりごちる。
「じゃ、あの、会社に電話しつつ待ってますんで」
涼一は、観音開きのドアを押して開けた。
医師がコクコクとうなずきを返した。
病院の無機質な廊下を歩いていく。
けっこう古い建物のようで、廊下はうす暗い。
さきほどから通る人はほとんど見かけないが、たまに車椅子の高齢者が近づいて来たりするのを見ると心霊映像のようでドキッとする。
待合室で電話をかけるのは、迷惑だろうか。
むかしは携帯を病院でかけると医療機器がどうのと言われていた。
さいきんは言われていないようだが、それでもマナー違反だとか咎められたら気分が悪い。
不愉快になることははじめから避けようと、玄関口に行く。
「あ! えとそこの渋沢さん……に、似たかた!」
中年の女性の声がする。
もしかして自分だろうかと、涼一はふり向いた。
「ごめんなさいね。お名前がまだ分からなかったから」
カーディガンを着た女性が受付の横のドアから顔を出す。
パタパタとスリッパの音をさせてこちらに走りよった。
「履いてた靴、そこの下駄箱に置かしてもらいましたから。救急車のなかでぬいだやつ」
女性が下駄箱を指す。
脱いだというか脱がせられたんだろうと涼一は思った。
「じゃ。あと大丈夫? 外に出るの? 診察は? ――出て大丈夫って言われた?」
女性が病棟のほうを見る。
「CTとか撮るんで、そのあいだ待ってるように言われたんですけど」
「あ、そうなんだ。待合室そっち」
女性が反対方向にある小部屋を指す。
「いえ。電話かけてきますんで」
涼一はスマホを目の前にかざした。
「あ、そか。んじゃ」
女性はそう言い、またパタパタとスリッパの音をさせて立ち去る。
涼一は下駄箱を見た。
自身が履いていた革靴がきちんとそろえて置かれている。
置いたのは、あの救急隊員だろうか。
下駄箱から革靴をとりだし、玄関口を出ながらスマホをタップする。
ともかく不可解な部分を抜きにすれば、昼すぎに銀行の駐車場で倒れてそのまま行方不明ということになっているのだろう。
まずは上司に電話か。
怒られるか、それとも精神疾患でもうたがわれて哀れまれるか。
涼一は自身の会社の部署に電話した。
同僚の女性が出る。
「──あ、鏡谷だけど。そこに課長いる?」
そう問うと、同僚の女性が「……鏡谷さん?」と怪訝そうに返した。
「あの──何ていうか俺も分かんないんだけど、気がついたらS県にいてさ。とりあえず課長か係長……あと」
土屋の名前を言おうとした。必要なものを頼めるとしたらあのへんか。
「鏡谷さまですか……? ──失礼ですがどちらの」
同僚の女性が怪訝そうに問う。
「何言ってんの。そっちの営業課の鏡谷だけど」
涼一はそう返した。
同僚女性がしばらく沈黙する。
「あの……鏡谷なら、こちらにおりますが」