救急車၈中 二
病院の背の高い看板が目に入る。
血洗島総合病院。
おどろおどろしい病院名に涼一は引いた。
「なにっ、なんですかあれ。むかしの血液銀行みたいな?」
救急隊員が、「はは」と笑う。
「はじめて聞いた人、みんなびっくりしますね。血洗島は地名ですよ。住所的にはS県F市」
地名なのか。
戦か処刑場でもあった土地ならありがちだが。
「渋沢 栄一の出身地なんで、さいきんは知名度上がったかななんて思ってたけど」
救急隊員が苦笑いする。
渋沢 栄一か。
ちょっといまは聞きたくない名前かもしれない。
救急隊員がふと怪訝な顔になる。
「あれ? でもここを訪れるのが目的でK県から来たわけじゃないんですか?」
涼一は具合が悪いふりをして聞き流した。
銀行の駐車場で自分の頭部を見せられて、気がついたら救急車内だったなんて言っても困惑されるだけだろう。
統合失調症のうたがいありとか診断されかねない。
うるさいサイレンの音がやみ、救急車のバックドアが開く。
救急隊員には歩けると伝えたが、頭を打っているかもしれないからとストレッチャーで運ばれた。
看護師が何人かでストレッチャーを引き、無機質な病院内の長い廊下をガラガラと音を立てて進む。
ドラマの救急ナントカのシーンみたいだと思うが、頭を先にして運ばれるのではなく、足側を先にして運ばれるんだなとどうでもいいことを考える。
救急病棟と思われる観音開きの扉が開き、一、二の三の掛け声で病棟のベッドに移された。
「意識はあるんだね」
年配の男性医師がこちらをチラリと見る。
看護師に確認しているようだ。
「意識ありです。外傷もないようなんですが、自分の頭部を認識できないみたいだって救急の方が」
「頭部」
医師がこちらに歩みより、涼一の髪をかき分けるようなしぐさをしながらあちらこちらを念入りに診る。
「皮下血腫はないようだけど……念のためCTとMRI撮るか」
「はい」
看護師がそう返事をして、準備のためか病室をあとにする。
「熱中症?」
医師が問う。
それ、こっちが判断しなきゃならんのだろうかと思う。
「熱中症じゃ……ないと思うんですけど。銀行を出てすぐでしたし。エアコンきいてましたから」
「分かんないよ、そんなの。銀行入るまえに体調おかしくしてたのかもしれないし」
「ああ……そうか」
涼一は天井を見上げた。
となると、あの女性行員もやはり幻覚かなにかだったのか。
「熱中症かどうかって、検査とかして判断するんじゃないんですか?」
涼一は問うた。
「検査する?」
医師が尋ねる。
「いえ……それ判断するの僕なんですか?」
「意識障害とか痙攣とか重症なら血液検査するけど、そうでもない渋沢さんみたいな状況なら診察と問診だね。それでも念のため検査してって人はときどきいるから、そのときはするけど」
渋沢。
涼一は顔をしかめた。
だれだそれ。
「すみません……僕、鏡谷っていいます」
涼一はそう告げた。
医師が目を見開く。
とたんにアハハハと大声で笑いだした。
「いや申し訳ないです。渋沢 栄一さんにソックリだから何かつい。申し訳ない」
渋沢 栄一。あの紙幣の人のことだろうか。
まったく似ていないと思うが。
人に言われたこともないし。
そういや保険証もマイナンバーカードも持ってないなと思う。
銀行にいたので財布だけはあるが。あとスマホ。
涼一は、運びこまれたさいにカゴに置かれた上着とネクタイ、財布を横目で見た。
あとで同僚にでも電話して持ってきてもらうしかないか。
アパートを管理してる不動産屋に、合鍵で開けてやってくれるよう連絡も必要だ。
まったく知らん地名の病院に運びこまれたところをみると、マジでここ他県なんだなと思う。
保険証かマイナカードをK県から届けてもらうとしたら、高速料金とガソリン代も払ってやらなきゃならんだろうか。
面倒くさと思う。
「頭部が認識できないって、どんなふうに?」
かたわらに置かれた診察用のカートをさぐりながら医師が問う。
涼一は、もういちど自身の頭部のあるはずの場所を手でさぐった。
「何ていうか……手でさわっても何もないっていうか。顔とかに手がさわった感触もないですし」
「体性感覚野に損傷とかあったのかもな」
医師が早口で言い、カートから手鏡をとりだす。
「体性……?」
「頭頂葉にある皮膚感覚を処理する領域なんだけど」
医師が説明する。
「治るんですか……?」
「CTとMRIで見てみないとなんとも。精神的なもんかもしれないし」
言いながら、医師が手鏡をこちらに向ける。
「ほら頭部はちゃんとあるよ。鏡に映ってるでしょ?」
涼一は目を見開いた。
一気に鳥肌が立つ。
映っていたのは、渋沢 栄一の肖像にソックリの顔だった。