雜居狀態၈家 臺所 五
「俺の場合は……どうなんだろ。会社にもう天保十一年生まれの成りすましがいたって」
いまにして思うと「さっきの女性社員に代わってくれ」と言ったとき、成りすましはポカンとしたような反応だった。
職場に女性がいることがめったにない時代の人だったからだろうか。
「まだ別パターンがあるとか? それとも……」
「うーん」
爽花が考えこむように宙を見上げる。
「頭だけすでに乗っとり完了!」
こちらの頭部をビシッと指さす。
「うわ……やめろ」
涼一はふらふらとイスに座った。
イスの背もたれに腕をかけてげんなりする。
「……まじか」
天井をあおぐと、台所の明るいシーリングライトが目に入る。
戸棚の横にあるアナログ時計は、十一時近くを指していた。
住宅街とはいえ建物がまばらな地域のせいか、気味悪いくらい静かだ。
「でもりょんりょんはまだ首から下がりょんりょんのものじゃん。わたしの場合は、全身じわじわ進行中だからね」
爽花が自身の頭と胸元を交互に指さす。
「そんなん言われても何の救いもない……」
涼一は頭をかかえた。
あいかわらず頭が手に触れる感触はないのだが。
この頭の部分だけが向こうに行ってるということなんだろうか。
では、こうしてものを考えたり顔をしかめたりしているのは何者なのか。
「ああもう訳分かんねえ……」
涼一はため息をついた。
「よく分かんないけどさ、りょんりょんのタマシイ的なのはちゃんと頭の位置に残ってんじゃないの?」
爽花がスマホをテーブルに置いてイスから立つ。
冷蔵庫を開けて、なかを覗きこんだ。
「魂……」
「頭だけ乗っとられてるわりに、もの考えたり喋ったりはふだん通りやってんじゃん? ふだんのりょんりょん、あんま知らないけど」
「ふだん通りか? 俺……」
涼一は眉をよせた。
「え、きょう逢ったばっかだから分かんない」
「だよな……」
同僚の土屋と通話しても何も訝しがられた感じはなかった。
たぶん中身は何も変容していないのだろうと思うが、自身の成りすましが別の同僚をすんなり騙せていたことを考えると、そのあたりも自信が持てない。
土屋の認識がすでにおかしいのかもしれないし、自身が成りすましともう同化か何かしておなじものとして認識されたのかもしれない。
「分かんねえ……もう俺ってだれっていうか」
「え? りょんりょんじゃん」
爽花が冷蔵庫からコーラのペットボトルを取りだし、こちらに手渡す。
涼一は顔を上げて受けとった。
「つめて」
「冷やしておくって言ったじゃん」
爽花がペットボトルのフタを開けながら、もとのイスにすわる。
コクコクと二、三口コーラを飲むと、はーっと息を吐いた。
「異世界行って帰ってきたぁ!」
「……それコーラ飲むたびやってんのか?」
涼一もペットボトルのフタを開けた。
プシュッと音がする。
口の位置を見当つけてコクコクと飲んだ。
のど越しの感覚はある。
三分の一ほど飲んで、ふぅと息をつく。
爽花の解釈を信じるなら、魂が飲んでんのか。
魂、健気だなと思う。
「とりあえず、きょうは寝てあした始発で会社行くわ」
涼一はコクコクと一気にコーラを飲んだ。
亡霊の成りすましなんかどう解決していいのか今のところよく分からんが、ともかく現地に行って直接対決しなきゃ話にならんだろうと予想した。
赤い川の水が、どぷっと音を立ててこちらに流れてくる。
錆びた鉄と乳製品とタンパク質のような匂いとが鼻腔をつき、軽く吐き気をもよおしそうだ。
川の水が、ぬるぬるとこちらにせまり目の前でうねる。
涼一は粗末な木製の台の上に横たわっていた。
部屋で布団に寝ていたはずだが。
目だけを動かしてあたりを見回す。
川の水のしぶきがかかり、真っ赤な点々模様になった河原の石。
自身の首のあたりに血溜まりができ、ゆっくりと広がっていった。
木の台から、ピタン、ピタンと血がしたたる。
俺は死んだのか。
こんなに血がしたたって、生きているわけがない。
赤い川のずっと下流のほうに、まっ白い現代風の建物が見える。
なんの建物なのか。
工場か、なにかの施設のようだが。
満開の桜の花が、建物の手前で風にゆれて濃いピンク色の花びらを散らす。
季節が違う。いまは夏だ。
それとも四季咲きとかなのか。
いつの間にか自身も桜並木の道を白い建物に向かって歩いていた。
周囲には何十人もの人々がおなじ方向に向かって歩いている。
全員が首から大量の血をしたたらせ、質素な木綿の着物をびちゃびちゃに濡らしていた。
裾から流れるおびただしい血で、通ってきた河原一帯は真っ赤に濡れている。
血の匂いがすごい。
ひんやりとした空気にも関わらず強烈に立ち昇り、咽せ返るようだ。
怨みごとのような呟きが、止まることなく人々のあいだから漏れ聞こえる。
上空ではカラスの群れが飛び回り、ギャアギャアと鳴き声を発していた。
そこで目が覚めた。
室内はまだ暗い。
涼一はもぞもぞと布団のうえで身体を反転させ、枕元に置いたスマホを見た。
味気のない群青色一色の壁紙の画面が手元を照らす。
午前二時四十分。
まった気持ちの悪い夢見た。
怪奇とか、起きてるあいだだけで勘弁してくれ。
そう内心でグチり、もそもそと寝返りをうった。




