木蘭色၈法衣၈僧侶 四
「よーし、仕切り直し。坊さん、うにょうにょは引き受けた。あとはそっちの仏さんと好きにしろ」
涼一は僧侶に向かって声を上げた。
僧侶が、手を合わせたままこちらに礼をする。
あらためて観音経を唱えだした。
倶利伽羅龍王が天井近くでとぐろを巻き、玄関口を見据える。
ガッと大きな口を開けると、侵入してきた数えきれないほどの幽霊の手にまとめて噛みついた。
噛みちぎられた手が、びちゃびちゃと床で跳ねて水にもどる。
首を大きくブルンとふると、こんどは龍王はリビングの横にある窓に突進しだした。
ここに来た初日、リビングでまるで出口のない舟に乗せられたような怪異に遭ったことを涼一は思いだした。
閉められたはずの窓を、倶利伽羅龍王がすり抜ける。
激しく首をふり、こちらに戻ったときには何体もの黒灰色のぬめぬめと畝る影をくわえていた。
「え……なに」
涼一は剣をかまえたまま目を丸くした。
「……お坊さん?」
土屋が言う。
言われてみれば、うねっている黒い何かは法衣に袈裟をつけた格好に見える。
黒灰色の影たちが龍王にくわえられたままぬるぬると抵抗する。
龍王がブルンと首をふり床に放りだすと、それぞれに床を這い逃れようとした。
「黒幕?」
「観音のお使いさんの指してるうにょうにょはこっち?!」
涼一は土屋とほぼ同時にそう口にした。
「逃がすか! おい、龍王!」
涼一が追いすがろうとしたそのとき。
巨大な脚が、黒灰色の僧侶たちの逃げ場をふさいだ。
屋内全体を覆うかのような、巨大な姿。
憤怒の形相に条帛をまとい、激しい迦楼羅焔を背負った神仏。
不動明王だ。
黒灰色のぬめぬめ畝る僧侶たちを一瞥すると、僧侶たちは一瞬にして灰になり空中に消えた。
「みょうおんかんぜーおん ぼんのんかいちょうおん しょうひーせーけんのん ぜーこーしゅーじょうねん ねんねんもっしょうぎー かんぜーおんじょうしょう おーくーのうしーやく のういーさーえーこー」
観音の使いの僧侶が、観音経を唱えつづける。
室内が、ゆらりとゆれた気がした。
こんどはおだやかな波にゆられるような揺れかただ。
玄関口からやわらかな光が射しこむ。
迎え入れるような巨大な手が玄関口のむこうに見えた気がした。
床に消えていた水が水滴になり、巨大な手に導かれるようにつぎつぎと玄関口に向かう。
あれが観音だろうか。
木蘭色の法衣の僧侶が、しずかに観音経を唱えつづる。
「にーじー じーじぼーさー そくじゅうざーきー ぜんびゃくぶつごん せーそん にゃくうーしゅーじょう もんぜーかんぜーおんぼーさーほん じーざいしーごう ふーもんじーげん じんずうりきしゃー とうちーぜーにん くーどくふーしょう ぶっせつぜーふーもんぼんじー しゅーちゅうはちまんしーせんしゅーじょう かいほつむーとうどう あーのくたーらーさんみゃくさんぼーだいしん」
やがて床に消えた水がすべて光のほうに向かい終えると、僧侶はこちらに向けて一礼した。
玄関口は、閉まったままだった。
何ごともなかったように元のおしゃれな建物にもどった一軒家の屋内を、涼一は見回した。
木蘭色の法衣を着た僧侶もいつの間にかいない。
「終わった……のか?」
手元の倶利伽羅剣を見る。龍王が黒いうろこを光らせて剣にからみ、剣はもとどおりの錆びた古美術品のような外観にもどった。
幽霊夫婦の姿が見えないが、まだ避難してるのか。それとも観音について行ったのか。
波の音が、しずかに屋内に響いていた。
リビング近くの壁にかけられたアナログ時計を見ると、時間は午後八時。
海のほうから、花火の上がる音がした。
「やべ、眠い」
涼一はその場にしゃがみこんだ。
「せっかく連休なのにぜんぜん休めなかったもんなぁ。ここから思うぞんぶん休む?」
土屋が花火の方向を見上げる。
「んだな。寝よ、寝よ」
涼一は、気だるく立ち上がりリビングに歩みよった。
倶利伽羅剣をリビングのソファに雑に横たえる。
「あー、そういや龍王にかつお節やるって言ったんだっけ。たこ焼きのトッピング用のやつでいいかあ?」
頭をかきながら台所に向かう。
「ネコか」
土屋が苦笑した。




