危難၈海၈まぼჳს 三
「えっ、ちょっ……」
涼一は、助手席の足元を見た。
前方のエンジンルームのほうから水が少しずつ流れ、やがてフットスペースが数センチほど水で埋まりだす。
「なにこれ。どこからの水? 洪水起こってないよな?」
涼一は水を避けて助手席のシートで体育座りの格好になった。
「え、なに」
土屋がハンドルを握りながら聞き返す。
運転席のほうを見ると、土屋の足元のフットスペースも水で埋まり土屋の足首まで水に浸かっている。
「おまえペダル踏める? だいじょうぶ?」
「ちょっと待って。なに言ってるか分か――鏡谷く――」
土屋の声が、はげしい水音でかき消される。
後部座席の左右のサイドウィンドウを水が押し破り、車内に大量の水が流れこんだ。
「うわっ!」
涼一は、腕で顔をおおった。
車内がみるみる水につかり、胸元まで水に浸かる。
水がしょっぱいのに気づいた。
海水だ。
「土屋……!」
運転席の土屋に逃げようと声をかけるが、運転席は水圧でこわれて土屋の姿はなかった。
「土……!」
「がーいーにょーりゃくせつ もんみょうぎゅうけんしん しんねんふーくうかー のうめつしょーうーくー」
水音に混じって、経文が聞こえる。
どこからだと涼一は車内を見回した。
後部座席で、胸元まで海水に浸かった木蘭色の法衣の僧侶が正座していた。
げっそりと痩せて、つむった目もとは険しくなっている。
手を合わせて経文を読んでいるが、ときおりはげしい水流に圧されて合わせた手は大きくずれた。
「けーしーこうがいいー すいらくだいかーきょう ねんぴーかんのんりき かーきょうへんじょうちー わくひょうるーこーかい りゅうぎょーしょーきーなん ねんぴーかんのんりき はーろうふーのうもつ」
びしょびしょになった前髪をかきあげて涼一は僧侶を見つめた。
「……おい、あんた」
意思疎通ができるかどうか知らないが、とりあえず話しかけてみる。
「わくひーあくにんちく だーらくこんごうせん ねんぴーかんのんりき ふーのうそんいちもう」
「ちょっ、読経中断して会話しろ。俺の同僚、どこに流した」
「しゅーそーしょーどくやく しょーよくがいしんしゃー ねんぴーかんのんりき げんじゃくおーほんにん」
このさい土屋のことはあとか。
まあ東日本の震災の津波でも生き残ったやつだから何とかしてるかもしれん。
単に津波が来る地域にいなかっただけだが。
「きのうから俺につきまとってんのか? 理由はなんだ」
僧侶が読経をつづける。
海水はみるみる増えて、涼一も僧侶も顎のあたりまで海水に浸かりはじめた。
サイドウィンドウの外ははげしい大波がうねっている。
見ているだけで溺れるのを想像して息がつまりそうだ。
「あんた何が言いたい」
涼一ははげしい水圧に体を圧されながら問うた。
「にゃくあくじゅういーにょう りーげーそうかーふー ねんぴーかんのんりき しっそうむーへんぽう がんじゃーぎゅうふつかつ けーどくえんかーねん ねんぴーかんのんりき じんしょうじーえーこー」
ザバッと顔に海水がかかる。
涼一は、しょっぱい水をペッと吐きだした。
「みょうおんかんぜーおん ぼんのんかいちょうおん しょうひーせーけんのん ぜーこーしゅーじょうねん」
体が徐々に浮いてきた。
どうにか体勢をととのえるか、脱出をはかるか。
何とかしようと思うが、足元が踏んばれないのでどうしようもない。
何かをつかもうとしても手がすべる。
それ以前に、口元まで上がってきた海水を飲んでしまいそうになりなかなか口を開けない。
「あんた……ぶっ」
涼一は助手席のシートに抱きつくようにしてつかまり、もういちど口を開いた。
「何が……」
大波が顔を打つ。
四方八方から打ちつける波のあいまから何とか口だけをだし、呼吸をする。
ザブッ、と全身を強く波が打ちつけた。
助手席側の車体が破壊され、バラバラになって波にさらわれる。
ゴボッと口から息を漏らしながら、涼一は海に投げだされた。
ずっと遠くを、さきほどの木蘭色の法衣の僧侶が流れていく。
僧侶の頭と手足、胸元、腹部、ほぼ全身にほそい無数の何かがからみついていた。
ロープかクサリ……。
そんなふうに見えたが、何なのか。
ゴボッともういちど空気を吐き出し、涼一は目をすがめた。
頭上に、水面をとおして乱反射するやわらかな太陽の光が見える。
死ぬんだろうか。
そんなことを考えながら、もういちどゴボッと空気を吐き出した。




