まだ靜ヵな海 一
「思い出した。“ねんぴーかんのん” 言ってたのは爺さんの知り合いの尼さんだ」
朝、十時半。
ゆうべはふたたび怪異が起こるのを警戒して、涼一は土屋とともにリビングのソファに毛布を持ちこみ過ごした。
怪異が起こった場所で仮眠も何だが、ロフトよりは逃げやすい。いざとなれば外に出て車で逃走できる。
窓からは、ゆうべの怪異とは裏腹にさわやかな朝の陽光が射している。
波の音もおだやかだ。
「観音信仰の人との交流なんてあるんだ」
毛布をソファに置いたままでの朝食。
土屋が焦げめのついた食パンにピーナッツバターを塗る。
「霊能者やってた人じゃなかったかな。高齢だったからいまでもご存命かどうかは知らんけど」
涼一は食パンにママレードを塗りつけた。
理由はどうあれ一人でのんびり過ごそうとしてたところに割りこんだのはすまないので朝食を作ってやるとか土屋が言ったが、味噌を入れる順番が違うのが気になるので、おたがいになるべく家事せんでいい食いものにしようと提案した。
そんなわけで朝食はチンして皿に山積みにした食パンと、ジャム、マーガリン、ピーナッツバター、クリーム、チョコレート、ママレード、シナモン等々をならべて好きなもの塗ったれ、何なら混ぜ混ぜしてみろのスプレッドセット、それと冷凍食品のオムレツとインスタントコーヒーだ。
「ゆうべ、こわい顔したお坊さんが窓の外まで来てましたねえ」
「あらあらまあまあ、二人ともリビングで寝たの?」
とうとつに老夫婦の幽霊がテーブル横にあらわれる。
「うわあっ!」
涼一は声を上げた。
「鏡谷くん、いいかげん慣れようよ。失礼でしょ」
土屋が食パンにていねいにピーナッツバターを塗る。
「まあまあ、男の子はこれだから。ちゃんとロフトに敷いたおふとんで寝なきゃ」
老夫人が困ったように言う。
涼一は座った格好で後ずさり、心臓をおさえた。
「こわい顔したお坊さんって? いたんですか?」
土屋が尋ねる。
「わたしら、どちらさまですかって聞いたんですけどねえ。そこの窓のまえで、ずーっとお経唱えてるだけで」
「まあまあ、お痩せになってガリガリで。冷凍食品ですがたこ焼きが中にありますよ、よかったらと言ってみたんですけどねえ」
老夫人が頬に手をあてる。
そのたこ焼きって土屋が買ってきたやつじゃねえかと涼一は脳内でツッコんだ。
「お坊さんって肉類だめじゃないっけ。タコはいいの?」
土屋が問う。
「どうなんかな。殺生だから厳密にはだめっぽい気が」
涼一は眉をよせた。
「うちの爺さんとか知り合いの坊さんはふつうに食べてた気がするけどな。調理されたやつはすでに殺されてるから、むしろ食べてあげないほうが死をムダにするとか何とか」
「なる」
土屋がそう返す。
「補陀落渡海で死んだお坊さまかな。来てたの」
土屋が、バターナイフで容器からピーナッツバターをすくう。
「ああ……」
涼一は宙を見上げた。
ゆうべの空腹感や床が舟のようにゆれる感覚、窓も出入口もない部屋に閉じこめられた幻覚。たしかに聞いた話と一致する。
「観音浄土にぜんぜん行ってねえじゃねえか」
涼一は顔をしかめた。
「さっそく観音さまにクレームつけに来たんかなあ」
「俺ら、仏さんたちの業務のお問い合わせ所か」
土屋が、ピーナッツバターを塗ったバターナイフを皿に置く。
「んじゃ、いただきます」
「おお」
二人でそう言い合ってパンをかじる。
どちらも食事をしながらの会話は苦手なので、あとは無言だ。
もくもくと食パンをかじり、コーヒーで流しこむ。
たまにどちらかがフォークでオムレツを切った音がカチャカチャッと響くが、あとは聞こえているのはユーチューブのニュースのライブ配信と波の音だけだ。
「あらあらまあまあ。男の子は食べるかしゃべるか、どちらかしかできないから」
老夫人がソファのうしろでおもしろそうに声を上げる。
「なつかしいなあ。うちの息子も小さいときそんな感じで」
「ほんとそれ。アニメ見ているときにご飯出すと、お口からボロボロこぼすし。いつも食べてからにしなさいって」
老夫人が、かん高い笑い声をもらす。
「お二人とも、いつもお食事のときはいつもそんな感じなんですか」
「あらあらあなた、いま食べていらっしゃるんだから」
雑談が延々とソファのうしろでつづいているが、まじで内容は頭に入ってこない。
大皿に書類のように重ねた食パンにひたすら好きなものを塗り、口に運んでもくもくと噛んでコーヒーで流しこむ。
いつもの業務の延長のような食事のしかたはやっぱそうそう変わんないなと思った。




