海၈みɀʓ事故物件 四
土屋が手をのばし、涼一にひったくられたスマホを取り返した。
「もともとはというか正確には信仰なんだけど、時代とか状況によってはこういう形で死を強制されたり、自害することを拒否したお坊さんが役人にむりやり補陀落渡海という形で海に沈められたなんて話とか」
土屋がスマホをテーブルの上に置く。
「なにそれ。闇深」
「闇深いイメージあるよね。だから怖い話がけっこうある。――オカルト動画でも見たことあるわ、そういや」
土屋が行員のほうを見る。
「というか補陀落渡海は不動明王とはまるで違う方面というか、まったく関係ないってAI先生は言ってるんですけど」
「まじ?」
涼一も行員のほうを見た。
行員がにっこりと笑う。
「お気をつけください。――海に」
「では」とあいさつして行員が立ち上がる。
いつものごとく、きれいなフォームでおじぎをした。
「それ以外は、どうぞ磯あそびや潮あみをゆるりとお楽しみくださいませ」
「は?」
涼一は目をすがめた。
「えと……磯あそびは海での遊び、潮あみは現代でいう海水浴……」
土屋が急いでタップする指を動かし検索する。
「言葉の感じで何となく分かるわ。言ってること矛盾してねえか、おい」
行員が姿勢のよい歩き姿でなぜか台所の明かりとりの窓のほうへ進む。
「おい! あんたな!」
涼一はソファの座面に手をついて立ち上がり、行員の背中に追いすがった。
「だいたい、いまごろはもうクラゲに刺される時期だから海水浴はムリだっての!」
行員の肩に手をのばす。
「鏡谷!」
土屋が同じように立ち上がって声を上げた。
「あ」
そう思ったときには遅かった。
涼一の手が、行員の肩にかかる。
やわらかくて華奢な肩だ。ふんわりと体温も感じる。
ふつうの女とおなじ感じなんだなと思ったつぎの瞬間、血が逆流するような感覚を覚えた。
「鏡谷! このバカ!」
土屋がテーブルわきを通り、こちらに駆けよるドタバタという音が聞こえる。
よう分からんが、この感触だと鼻血出たろうかと混濁した意識で考える。
何かが背中を支える。
大きなゴツゴツした手らしい。土屋の手か。
「あっすみません、この人、学習能力なくて」
土屋が苦笑しつつあやまる声が聞こえる。
悪かったなと涼一は内心で毒づいた。
「よっく言って聞かせますので、お気をつけて」
土屋がそう言いぺこぺこ頭を下げているような気配がする。
神仏にお気をつけてとか、帰り道に何があるってんだ。痴漢にでも遭うのか。
涼一は口を挟もうとしたが意識朦朧として口も動かない。
「くそ……水着」
なぜかそれだけが口をついて出た。
波の音が聞こえる。
その波の音のあいまから、低い低いうめき声のようなものが耳にとどいた気がした。
天井ちかくにある明かりとりの小さな窓から、月が見える。
目をなんどかまばたきさせ、涼一は室内の照明のまぶしさに目をすがめた。
「だいじょうぶですか?」
「あらあらまあまあ」
「うわああああああ!!!」
とつぜん年配の男女に顔をのぞきこまれ、涼一は声を上げた。
借りていた海辺の一軒家。そこのもとの持ち主と名乗っていた老夫婦の幽霊だ。
涼一は心臓のあたりをおさえて起き上がった。
寝かされていた三人掛けのソファの上をすわった格好であとずさる。
「あらあらまあまあ、お元気ねええ」
「ま……まだいた」
涼一は心臓をバクバクいわせながら顔を強ばらせた。
「やはりお客さんがいるあいだは、ここで不自由なことはないか心配になってしまいましてなあ」
年配夫婦の夫のほうがそう語る。
「とくに不自由とかないから帰っていいすよ」
涼一はそう返した。
どこに帰るのかしらんが。
「土屋さーん。鏡谷さん、目ぇ覚まされましたよお」
老夫婦の妻が台所のほうにむけて声を上げる。
土屋が、五百ミリリットルのペットボトルの飲みものを飲みながら、台所のドアのない出入口から顔を出した。
「ん」
こちらに歩みより、べつのペットボトルを差しだす。
ペプシだ。
涼一は眉をひそめながら受けとった。
「ペプシあった?」
「鏡谷くんが気ぃ失ってるあいだに車で買ってきた」
土屋が答える。
人のことを幽霊夫婦にめんどう見させて出かけたということだろうか。
「なに幽霊と馴染んでんの、おまえ」
「お話ししたら中々いい方々で。生前、椀間市で会社経営してらしたんだって」
土屋が上を向きペプシを飲み下す。
「お二人ともわたのはらの社員さんなんですか。あそこともなんどか取引したことありますわ」
老夫婦がそれぞれにおじぎをする。
「それはそれは。今後ともよろしくお願いいたします」
土屋が営業スマイルでペコペコとおじぎを返す。
幽霊に今後があるかと涼一はツッコミたかったが、空気を読んでやめた。




