海၈みɀʓ事故物件 三
「……水着、それかエプロン」
ふたたびペットボトルのウーロン茶をそそぎながら涼一はそう要求した。
高窓から顔を出していた老夫婦はすでに消えている。
あれは滞在中、ずっとああして住み込みの家政婦みたいなことをやるつもりなんだろうか。
「鏡谷くんのご希望はアサガオ柄の浴衣じゃなかったっけ」
土屋がまるで動じずに口をはさむ。
行員が来たからなのか、口を軽くおさえまんじゅうを急いで咀嚼して飲みこんだ。
「もしかして、俺らがここでそろってるうちって感じで来ました?」
土屋が、ハハッと苦笑いする。
行員が座ったままで姿勢よくおじぎをした。
「無事のご回復なによりです」
「あーハイ」
土屋がそう返事をした。
「ハイじゃねえよ、おまえ。高額療養費制度とかあるにしたってICUそれなり出費だし、そのあとの肋骨の治療費とかレンタカー代とか」
「ちなみに鏡谷くんが半分もってくれました」
土屋が涼一のほうに手を差しだす。
「余計なことはいいんだよ」
「なによりです」
行員がふたたび座った姿勢で礼をする。
「なによりじゃねえ」
「お気をつけくださいね」
行員が、あいかわらずのにこやかな笑顔のままでそう続ける。
涼一は思わず目を見開いた。
「またなの? こんどは何にお気をつけ……」
「おいちょっと、あんた!」
土屋が質問する言葉を涼一はさえぎった。ソファの座面に手をつき、行員に詰めよる。
また肩に手をかけそうになったが、直前で手を止めた。
「何のお気をつけするか、ちゃんと言えっての」
行員がにっこりと笑いかける。
間近でほほえまれて、涼一は少々照れて気恥ずかしくなり行員から離れてすわり直した。
「……何にお気をつけるかだけでも言え」
「海です」
行員がみじかく答える。
涼一は、かすかに聞こえる波の音に耳をすました。ここのちかくに来てからずっと鼻腔をくすぐっていた潮の香りをあらためて感じる。
「……海に来てんのに、なに言ってんの。なら海に来るまえに止めろっての」
涼一が睨むように見ると、行員がふたたびにっこりと笑いかける。
「あのなあ! まいどまいどちょっとかわいくて神さん仏さんで、ちょっとかわいいからってなあ!」
「鏡谷くん、ちょっとかわいい二回言ってる」
土屋がツッコミを入れる。
「ちょっとっつうかマジでかわいいからっていいかげんにしろっての!」
「鏡谷くん……言いたいこと分かるけど」
土屋が笑いをこらえているような顔をする。
「んな顔してる場合か。この前えらいめにあったのはおまえのほうだろうが。おまえが何か言ってやれ」
「まあ……俺はその分ナース姿で道案内してもらったし」
「おい」
涼一は、あらためて行員に向き直った。
「土屋のリクエストにはけっこう答えるわりに、何で俺んときはいつも行員コスプレなんだ」
「……鏡谷くん、要点はっきりさせようよ」
土屋が苦笑する。スーツのポケットからまんじゅうを取りだすと、行員に差しだした。
「食べます?」
まんじゅういくつ持ってんだこいつと涼一は鼻白んだ。
「あんたさ、土屋んとこの墓参りんとき霊園にいなかった?」
涼一は眉をひそめた。
行員がにっこりと笑う。
これは肯定なのか否定なのか。
「……いたとしたら止めなかったのどういうわけ? お気をつけしてほしい場所なら、そんとき止めるのが人情ってもんだろ」
「鏡谷くん、そのかた仏さま」
土屋がペットボトルのお茶をコーヒーカップに注いで口にする。
「やかましい。んじゃホトケ情」
「補陀落渡海はごぞんじでしょうか」
行員がにこやかに問う。
「どこの都会」
涼一は眉をよせた。
土屋が脱いで横に置いていたスーツの上着からスマホを取りだし、検索をはじめる。
「ふだらくとかい……ですか?」
土屋がそう確認して眉をひそめた。
無言で検索結果を読んでいるが、なかなか口を開かない。
「なに。グーグルんとこのAI先生は何だって言ってる」
涼一は答えをうながした。
「これ……」
土屋がためらいながら口を開く。
「そういやまえにオカルトサイトでチラッと見たことあったかな。闇深いっていうか、どの方面から見るかにもよるんだろうけど」
土屋が、ふぅ、とため息をついた。
「なに。んなもったいぶるような内容なの?」
涼一は体を乗りだした。土屋のスマホをのぞきこもうと首をのばす。
「鏡谷くんが見るのは……お兄ちゃん、メンタルが心配」
「学年同じだろ」
土屋に言い返してスマホをのぞきこむ。
見えにくいので、けっきょく手をのばしてひったくった。
「補陀落ってのは、観音浄土。補陀落渡海ってのは、その浄土にわたるために出口のない屋形をつけた船で海に乗りだした信仰っていうか。盛んだったのは西日本みたいだけど、ここらへんの海からも一部あったってまえにどっかのサイトで見たような」
土屋の説明に、涼一は目を丸くした。
「出口がないってなに」
「つまり出口がない」
土屋が答える。
「どっかの構文みたいなこと言ってんじゃねえよ。つまり出口ないってどういうこと」
「釘でぜんぶ打ちつけて出られないようにしてた」
土屋が釘を打つようなしぐさをする。
「出られねえじゃねえか」
「出られないよ」
土屋が答える。
「どやって出るの」
「だから出られないんだって」
「中で死なね?」
涼一は問うた。
「死ぬね」
土屋が答える。




