阿毘達磨 ァㇶ"ダㇽマ 四
「えっ」
爽花がその場で固まる。
なぜかわたわたと後ずさりをはじめた。
「じじじじ人工呼吸、えっ、でも。あ、そか。りょんりょんと土屋さんはいつもしてるし――うわ、ひぇ」
なぜかその場にしゃがみこんで両手で顔をおおう。
「わたし見てないから大丈夫っ。店員さんが入ってきたらわたしが止めるからっ」
かなりイライラするが、どなるのはあとでもいいだろう。
涼一は、土屋の胸部に両手をあてた。
全体重をかけて胸部を押す。
土屋の頭部がすこしゆれたが、意識をとりもどしたためのものではないだろう。おそらくただの反動だ。
はぁ、と息を吐いてなんども全体重をかけて押す。
爽花が、顔をおおった手をすこしずらして様子をじっと見はじめた。
涼一は無視して全体重をかけて押しつづける。
「……そんな思いっきりやって大丈夫なの? りょんりょん」
爽花が弱々しい声で尋ねる。
「心臓マッサージってのは、あばら骨折るくらいの力でやんなきゃだめなんだよ」
言いながら、なんども全体重をかける。
「……りょんりょん、やったことあんの?」
「運転免許とるときに学科で必須なの。ランプつく人形つかってやらせられんの」
答えながら全体重をかけて押す。
整えた前髪が乱れてきた。はぁっと息を吐く。
「つか、俺が体力つきたらおまえ交代しろ。帰る気ないならそこでまず見とけ」
「う、うん」
爽花が神妙な顔で膝に手をおき、じっと見はじめる。
女の力じゃ効果があるほど力をかけるのはしんどいらしいが、学科でやるのは女も変わらんし横で指示すりゃ何とかなるだろと思う。
「ていうか、ガーゼってなにに使うの?」
「人工呼吸んとき。心臓マッサージほど重要視されてないって習ったから、こっち中心でいくけど」
「えっ、え?」
爽花が、たたみの上に置かれたガーゼを見て目を丸くする。
「人工呼吸ってガーゼ越しなの?! キスするんじゃないの?!」
「うるせえー! だいたい理屈くらいは保健体育で習うだろ!」
体重をかけて押しながら涼一は声を上げた。
イラついたせいでよけいに力が入る。いいんだか悪いんだか。
土屋の頭部が体重をかけるたびにゆれるが、いまだ意識がもどったような反応はない。
「救急車、つきました!」
さきほどの女性店員が、ぱたぱたと入室する。
涼一は、救急隊員が運びだすギリギリまで心臓マッサージをつづけるつもりで押しつづけた。
「ごぶさたしてます。鏡谷です。えと、小学校のときの──あ、ええ。幼稚園もいっしょだったみたいですけど。いえ、えと──ええ、不動尊やってんのはうちの祖父ですけど」
市内の大きな病院の待合室。
必要な箇所のあかりはつけてくれていたが、外来の時間はすぎているのでほかにはだれもいない。
周囲には無人のソファがならぶ。しんとして自身の声が響くのが、よけいに不安をあおった。
運ばれた土屋についてきて、ひと段落したところでやつの実家に電話する。
実家の番号なんか聞いてなかったので、わざわざ自分の実家にかけてむかしの連絡網をさがしてもらった。
土屋の実家の固定電話が健在で助かった。解約してたらたぶん直接たずねて行くしかなかったところだ。
「食事まえに急にっていうか──直前まで元気だったんですけど」
現実社会としては、そう説明するしかない。
M県からついてきた死神かもしれないやつとか、それを自分がつれてきてしまったとか、仏教の哲学の時間逆行とか、直接の原因かもしれないが話したところでどうしようもない。
「いま心臓マッサージとかやってるとこで。──ええ。それまで俺ついてますんで。じゃあ、お気をつけて」
そう伝えて通話を切る。
「りょんりょん」
うす暗い廊下の向こうから、缶ジュースを二本手にした爽花が歩みよる。
缶ジュースの一本をこちらに差しだした。
「いらね」
涼一は、自身の膝に肘をつきそっぽを向いた。
「奢りだよ?」
「なんで高校生に奢られなきゃなんねえの」
そう返す。待合室の一角にある大きなアナログ時計は、もう午後十時を差している。
「つか、おまえ帰れ。タクシー呼んでやるから」
「綾子ちゃんとこ行っても心配で眠れないもん」
爽花が向かい側のソファにすわり缶ジュースのプルトップを開ける。
「ラーメン屋さんに置いた土屋さんの車ってどうすんの?」
「……あとで俺が土屋のアパートに移動させとく」
涼一は答えた。
「んじゃ、そんとき送って」
「ふざけんな、やだね」
涼一は爽花から顔をそらした。
「だって、いまのりょんりょんに一人で運転させたら事故りそうだもん」
爽花がコクッと缶ジュースを飲む。
涼一は、無言で眉根をよせた。




