阿毘達磨 ァㇶ"ダㇽマ 二
「量子力学……」
涼一は軽く顔をしかめた。
「えっ、分かんないけど相対性理論みたいなやつ?」
爽花が手の甲を口にあて、すわったまま大げさに後ずさる。
「似たイメージで語られるけど、ぜんぜん違うんじゃなかったっけ」
土屋がスマホの画面を見つめたまま眉をよせる。
「たしかアインシュタインが “きみが月を見てないときは月は存在していないというのか” とか言って否定したやつ?」
涼一は何とか過去に聞いた知識を引きだしてみた。
「否定されてんの?」
爽花が目を丸くする。
「いや、アインシュタイン死後に発展した。有名どころはシュレーディンガーの猫とかラプラスの魔とか」
土屋がスマホ画面をスクロールする。
「シュレ猫は知ってる。名前だけっ」
爽花が胸元でぴょこっと右手を上げた。
「その量子力学が何で仏教とか死神の話に出てくんの」
「仏教の哲学が、二千年以上まえにすでに量子力学とおなじこと言ってたって話。この人は、そのなかからとくに両方の「時間」についての説明の共通点をあげてくれてる」
土屋が言う。
「……分かるか?」
スマホ画面を見つめる土屋に、涼一は問うた。
「要約すると “時間が存在するというのはこの世の人間の気のせい” ってことだと思うけど」
「……分からん」
「ちゃんと解説読むと、これはこれで納得できるんだけど」
土屋がスマホ画面をスクロールする。
「……つまりどうしろって」
「今回起こってることに関係したことだけ言うと、さっき話したべつのリプと同じ。別次元というか別世界がからんだら、時間の逆行や時系列があやふやなことは起こる」
土屋がスマホをスクロールする。
「――この人のリプを引用すると “アビダルマでは、時間は未来から現在へ、さらに過去へと流れているって考えで、これは量子力学の概念とも共通しており” ……」
土屋が顔を上げる。
「とさ」
「……とさじゃねえ」
涼一は額に手をあてた。ゆっくり頭を整理しようとこころみる。
「ちょっとごめん、そんなのたぶん学校でやってないし」
爽花が両手で自身の頬をおおい、口元をゆがめる。
「たぶんって何? おまえ出席率ってどうなってんの」
「りょんりょんがまえに言ってたコーヒーカップとドーナツもなにそれだったけど」
「……ああそれ、ポアンカレ予想ってのをものすごく簡単に説明したやつ。じっさいは次元がどうとか絡むらしいけど」
何かよく分からん空気になってきた。涼一自身も困惑する。
「……なんつうかさ、いったん休憩してメシ行かね?」
涼一はフローリングの床に敷いた絨毯に手をつきそう提案した。
「わたし味噌バターコーン」
車で五分ほどのラーメン屋。爽花がメニューをこちらに渡す。
「つか何でおまえいっしょなの」
涼一はメニューを受けとった。
「あ」
爽花が、こちらと土屋を交互に見て口に手をあてる。
「そういえばそうだー。二人きりの夕食なのにごめんー」
「んな訳分からんBLみたいなネタ吐いてごまかすな」
涼一は顔をしかめた。
「さやりんは調べもの頼んでるし俺らが奢るけどさ。きょうはなに? 綾子さんのとこに泊まるんじゃなかったの?」
土屋が尋ねる。
「泊まる予定だよ。待って。綾子ちゃんのとこに電話する」
爽花がかたわらに置いたバックからスマホを取りだす。
「ほんと自由だよな、おまえ」
涼一はメニューを土屋に渡した。
「野菜タンメン」
「俺もおなじかな」
土屋がそう言い、店員の呼び出しボタンを押す。作務衣に前かけをつけた店員がこちらに来た。
「え、やっぱさ、お食事とかいつも二人なんだ。同棲解消したとか言って速攻でよりをもどしたみたいでよかったあ」
爽花が顔をほころばせる。
言ってる意味分からん。
涼一は無視することにした。
「つかさっきの時間がどうこうだけどさ、つまり死神がやってることの順番が逆ってこともありえるんだよな」
涼一は切りだした。
呼び出した店員の対応をして、土屋がこちらを見る。
ここに来る車のなかで、そのことに気づいた。
死神らしきガイコツは、まずシーパラダイスに影があらわれて土屋の口元に死に水を連想させる水滴、その後に駐車場で土屋の横に立っていたガイコツ、そのあとで「どちらにしようかな」のわらべ唄。
順番が逆だとすれば。
「おい土屋」
涼一は眉をよせた。
「やっぱおまえ、しばらく俺んとこ泊まれ」
「ひ」
爽花が目を丸くする。
「どした、鏡谷くん」
「さっきのナントカダㇽマの話で何で危機感ねえんだ。逆なんだよ、あのガイコツ。たぶん」
涼一は早口で告げた。
「アビダルマな」
「だからやっぱ目ぇつけられてんのおまえ……!」
店員がラーメンを運んでくる。
涼一は、いったんセリフを切って店員の顔を見上げた。
作務衣に前かけをつけたガイコツだった。




