水 ŧ 滴ʓ 一
古い蛍光灯が照らす薄暗いスタッフ用廊下。
涼一はにっこりと笑う美少年をまえに目を丸くした。
遠くからは、遊興客のはしゃいだ声が聞こえる。スタッフ通用口の薄暗くシンとした雰囲気とは対照的だ。
「何でいつもとちがう姿……」
「先日、童子の姿で来られないかとおっしゃてましたので」
美少年がほほえむ。
何のときだったっけと涼一は記憶をたどった。
不動明王の本性のときなら一発殴れるって話だったか。流れでせめて童子の姿にって言ったんだった。
涼一は、少年の顔を見下ろした。
外見的には中学生くらい。大きな目に育ちの良さそうな屈託のない笑顔。女の子みたいなかわいい作りの顔立ち。
いやこれ殴るとかぜったいムリ。
「……やっぱいい。やっぱ本性のとき一択。本性で来い」
涼一は厄介ばらいするように手をひらひらと振った。
「本性の姿がお好みですか?」
「好みはいつもの……いやそうじゃなくて」
「どちらでも構いません。まえに接触したお武家のかたは童子がいちばんお好きだったので童子の姿でお話したまでです」
美少年がにっこりと笑う。
「童子の姿がいちばんお好き……」
涼一は何となく廊下の天井を見上げた。
何か考えたくない趣味嗜好の話をサラッと聞いた気がする。
「あー時代が違うから、鏡谷くん。あれでしょ、むかしは芳町とかあって稚児とか陰間とか男色がたしなみとか」
土屋が横から解説する。
「……分かってるけど、とりあえず現実逃避したくなった」
涼一は天井をながめ続けた。
美少年がやりとりをほほえんで見ている。
笑うときの表情やしぐさは、たしかに行員の霊池そっくりだ。
二人でならんだら完全に姉弟で通るだろう。
可能なのか知らんが。
「んで水着は? ここのTPOに合わせたって感じ?」
涼一は問うた。
神仏がコスプレ好きらしいとかだれも信じなさそうな話だが、童子のときは制服じゃないんだなと思った。
「以前お二人がハイビスカス柄の水着のお話をしていたので、お好きなのかと思いまして」
美少年が首をすこしかたむけて笑う。
涼一はポカンとかわいい笑顔を見つめた。
「どうでしょう?」
少年が、青地に派手なハイビスカス柄の描かれたハーフパンツ水着を片手でつまむ。
涼一は無言で眉根をよせた。
ものすごくくだらないが無視することもできない感情がこみ上げて、きつく顔をゆがめる。
「そうじゃねえだろ。そうじゃねえええ━━━━━━!!!」
涼一は片手で顔をおおい、がっくりと壁に手をついた。
薄暗い廊下内に声が響く。
人さまの企業社屋に来て大声でわめくとかマナー違反だと少しわれに返ったが、ふつふつとこみ上げる激しいモヤモヤの持っていきどころがない。
「何でその条件をいっしょくたにしてんだよ。おい土屋、何か言ってやれ」
「いや鏡谷くんがすごい勢いで言ってくれてるから」
土屋が苦笑いする。
「ハイビスカス水着はそもそもおまえのご希望だろうが。俺はアサガオ柄の浴衣だったはずだ」
「んじゃ何で早口で怒ってんの」
土屋が苦笑して返す。
「……水着はそのままでいいから、いつもの行員さんの姿に」
「鏡谷くん、それ完全にセクハラ」
美少年の様子をチラリと見る。あいかわらずにこやかだ。
まえに下品なセクハラでもすればワンチャンお使いから外されるかもしれんと考えたが、この程度ではだめか。
「んでなに。なんども言うけど、神仏のパシリなんてもうしないからな。えらい坊さんとか霊能力者とか日本の手取りをファーストしてる政治家とか……」
ぽちょん、と水音がする。
プールの水音がここまでとどくはずはない。涼一は周辺を見回した。
「ん? なんだ?」
土屋が口のあたりを指でぬぐった。
「なに」
「水滴おちてきた」
土屋が天井を見上げる。
涼一も同じように天井を見上げた。
「雨もり?」
「雨ふってた?」
土屋が口をぬぐいながらそう返す。
「雨音はしねえな……」
言いながら廊下のさきを見やると、巨大なガイコツの幻影が廊下の右側の壁に頭、肋骨や背骨を天井、左側の壁に骨盤を貼りつけるようにしてにあらわれた。
体を丸め、廊下におおいかぶさっているような格好だ。
「うわっ!」
涼一は思わず声を上げた。
「なに」
土屋がおなじ方向を見るが、何も見えないのか怪訝な顔をしている。
「何だあれ! おい!」
涼一は少年に詰めよった。
「お気をつけくださいませ」
少年がきれいな姿勢でおじぎをする。
「お気をつけくださいじゃねえ! 何に気をつけるかせめて言ってけコラァッ!」
「ちょっ、鏡谷くん、やめたほうが」
土屋が横から止めに入る。
涼一は手をのばした。少年の腕をガシッとつかむ。
「どうぞお気をつけくださいませ」
少年がこちらを見上げ、もういちど言ってほほえむ。
とたんに涼一は、鼻のあたりに血が逆流しそうな感覚をおぼえた。
鼻血が出るときの感覚だ。
ヤバい。
涼一は鼻を手でおさえた。体がうしろにふらつく。
「それやって何回気絶してんの。なぁんで毎回やるかな」
土屋が、うしろから体をささえた。




