落೬ᒐまსたよ
夏に発行された新紙幣は、紙幣をかたむけると肖像が動いて見えるホログラム技術がつかわれている。
紙幣でつかわれるのは世界初とのことで、めずらしさのせいか、発行当日の夕方ころから奇妙なウワサがSNSの一部でささやかれていた。
いわく、ホログラムの肖像が気味の悪い笑顔を浮かべることがある。
右ななめ、左ななめにしか動かないはずの肖像が、うしろを向くことがある。
いわく、肖像の顔が二人に増えていることがある、などなど。
鏡谷 涼一 は、たったいまATMから出てきたばかりの新紙幣をながめた。
手元で紙幣を軽く左右に動かし、ホログラムの部分を見てみる。
ホログラム部分は思っていたより小さいが、見てるとけっこうおもしろい。
しばらくながめていられそうだ。
一瞬、ホログラム肖像の頭部が失くなりシャツの襟とネクタイだけのように見えたが、すぐに立体的な渋沢栄一の顔が現れた。
光の加減か。
ホログラムなんて凝ったものを組みこんでると、こんなこともあるのか。
ちょっとびっくりしたと思いながら、もういちど左右に動かしてみる。
渋沢 栄一が左ななめ向きから右ななめ向きに動く。
桜とか波みたいな絵も変わるんだなと日本の技術にちょっと感心する。
アニメが売りの国としては何かいいんじゃねえの、と適当な評価をしながら苦笑いした。
時間は夕方の四時すこしまえ。
昼すぎの休憩時間を利用して今週分の食費をおろしに来たが、おなじ事情の人間が多いらしく、うしろには数人がならんでいる。
新紙幣を二、三秒ながめただけなのに、ならんだ人々の何人かが睨むようにこちらを見た。
そそくさと紙幣を財布にしまい、ATMのコーナーをあとにする。
出入口近く。地元小学校の作品展示コーナーのまえでスマホの着信音が鳴った。
カバンからスマホをとりだし、画面表示を見る。
同僚の土屋 大輔だ。
営業で回っている企業はまったくかぶっていないはずだが、何か連絡でもあったかと通話に応じる。
「はい」
「──はい」
土屋が同じセリフを返す。
「はい?」
涼一は軽く顔をしかめた。
「なに用事?」
「──鏡谷くん用事じゃないの? いま彼女さんかだれかといっしょにかけてきたでしょ」
土屋がそう返す。
小中学校おなじで実家も知っている同僚だ。
高校と大学は別だったが、就職してから再会した。
幼なじみのなれなれしさで、ときどきふざけてクンづけで呼んでくる。
「……彼女いねえし」
涼一は顔をしかめた。
「──んじゃ誰。鏡谷くんのスマホでかけてきて “ごぶさたしております”って言ってたんだけど。すげぇかわいい声で」
「ごぶさたしてるおまえの彼女じゃねえの?」
銀行入口で立ち止まってしまったので、通行の邪魔になっていた。
涼一は、通話しながら横を通る人を会釈してよけた。
「──何でごぶさたしてる俺の彼女が鏡谷くんのスマホでかけてくんの」
「知んね。昼間っから軽く怪談みたいなのやめてくれる?」
涼一はスマホ画面を見て時刻をたしかめた。
すぐ目の前の社屋にいったん帰って社用車のキー持って、車の中でペットボトルのお茶飲んで出るか。
自動ドアを開けて外に出る。
視界がゆらいだ気がした。
強い日射しのせいか。
顔のまえに手をかざして日射しを避ける。
銀行の花壇に植えられたタチアオイが、いちばん上の花を咲かせていた。
いちおうまだ梅雨の時期だそうだが、たぶん近いうちに梅雨明けするだろう。
銀行の駐車場を横切り、勤める会社のビルに向かう。
うしろのほうで銀行の自動ドアの開くかすかな音がする。
ローヒールと思われる靴でパタパタと走ってくる足音が聞こえた。
「あのっ、お客さま!」
女性の声がする。鈴を転がすようなというのか、かわいい声だ。
ここの行員かなと思いながら、ガランとした駐車場を横切り歩を進める。
「お客さま!」
女性行員の声が近づいてきた。何となくほかのだれかなのだろうと思い無視していた。
「お客さま!」
まだしつこく呼んでいる。
もしかして自分だろうかと思いながらふり向いた。
「お客さま」
やっと止まってくれたことにホッとしたのか、女性行員が笑みを浮かべる。
栗色のセミロングヘアの若い行員だ。
元アイドルとかにいそうな甘ったるい感じのかわいい顔立ち。
胸元のネームプレートには、「霊池」と表記されている。
見たことない気がするが、新卒で入ったばかりなのだろうか。
「お客さま、落としましたよ」
紙幣を落としたのかと思った。
「え……すみません」
あわてて財布を入れたポケットをさぐる。
財布はあった。財布を開いて見たが、紙幣はそろっている。
紙幣を一枚一枚、指先で引き出して見た。
渋沢栄一のホログラムの頭部がまた消えていたように見えたが、照りつける強い日射しの加減だろう。
「どうぞ」
女性行員がそう言い、両手でスイカくらいの大きさのものを差し出す。
そんな大きなものを落としたおぼえはない。涼一は苦笑した。
「僕じゃないですよ。たぶんほかの人……」
言いながら涼一は女性行員の手元を見た。
自分の頭部だ。
「……え」
「自動ドアのまえでゴロンって。分からなかったですか?」
女性行員が感じよく笑う。
「え? ……え?」
涼一は後ずさった。
自身の頭部に手をあてる。
たしかに何もない。
自身の頬や頭をつかもうとした手が、スカスカと素通りする。
ちょうどさきほどの頭部のない渋沢栄一のホログラム肖像のように。
足元からスッと血の気が引いた。
何見てるんだ、これ。
「警察に持って行ったら、一割もらえちゃうんですかね」
女性行員がクスクスと笑う。
ふいに目の前が真っ暗になった。
ああ、頭部が目ごと取れたんだから、見えないのがあたりまえか。
ヤケクソのような冷静さでそう思った。