196、おすすめ本『これからの日本、これからの教育』(前川喜平・寺脇研)①
著者のお二人は、文部科学省の元・官僚です。その経験から「日本」と「教育」について語られているのがこの本です。読んだ感想として、このお二人は、善人か悪人かに分けるとすれば、間違いなく善人であり、かつ自分自身のことを「正義感の強い」人間だと自負していると受け取りました。政治家に媚びを売ったり、天下りをして大金を得ようとして私欲に走るタイプでは決してありません。人間性において多くの人が好感をもつであろうお二人ですが、本の中で語られることに納得はできませんでした。「おすすめ本」として紹介していますが、「反論するため」に紹介しています。本の中で書かれていた内容の後、私の反論を加えた形で紹介したいと思います。
◎元文部事務次官の木田宏さんは、「寺脇くん、学校っていうのは、勉強のできない人間のためにあるんだよね。だから本当は、勉強のできない子から入学させなきゃいけない。ただ、われわれの時代は学校の数が足りなくて、申し訳ないけれども、勉強のできる子から入れることになってしまった」とおっしゃったんですよ。おそらく木田さんは、若い頃に、できることなら全員、高校に行かせてあげたい、大学に行かせてあげたいと思っていたんでしょう。けれど、当時はまだ貧しい時代で、家庭の事情で、中学に行くのも難しいケースが少なくなかったから、随分悔しい思いもしたと思う。木田さんは、力のない人間に力をつけることこそ教育だという意識を、はっきり持っていたと思うんですよ。【私の反論:「学校っていうのは、勉強のできない人間のためにあるんだ」「力のない人間に力をつけることこそ教育だ」素晴らしい言葉ですよね。でもそれを言っている文科省の官僚が、公立の小学校・中学校で強制的に実践しているのは、一斉指導であり、勉強のできない人間を早期に切り捨て、分からない授業を受けさせ続けて、さらに力のない人間にしている。それなのに、何を言ってるんだ、そんな理想を持っているなら、なぜ個別指導をしないんだ、と思わずにはいられません。このお二人からその事に対する反省も罪悪感もないことに驚きます】
◎今後、夜間中学への入学が増えるだろうと見込まれるのは、中学校形式卒業者です。不登校になったり、親から虐待を受けたりして、ほとんど中学に通うことができなかった人が、中学を卒業した後、たとえば二十代になってから、夜間中学で勉強をやり直したいと思っても、文科省はそれを認めてこなかったんですね。「形式卒業者」とは、十分な教育を受けないまま卒業証書だけは渡された人たちのことですが、明らかにそれは、政策的に「こぼし落とされた人」なわけですから、こういう状況を放置してはいけなかったんです。そこで2015年の7月に文科省は態度を改め、そうした人も、夜間中学に通えるようにしましょうという通知を出したんです。あまりに遅すぎましたが。大事なのは、学習者の学ぶ場を保障することです。一人ひとりの、多様なあり方に即した、多様な学びの場を用意すること。それこそが、これからの文部科学省の使命の一つだろうと、私は考えます。【私の反論:教わったことの9割ぐらいは理解できている生徒を「優等生」と呼ぶとするなら、それ以外の大して理解してもいないのに、進級を繰り返し、あげく卒業した生徒も「形式卒業者」に当てはまると私は考えます。そうした生徒は高校、大学に進学しても、実際の学力が、小学校・中学校レベルで止まっているので、そのことが問題となっています。これも一斉指導による弊害なのですが、このお二人からそのことに対する謝罪の気持ちはないようです。政策的に「こぼし落とされた人」であるこれらの生徒は、今も、全国規模で放置されています】
◎前にも言ったけど、結局、政治主導になるのが悪いわけじゃなくて、官邸トップと文科省のあいだに入っている人間が、権力を笠に着て「黙れ、黙れ」と言ってるのが、よくないわけですよ。側用人政治に堕してるわけです。
【私の反論:色々な有識者や専門家が、いじめやおちこぼれに対して実用書の形で発表しているのに、それを取り入れることもしないで、現場に押しつけている様は、官僚という立場の権力を笠に着て「黙れ、黙れ」と現場に言ってるのと同じだと私は思います。このお二人は優しい性格の方だと思いますが、優先順位が違うのでは? と思わずにはいられません。100万人のいじめやおちこぼれで悩む児童のためには動かず、1万人の中学校形式卒業者のためにしたことを誇っている。そのことが不思議でなりません】
『『これからの日本、これからの教育』(前川喜平・寺脇研・ちくま新書)より【次回に続きます】