181、おすすめ本『いじめのある世界に生きる君たちへ』(中井久夫)③
⑤孤立化の段階では、被害者はまだ精神的には屈服していません。ひそかに反撃を狙っているかもしれません。加害者はまだ枕を高くしていられないのです。次に加害者が行うのは相手を無力化することです。「無力化作戦」は被害者に「反撃は一切無効だ」と教え、観念させることです。そのため反撃にでれば過剰な暴力で罰し、誰も味方にならないことを繰り返し味わわせます。反抗のわずかな気配にも過大な罰が与えられます。いじめを大人に訴えることは、特にきつく罰せられます。それは加害者がわが身を守るためではありません。加害者はすでに「孤立化作戦」のなかで、大人はこのいじめに手出ししないと踏んでいるからです。そうではなくて「大人に話すことは卑怯だ。醜いことだ」といういじめる側の価値観で被害者を教育しようというのです。被害者はだんだんこの価値観を自分の中に採り入れ、大人に訴えるのを醜いと思うようになります。それに「孤立化作戦」の段階で、いじめには大人も介入できないと、大人への期待をほとんど失っていることでしょう。じつはこの無力化の時期は、加害者としても、のるかそるかの山場です。ここで「飼いならし」に失敗すれば、自分の威力を失い、いじめられっ子に転落する可能性さえあります。したがって、もっともひどい暴力がふるわれるのは無力化の段階かもしれません。ここで暴力をしっかりふるっておけば、あとは「暴力をふるうぞ」と脅すだけで十分です。
⑥このあたりから、いじめはだんだん透明化して、まわりの眼に見えなくなってゆきます。「見えなくなる」というのは、街を歩いているわたくしたちに繁華街のホームレスが「見えない」ようにです。人間には「選択的非注意」といって、自分が見たくないものを見ないでおくようにする心のメカニズムがあります。責任ある大人たちもさまざまな言い訳を用意しています。「自分もいじめられて大きくなった」「あいつには覇気がないからだ」などです。いくら当たっている面があっても、言い訳に過ぎません。この段階では、被害者は無力な自分がほとほと嫌になり、少しずつ自分の誇りを自分でほりくずしていきます。さらに被害者の世界は、そうとう狭くなっています。加害者との人間関係がリアルなたった一つの関係となり、家族が海外旅行に連れ出したとしても、加害者は《その場にいる》のです。空間は、加害者の存在感でみちています。時間的にも、加害者との関係は永久に続くように感じます。あと二年で卒業すると頭でわかっていても、「永遠のまだその向こう」に思えます。加害者のきげん一つで運命が決まるような毎日。そのなかで被害者は感情の面でも加害者に隷属していくのです。こうなると、加害者は今日だけは勘弁してやるという「恩恵」で、「透明化作戦」に被害者自身を協力させることだってできます。大人も前で加害者と仲良しであることをアピールしたり、加害者といっしょに別のいじめに加わることもあります。このことで、被害者は「自分は被害者だ」という最後の拠り所さえ奪われます。「透明化作戦」のなかで行われるものに「搾取」があります。多額の金銭の搾取です。これは加害者に実利をもたらしますが被害者はたまったものではありません。被害者はお金をつくるため、おこずかい、貯金を差し出し、次に家から盗み出すか万引きするしかありまん。でもそれは、家族や社会との最後のきずなを自分の手で断ち切ってしまうことです。すでに起きていた「孤立化」や「無力化」は、ここで本当の意味で完成します。自らの資産と権利を失った、奴隷にして罪人だと、被害者は感じます。しかし、何より被害者を打ちのめすのは、調達した金品を、加害者があっという間に浪費したり、燃やしたり捨てたりすることです。加害者は巨大で自分は本当にちっぽけな存在だと、被害者が身に染みて味わう瞬間です。大人だったら、殴られたり蹴られたり、お金を巻き上げられたりしたら、警察に訴え犯人をつかまえてもらうのが当たり前です。ところが子どもについての法律は更生させるという建前でつくられ、大人のように刑罰を受けることがありません。しかし罪の自覚も更生もなく、いじめが放っておかれるなら、子どもの世界は大人の世界に比べてはるかにむき出しの「出口なし」の暴力社会になります。その「出口なし」感は、ほとんどナチスの強制収容所なみです。その壁は透明ですが、眼に見える鉄条網よりも強固です。
『いじめのある世界に生きる君たちへ』(中井久夫・中央公論新社)より【次回に続きます】




