九話 終わりを告げるチャイム
『だいぶ熱も引いたみたいですね』
「はい。まだ熱はありますけど、昨日に比べたらかなり楽になりました」
まあ、大学は休んじゃいましたけど。
そう言いながら、春人はテーブルの上に置かれた貞子の手作りお粥をゆっくり口に運んだ。
リビング──そこで朝食を挟みながらの会話だった。
本来なら春人は大学に行っている時間帯だが、先述の通り、無理せず休養したのだ。
もっとも最初はまだ熱があるのに大学に行こうとしたところを、見かねた貞子が慌てて止めたのだが。
『昨日、一日中ずっと安静にしていたおかげかもしれませんね。薬もちゃんと呑んでいましたし』
「それもありますけど、貞子さんがずっと看病してくれたおかげですよ。本当にありがとうございました」
『い、いえ。別に大した事はしていませんから……』
嘘は言っていない。本当にこうしてお粥を作ったり、春人が寝ている間に額の濡れタオルを替えたり、その程度の簡単な事しかしていない。誰にでもできた事をそばにいた貞子がやったに過ぎないのだ。
本当は、看病するつもりなんてなかったはずなのに。
『絆されてしまった、という事なんでしょうか……』
「え? 何か言いました?」
『ああいえ、なんでもありません』
笑顔で訊ねてきた春人に、貞子は緩く頭を振る。
絆されたにしろなんにしろ、結果的にはこれでよかったのではないかと、今になってそう思う。
春人をこの部屋から追い出したいという気持ちは依然として変わらないままだが、さりとて春人を必要以上に苦したいわけではない。むしろ叶うならば、平和的に解決したいくらいだ。
そう考えてしまうほどに、今や春人に情を寄せてしまっているのだ。
こんな優しくて素敵な人が、自分みたいに不幸であっていいはずがないのだから──
「それにしても、貞子さんって気配り上手ですよね。こうしてお粥を作ってくれたり、オレが寝ている間に額の濡れタオルを交換してくれたり」
『いえ、先ほども言いましたけど、そんな大した事はしていませんから。辛そうにされていたので、このくらいならと思って看病しただけですし……』
「でも、そのわりには手慣れてましたよね? 何か看護系の仕事でもされていたんですか?」
『とんでもない。ただちょっと、ある人と同棲していた事があるので、その時の経験が生きただけですよ』
「……ある人と同棲って、前に話していた『大切な人』の事ですか?」
「まあ、はい……」
ぎこちなく頷く貞子。この部屋で同棲していた事は事実だが、正直あまり自分から話したい内容ではないので、つい返事が微妙な感じになってしまった。
そんな貞子の反応を見てかどうかはわからないが、対する春人の表情もどことなく浮かないような気がした。
『……春人さん? どうかしました?』
「あ、ううん。なんでもないです。それにしても、貞子さんの作ったお粥は本当に美味しいですね!」
『はあ……』
お粥なんてどれも薄味で単調だし、誰が作っても大差ないと思うのだが。
それとも、お粥が美味しく感じられるほど、お腹が空いていたのだろうか?
と、そんな時だった。
ピンポーンというチャイムの音が、不意に玄関から響いた。
「……? 誰だろう? ここに来る連絡なんて、誰からもなかったはずなんだけど……」
首を傾げながら、テーブルの上に置いてあったマスクを装着して、玄関へと赴く春人。その間に貞子もとっさに天井裏へと隠れて、玄関の様子をひっそり顔だけを覗かせて窺う。
そうして、春人がドアを開けると、そこには──
「貴樹に、穂奈美さん……?」
引っ越し初日に春人の手伝いをしていた男の子と、貞子の知らない女の子が、神妙な面持ちで玄関外に立っていた。
「貴樹だけならともかく、穂奈美さんもお見舞いに来るなんて珍しいね」
お見舞いに来たと言う貴樹と穂奈美を部屋の中に招き入れ、水道水の入ったコップを二人の前に出す春人。そんな春人の用意したコップに目もくれず(というより、意図的に無視した?)、
「春人君、風邪の具合はどう?」
「うん。まだ熱はあるけど、こうして歩ける程度には良くなったよ」
「そっか。大学を休むくらいだからもっと重い症状なのかなって心配していたけれど、思っていたより軽そうで安心したわ」
春人の返答に、穂奈美はホッと安堵の表情を浮かべる。貞子が見るに、どうやら春人の友人のようだ。
対するもう一人の友人──貴樹の方はというと、終始笑顔でありながらも、目だけはそこはかとなく険しいものがあった。
春人もそんな貴樹の剣呑な雰囲気を察したのか、怪訝に眉をひそめて、
「……貴樹、さっきから妙に怖い顔になってるけど、オレ、何か気に障る事でもした?」
「ああいや、俺、そんな怖い顔になってたか……?」
「うん。見舞いに来たんじゃなくて、殴り込みに来たんじゃないかって身構えるくらいには」
「ほんとすまん! 見舞いに来たのは本当だから。悪い気にさせたのならもう一度謝るから!」
「大丈夫大丈夫。オレに文句があって来たわけじゃないとわかって、逆に安心したくらいだから」
「んもう。何やってんのよ貴樹。病人の春人君に変な気を遣わせるんじゃないわよ」
「わかってるって。そこまで責める事はないだろ……」
「二人は相変わらず仲良しだね〜」
「「なんでそうなんねん」」
息ぴったりで春人にツッコミを入れる貴樹と穂奈美。内心、貞子も関西弁で突っ込んでしまったのは、ここだけの秘密である。
「こほん。まあ、なんだ。思っていたより元気そうで安心したよ。一人暮らしを始めたばかりなのに風邪なんて引いて大丈夫なのかって、少し気にいたからな」
「そうなんだ。ごめん。いらない心配を掛けて……」
「いいっていいって。むしろお前はもっと俺とか他の人に頼っていいくらいだと思うぞ? ただでさえお前、一人でなんでもしようとする癖があるからな」
「そうだよ春人君。いざという時は私達を頼っても全然いいんだからね? 私達、友達なんだから」
「貴樹、穂奈美さん……。ありがとう、そう言ってもらえてすごく嬉しいよ」
貴樹と穂奈美の言葉に、春人は心底感激したように目尻を緩めた。マスクの上ではわかりづらいが、きっとその下では柔和に微笑んでいる事だろう。
「……けどな、春人」
と。
それまで流れていた穏やかな雰囲気を断ち切るように、貴樹は不意に真剣な表情になって、重々しく口を開いた。
「今日、俺と穂奈美が春人の家に来たのは、実は見舞いだけってわけでもないんだ。どうしてもお前に伝えたい事があってさ……」
「そうなの。まだ風邪も治りきっていないのに、突然家に押しかけちゃってごめんね……?」
「いや、それはいいけど……。え? 穂奈美さんも伝えたい事があるの? 貴樹と一緒に?」
春人の問いに、二人同時に頷く貴樹と穂奈美。何を伝えに来たかはわからないが、雰囲気からして重大な要件だという事だけは、天井裏からこっそり見ている貞子にも肌で理解できた。
そして、どうやら春人も貞子と同じ感想を抱いたようで、どことなく緊張した表情で目の前の二人を見据えた。
「えっと……。もしかしてかなり深刻な話だったりする? 色恋沙汰とか進路関係の話だとしたら、オレ、あんまり力になれないと思うよ?」
「……そうじゃない。俺達の問題とかじゃなくて、春人、お前に関わる問題なんだよ」
「オレの……?」
「うん。私も少し前に大学で貴樹から聞いたばかりなんだけど、居ても立ってもいられなくなって……。それでこうして貴樹と一緒に春人君の家まで慌てて来たの……」
本当はこんな形じゃなくて、もっと普通の日に遊びに来たかったけれど──と表情を翳らす穂奈美に、春人はますます体を強張らせた。
「正直、お前にこんな話をしても信じてもらえないだろうし、理不尽にしか聞こえんだろうけど、それでも春人に言わなきゃいけない事があるんだ……」
言って、貴樹は緊張をほぐすように深呼吸を繰り返したあと、まっすぐ春人を見つめながらこう告げた。
「春人、今すぐ引っ越せ。この部屋には怨霊がいるんだ──」