四話 貞子の事情
その日、春人は大学の講義が昼までだったので、昼から夜になるまでずっと交通整理のバイトをしていた。引っ越しでだいぶ貯金を食われてしまったので、少しでも生活費を稼ぐためだ。
そんな夜空の下を、春人はコンビニで買った夕飯をレジ袋に携えながら、とある路地を一人で歩いていた。
「ん〜。さすがに今日は疲れたな。こんなに立ち仕事をしたのは久しぶりかも」
凝った両肩を軽く回しながら、春人はひと気のない静かな夜道の中で独り言を呟く。独り言は昔からの癖だが、一人暮らしを始めてから少し数が増えたような気がする。両親が共働きだったので今さら一人暮らしくらい平気だと思っていたのたが、自覚がないだけで心の中では寂寥を感じていたのだろうか。
もっとも、今さら一人暮らしをやめるつもりなんて毛頭ないけれど。
両親にはだいぶ世話になった分、一人暮らしをする事で少しでも今までの感謝の気持ちを還元したいと本気で考えているから。
「……一人暮らしと言えば、貞子さん、今も一人で部屋にいるのかな?」
貴樹にはさんざん用心しろと忠告されたが、やはり悪い人には思えない。なぜ春人の部屋に一人で居続けているのかはわからないが、きっと並々ならぬ事情があるのだろう。そうに違いない。
だからこそ──
「うん。今日こそちゃんと貞子さんに訊かないとな」
自分のアパートに着いてみると、春人の部屋は消灯されたままだった。
いや、今朝部屋を出る前に電気を消したのだから当たり前といえば当たり前なのだが、貞子さんがいるのならどうして照明を点けないのだろうと不思議でならないのだ。昨日の夜もそうだったが、もしかして遠慮しているのだろうか?
別に気を遣わなくてもいいのに、と苦笑しつつ、階段を上って二階にある自分の部屋へと向かう。
そうして目的の場所に着いて、鍵を開けて中に入ってみると、何故だか暗闇の中、奥の方でほんのりと明かりが灯っていた。
「あれ? あんなところに明かりが点くような物、置いてあったっけ?」
首を傾げつつ、靴を脱いで玄関に上がる。テレビすら置いてない殺風景な部屋なので、あんな風に蛍火のような明かりなんて灯るはずがないのだが……。
と。
ギシ……ギシ……
なんて力強く床を踏みしめる音が、件の蛍火が灯っている方向から聞こえてきた。
やがて、その足音は次第に大きくなっていき、仄暗い奥の部屋からうっすら人影のようなものが浮かんできた。
しかもその人影は、運動会の組体操ぐらいでしかお目にかかれないような、つまるところのブリッジの体勢で歩行しており──
途端、その人影が突如としてスピードを速め、春人目掛けてクモのように走ってきた。
『出テケ! 出テケ出テケ出テケ出テケ出テケ出テケ出テケエエエエエ!!』
人影──もとい貞子さんが、ありえない事に首を正面に向けたまま、猛然と春人に迫る!
「あ、貞子さん。ただいまです」
『あ、はい。おかえりなさいです』
挨拶を返され、にっこり微笑む春人。よかった、今日も元気そうで。一昨日は血だらけだったので後遺症などを心配していたが、この分だと何も問題はなさそうだ。
『──じゃなくて!』
急にどうしたのか、貞子さんはいきなり大声を出して俊敏に立ち上がった。しかも首があらぬ方向を向いたままで。
『あの、今の私を見てなんとも思わないんですか? ほら、首が背中を向いているんですよ? それなのにこうしてあなたと顔を合わせながら普通に話しているんですよ?』
「はい! めちゃくちゃ体が柔らかいんですね! オレ、体が硬い方なんで羨ましいです!」
ガクッと貞子さんが肩を落とした。
『いや、体が柔らかいって。どう考えてもそんなレベルじゃないと思うんですけど……』
「あのー、それより先に首を元に戻した方がいいと思いますよ? いくら体が柔らかいとはいっても、ずっとそのままでいたら首を痛めそうですし」
『そうですね。いや、別にこのままでも大丈夫ではあるんですが……』
言いつつ、ゴキッと鈍い音を鳴らして首を元に戻す貞子さん。体が柔らかいとはいえ、あそこまで首の位置を変える事が出来るなんて、まるで大道芸人みたいだ。
もしかすると先ほど『エクソシスト』じみた体勢で動き回っていたのも、案外大道芸の練習とかだったのかもしれない。勤勉なお方だ。
『はあ。これだったら絶対怯えてもらえると思っていたのに……。それなのにこうもあっさりスルーされるなんて。もう挫けそう……』
「……えっと、何をそんなに落ち込んでいるのかはわかりませんが、元気を出してください。諦めるのは精一杯やってからでも遅くはないと思いますよ?」
何を頑張っているのかは定かではないが。
『そ、そうですよね。まだ諦めちゃダメですよね。私にはまだ、奥の手がありますし!』
「そうです! その調子です! で、奥の手っていうのは?」
『……何故でしょう。なんだか自分がとても滑稽な姿を晒しているような気がしてきました……』
まあいいでしょう、と何かを諦観したように呟いたあと、貞子さんはおもむろに両手を上げて、
『そこにある台所のコップをよく見ていてください。今から持ち上げますから』
「? 持ち上げるって──うわ!?」
その瞬間、ひとりでにふわっと宙に浮いたコップを見て、春人は思わず双眸を剥いて驚愕した。
「こ、これは……!?」
『ふふっ。どうですか? すごいでしょう? ビックリしたでしょう? とても怖いでしょう!?』
「は、はい。ビックリしました。まさか貞子さんがこんな──こんなすごい隠し芸を持っていたなんて!」
貞子さんがずっこけた。
「おおっ! まるで吉本新喜劇のような華麗な転け方! オレ、リアルで初めて見ましたよ!」
『……私も、こんな転け方をしたのは初めてです……』
興奮状態で感想を述べる春人に、貞子さんはゆっくり体を起こしつつ、先ほどよりもいっそう気落ちした表情で溜め息を吐いた。
『はあ。こんなに何をしても動じない人は初めてです……』
「え? オレ、すごく驚いてますよ? 今の手品だって、どうやったのか全然わかりませんし」
『いえ、今のは手品じゃなくて念力……ああもう、何を言っても無駄な気がしてきました……』
──私はただ、この部屋から出ていってもらいたいだけなのに。
そう静かに漏らした貞子さんに、春人は真剣な面持ちになって膝を下ろした。
「貞子さん。前から訊こうと思っていたんですが、オレに出ていってほしい理由でもあるんですか?」
『えっ。そこはちゃんと伝わっていたんですか……?』
「そりゃ、あれだけ『出てけ』って言われたら……」
自分でも鈍感な方だと思っているが、さすがにあれだけ言われてなんとも思わないほど、無神経ではない。
「理由があるなら、ちゃんと話してほしいです。でないと、どうする事もできませんから」
『………………』
真摯な瞳で言葉を掛ける春人に、貞子さんも少しは絆されたのか、ややあって『ここは……』と重々しく口を開いた。
『ここは……この部屋は、ある人との思い出が詰まった部屋なんです。だから、他の人に汚してほしくなかったんです。あの人がここに帰ってきてくれた時に、笑顔で出迎るためにも』
「だから、ずっとこの部屋にいたんですか? その人を待つためだけに?」
『はい……』
寂しげな表情で頷く貞子さん。いつからこうして一人で待っていたのかはわからない。その人がどれだけ貞子さんにとって大事な人なのかもわからない。
だがきっと、春人が想像しているよりはるかに重い覚悟を持ってここに留まっていたのだろう。
春人が来るまで誰もいなかったこの部屋の中で、ずっと一人で。
寂しかっただろう。心細かっただろう。一人で泣いていた夜もきっとあっただろう。
そう考えただけで、何かをせずにはいられなかった。
「貞子さん──」
そうして、春人が口にしたとある提案に、貞子さんは『ぴゃああああ〜!』と顔を真っ赤に染め上げた。
明日も朝の時間帯に投稿する予定です。