二話 命名〝貞子〟さん
結局あのあと、血だらけの女性とは翌朝になっても会う事はなかった。
「一体なんだったんだろうなあ、あの人……」
そう独りごちながら、春人は近くにあるスーパーの中を歩いていた。
最低限必要な物だけは新しい住居に運んでおいたが、引っ越したばかりという事もあり、食料は一切買っていなかったため、こうしてスーパーまで出向いたというわけだ。
今日の分の朝食は昨日コンビニで買ってきた物で済ませたが、明日からまた大学だし、さすがにご飯抜きのままで行くのは辛い。引っ越したばかりで貯金も心許ないし、今後はバイトのシフトを増やして稼がねば。
両親には大学に入学した時の費用と授業料まで負担してもらっているのだ。本当は授業料も払うつもりでいたが、学生の本分は勉学だと諭されてしまったし、せめて生活費だけは自分でどうにかしたい。でないと、一人暮らしを始めた意味が無くなってしまう。
とまあ、それはそうと。
「あの女の人、ちゃんと病院に行けたのかな? どこでケガをしたのか知らないし、そもそもなんでオレの部屋にいたのかもわからないままだけど……」
冷凍食品売り場を物色しながらも、頭に思い浮かぶのは、昨日突然部屋の中に現れた、血だらけの女性の姿ばかり浮かぶ。それだけ衝撃的だったというのもあるが、なにより登場の仕方が映画に出てくる貞子そっくりで、どうしても頭から離れないのだ。
何故あの女性は、あんな意味不明な出方をしたのだろう。最初は頭を打った衝撃で朦朧としているのだとばかり思っていたが、あの春人から離れた際に見せた俊敏な動きからして、別段弱っているわけではなさそうだった。
では、わざわざ貞子の真似をして春人を驚かせたかったのだろうか? いや、顏に見覚えはないし、そもそも両親以外に合鍵なんて渡していないはず。それなのに春人の部屋に入れたというのが謎で仕方がなかった。
「もしかして空き巣? いや、そんなわけないか。いくらなんでも軽装過ぎる。となると、やっぱり知り合い……?」
謎は深まるばかり。仮に知り合いだったとしても、まるで意図がわからないし、そもそもどうやって部屋の中に入ったのかがわからない。
こんな事なら、名前くらい訊いておくんだった。そうしたらあの女性を探す手かがりが掴めたかもしれないのに。
「なにはともあれ、元気でいてくれたらいいなあ」
また会えるとも知れない相手に心を砕きつつ、春人は目当ての冷凍食品を買い物カゴに入れた。
◇◆◇
買い物から帰り、簡単に夕飯を作って食べ終えたあと、春人は台所で食器を洗っていた。
一人暮らしなので洗い物なんて数が知れているのだが、新しく買った食器などもあったため、念のためついでに洗っていたら、思いのほか時間が掛かってしまった。もっとも春人は綺麗好きなので、別段苦でもなかったが。
「よし。これで洗い物は終わりっと」
あとはテーブルでも拭いておこう。
そう考え、濡らした布巾を持ってリビングに入ったところで──
「わっ。また停電……?」
昨日と同様、唐突に消えた照明に、思わず顏をしかめる春人。決して電気を使い過ぎているわけでもないのに、何故突然停電になるのか。家電製品も故障するかもしれないので、正直勘弁してもらいたいのだが。
「はあ。一応ブレーカーも見ておくか」
嘆息を零しつつ、昨日と同じようにテーブルの上に置いてあったスマホのスイッチを入れたところで──
『出テケ……コノ部屋カラ出テイケ……!』
天井の隅。
ふと見上げた視線の先に、スマホの明かりに照らされた女──昨日遭遇した長い黒髪の女が、重力に逆らうように天井にへばり付いた状態で春人を睨んでいた。
その血気も凍るおどろおどろしい形相に、春人は「あ、あ、あ」と口を戦慄かせて──
「あああああ会えたああああああっ!」
と、大声を上げながら慌てて接近してきた春人に、女はビクッと肩を跳ねさせて『え? え?』とあからさまに狼狽えた。
「よかったあ。あれからずっと心配していたんですよ? 血も止まっているみたいですし、ちゃんと病院に行って治療してもらえたんですね」
『えっ。いやあの、血は止めようと思えばいつでも止められたんですが……』
「あははは。貞子さんも冗談がキツいなあ。そんな人外じみた事、普通の人間にできるわけないじゃないですか〜」
あ。貞子さんが落ちた。
「──って、大丈夫ですか貞子さん!? なんか寿命の切れたセミみたいな落ち方でしたよ!?」
『だ、大丈夫です……。つい脱力してしまっただけなので……』
強かに背中を打ち付けたはずなのに、至って問題なさそうに起き上がる貞子さん。昨日春人が腕の中から落ちた時もそうだが、見るからに華奢な女性といった感じなのに、見た目に反した強靭さである。
『それよりも、先ほどから口にしている「貞子さん」というのは一体……?』
「ああ、すみません。名前がわからなかったので、勝手に自分の中でそう呼んでいたんですが、あのー、ちなみにあなたのお名前は?」
『あ、えっと、幸子と言います……』
「え、貞子さんって言うんですか? なんだ、じゃあこれまで通り貞子さんって呼んでも全然問題ありませんね。なんだかホラー映画に出てくるお化け呼ばわりをしているようで心苦しかったんですけれど、偶然にも名前が同じで安心しました〜」
『いやあの、私、幸子……』
「はい? なんです貞子さん?」
『あ、もう、貞子でいいです……』
何かを諦めたように項垂れる貞子さん。はて、なにをそんなに落ち込んでいるのだろうか?
『……ところで、私を見てなんとも思わないんですか? 天井にへばり付いていたんですけれど……?』
「へ? そうでしたっけ?」
そんな気もしたが、元気な姿を見られた感激で、どんな体勢でいたかなんてすっかり記憶から抜け落ちていた。
ま、どうせ気のせいかなにかだろう。普通の人間が天井に張り付く事なんて、できるはずがないのだから。
『……それ以前に、私みたいな不気味な女、普通なら誰でも怖がるはずなんですけれど……』
「怖がる? 貞子さんをですか? こんなにお綺麗なのに?」
『ぴゃ!?』
素直な感想を述べただけなのに、何故か貞子さんが心底驚いたように両目を見開いた。
『そ、そんなの嘘です! 私なんて全然綺麗じゃありませんから!』
「嘘じゃないんですが……。というか、顏が真っ赤ですよ? もしかして風邪ですか?」
言いながら、春人はなんの躊躇もなく貞子さんの前髪を上げて、そっと自分の額を貞子さんの額に当てた。
「熱は……無いみたいですね。むしろ冷んやりし過ぎてるくらい……」
『ぴゃ……ぴゃ……ぴゃああああああああああ〜っ!』
まるで時報のような大声を上げたあと、貞子さんは突如その場から立って、脱兎のごとく台所の方へと走り込んだ。
「ちょ、貞子さん!?」
いつの間やら停電が直っていた事にも気付かず、慌てて貞子さんの後ろ姿を追う春人であったが、台所に入った時には昨日の時と同じようにどこにもいなくなっていた。
そんな台所をしばしぼーっと眺めたあと、春人はハッと我に返ったようにこう呟いた。
「しまった。またこの部屋にいた理由を訊きそびれた……」
明日も朝の時間帯に投稿する予定です。