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十一話 貞子と春人







 貞子さんが突然姿を消してから、一週間あまりが過ぎた──。



 ◇◆◇



 その日穂奈美は、大学の庭園スペースに設置されているベンチで、覇気なく項垂れる春人を遠巻きに見ながら、どう声を掛けたものかと頭を悩ませていた。

 春人がなぜああして落ち込んでいるのかはすでに把握している。

 貞子──春人の部屋にいた怨霊が、数日前になんの音沙汰もなく消えたからだ。

 穂奈美も春人から話を聞いた時は、すわ成仏でもしたのかと内心(春人には悪いと思いながらも)喜んでしまったが、どうやらそういった兆候みたいなものは一切なかったらしく、不気味な後味だけが残る形となってしまった。

 もっとも、そう思っているのは穂奈美と貴樹くらいなもので、春人なんて数日過ぎた今でもああしてわかりやすく落ち込んでいたりするのだが。

 とはいえ、無理はないと思う。春人からしてみたら、同居人が別れすら告げずに急に去ってしまったのだ。それもまだちゃんと約束を果たさないままどこぞへと消えてしまったのだから、色々と悩んでいるに違いない。


「でも、相手は地縛霊みたいなものだし、どこかに行く事なんてできるのかしら……?」


 いや、霊感もなければオカルトに詳しいわけではない自分がこうしていくら考えたところで、答えなんて出るはずもないのだが。

 それはさておき、今は春人を励ます事の方が先決だ。

 あんな風にずっと落ち込まれては、片思い中の穂奈美としても、正直見ていられない。見ているだけで胸が締め付けられたように苦しむ。

 しかしながら、あれでもまだ落ち着いた方ではあるのだ。

 最初に貞子という人が消えた時は、まるで家族が失踪したかのような取り乱しようだったとか。貴樹経由ではあったが、春人の様子をそう聞いた時は耳を疑ったものだ。

 あのいつも穏やかな笑みを浮かべている春人が、今まで見た事がないほど逼迫した顔になっていると言うのだから。

 その後、穂奈美も慌てて春人に会いに行ったのだが、その時にはアパートだけでなく町中あちこちを走り回って捜索したあとだったようで、ひどく憔悴した状態だった。

 その後、疲労困憊でろくに歩けなくなっている春人を貴樹と一緒にアパートへと運んだのだが、翌日も大学を休んで貞子を探し回っていたようで、日に日に痩せ細っていく様があまりにも痛々しくて見るに耐えなかった。

 だから、春人と会うたびに何度も励ましていたりするのだが、結果はご覧の通り、あまり芳しくなく……。


「はあ~……」

「はあ……」


 春人が重い溜め息をついたのを見て、穂奈美もつられたように嘆息をついた。

 なんとかしてあげたいのだが、正直、どう声を掛けたらいいのかわからず、ただこうして遠目から様子を眺める事しかできていない。一応声を掛けたら春人も無理に作った笑顔で応えてはくれるのだが、心ここにあらずといった感じで、どうにも会話が続かなかった。

 きっと他の誰かと会話している間にも貞子の事を考えていたりするのだろう。それが意識的なのか無意識的なのかはわからないが。

 どちらにせよ、このままの状態が続くのはよくない。春人の健康面の問題もあるが、あれではどれだけアプローチしたところで馬耳東風に終わるだけだ。いつかは元に戻るのかもしれないが、そのいつかがいつ来るか定かでない以上、早急に解決する必要がある。

 穂奈美だって、今回の貞子と同じようにというわけでもないが、何がきっかけでこの土地を離れるかわからないのだから。

 そうなる前に、きちんと自分の気持ちを春人に伝えたかった。


「……よしっ」


 パンパンと軽く頬を叩いて、己の小胆を鼓舞する。

 妙案があるわけでもないが、どのみち声を掛けない事には何も始まらないのだ──時間が解決するとは言うが、そんな曖昧な方法で安心できるほど、穂奈美は楽観的な性格ではない。

 どんな傷であれ、早めに治療しないと取り返しのつかない事がある。

 そうなる前に、誰かが寄り添ってあげなければならないのだ。

 それも穂奈美のような、近しい間柄の人間でなければ。

 ごくり、と緊張で喉を鳴らしつつ、穂奈美は意を決して春人の方へとゆっくり歩む。

 そして──


「春人君……」

「穂奈美、さん……?」


 穂奈美の呼びかけに、春人が弱々しく顔を上げた。

 そして春人の顔を間近で見て、穂奈美は少したじろいだ。

 眼の下に色濃く刻まれた隈。血色はあまり良くなく、心なしか頬もこけたような気がする。どういう生活を送っているかはわからないが、まともな体調管理が出来ているようには到底見えなかった。


「春人君、その……大丈夫? ちゃんと眠れてる?」

「ああ、うん。少し寝不足気味かな。大学とバイトがある時以外は貞子さんを探し回っているせいで、あんまり時間が取れなくてさ……」

「何か手掛かりは見つかったの? 実はメモが残してあったとか」

「ううん。メモどころか、目撃者すら一人も見つかってない。本当に、どこに行っちゃったのかな……」


 遠い目で青空を眺める春人。その表情は見るからに疲れ切っていて、今にも崩れ落ちそうなほど危ういものがあった。


「春人君、私思うんだけど、貞子さんが幽霊だとしたら、いくら周りを探しても無駄なんじゃないかな? 壁とか簡単にすり抜けたり、空だって鳥みたいに飛べるかもしれないし。どっちにしても、今みたいな普通の方法じゃ見つからないと思う……」

「本当に貞子さんが幽霊だとしたら、確かにお手上げだね。はは……」


 そう力なく笑う春人ではあったが、まだ諦めが付いていないのだろう──その瞳だけは確固たる意志を宿していた。

 絶対に貞子を見つけてみせるという、そんな意志に満ち満ちていた。


「だとしても、オレは貞子さんを探し続けるよ。あんな形でお別れなんて、絶対にイヤだから。どうして貞子さんが消えたのかはわからないけど、お別れするならちゃんと理由を聞いて、それからできるなら笑って送り出してあげたい」

「……もしも、貞子さんが春人君と会う事を望んでいなくても?」

「それでも、だよ。貞子さんにも色々事情があったのかもしれないけど、オレはその事情を知らないから。だからもし悩みがあってオレの前から消えたのなら、一緒に悩みを共有したい。ほんのちょっと付き合いでしかなかったけれど、貞子さんはオレにとって家族みたいな人だと思っているから」

「それは──」


 それは、本当に家族に対する情念なのだろうか。

 本当は、もっと別の──穂奈美が春人に抱いている感情と同じものではないだろうか。


「それは、何?」

「えっと……」


 春人に問われ、穂奈美は思わず言い淀んだ。

 ここで春人が貞子に抱いている感情に言及していいのだろうか。

 もしもに言及してしまったら、もう後には戻れないような──自分の恋が終わってしまうような、そんな胸騒ぎがした。

 けれど。

 今のまま、不安定な状態の春人を放っておくくらいなら。

 心の底から春人の事を想うなら。



 ──神様。どうか私に勇気をください。



「……ねえ、春人君」


 不安と緊張で早鐘を打つ胸を抑えるように深呼吸を繰り返したあと、穂奈美は決意に満ちた声で言葉を発した。


「それって、本当に家族に向ける気持ちと同じなのかな……?」

「……? どういう意味?」


 春人が怪訝に眉をひそめる。当然だ。突然こんな事を言われたら、誰だって疑問符を浮かべるに違いない。

 特に春人は、そういった心の機微(、、、、、、、、)に疎い節がある。だからなおさら、慎重に言葉を選ばなければ、きっと春人には伝わらない。ここからが正念場だ。


「貞子さんの事は、この間春人君の家に行った時に色々聞かせてもらったけれど、その時こう思ったの。なんだか家族の話をしているというよりは、好きな人の話をしているみたいだなって……」

「好きな人……? そりゃあ貞子さんは良い人だし、普通に好きだけど……」

「違う。そうじゃない」


 戸惑いながらも臆面もなく「好き」と口にした春人に、穂奈美ははっきりと否定した。


「私の言っている『好き』は、春人君の思っている『好き』と同じじゃない。もっと胸がドキドキするような、その人の事ばかりずっと考えてしまうような、そういった気持ちの事だよ」

「胸がドキドキ……?」

「そうだよ」


 そううなずいて、穂奈美は宝物を扱うような所作で、そっと胸に両手を添えた。


「その人の顔を思い浮かべるだけで胸がドキドキして、ジタバタしちゃうくらい落ち着かなくなるの。好きという感情が止めどなく溢れてきて、もうどうしようもなくなってきちゃうの」


 たとえば、穂奈美が春人の顔を思い浮かべる時のように──。


「春人君にはない? そういう熱い気持ちが溢れてくるような瞬間が」

「……ごめん。よくわからない。そういう気持ちになった事がないから……」

「そんな事ないはずよ。だって、この間春人君が貞子さんの話をしていた時なんて、まさにそういう顔をしていたもの」

「え? オレが?」

「あ、やっぱり自覚なかったんだ」


 心底驚いたようにまなこを瞬かせる春人に、穂奈美は思わず苦笑を零した。


「あえて何も言わなかったけれど、あの時の春人君、本当に幸せそうだった。少なくとも私には、家族や友達の話をしているようには見えなかった」


 見ているのが辛くなって、少しばかり春人から視線を逸らしてしまったくらいに。

 春人の本当の気持ちになんとなく気付いてしまって、胸がどうしようもなく切なくなってしまったくらいに。


「──ねえ、春人君。本当は貞子さんの事をどう思ってるの? 春人君がさっき言った通り、家族のようにしか見てないの?」

「オレは……よくわからない。そこまで深く考えた事もないし、穂奈美さんの言う本当の気持ちというのも、一体どういう事を言うのか、本当にわからないんだ……」

「じゃあ、想像してみて」


 言って、穂奈美はおもむろに春人の視界を手で塞いだ。


「借りに貞子さんがずっと待ってるっていう大切な人が今帰ってきたとして、その後の二人の事を──幸せに満ち溢れた二人の姿を想像して、春人君はどう感じる?」

「貞子さんが、誰かと幸せになった姿……」


 そう呟いたあと。

 春人は「ああ──……」と嘆きにも似た一声を漏らした。

 きっと、ようやく理解したのだろう。

 春人が貞子に抱いている気持ちに。

 穂奈美が春人に抱いているのと同じ気持ちに。


「……穂奈美さん」

「うん」

「オレ、貞子さんが誰かと幸せになる姿を想像して、ちょっとだけイヤな気分になった」

「うん」

「本当は喜ばなきゃいけないはずなのに、今まで応援していたはずなのに、すごくモヤモヤした気持ちになった」

「うん」

「穂奈美さん。これって……オレが貞子さんに抱いている気持ちって──」



「うん。恋だね」



 穂奈美はそうはっきり告げた。

 本当は言いなくなかったけれど、できたら穂奈美と付き合うまでずっと知らないままでいてほしかったけれど、それでも確固たる意志を持って口にした。

 だって、春人は大切な友人だから。

 好きな人である前に、かけがいのない友人だから。

 だから春人には、後悔してほしくなかった。

 たとえそれで春人の想いが貞子に届いたとしても、それで春人が笑っていられるなら、それでもいいと思ってしまった。

 春人には、誰よりも幸せになってほしいと、嘘偽りなく本心でそう願っているから──。

 やがて、そんな穂奈美の言葉に春人は「そっか」と言って、穂奈美の手に優しく触れて目元を晒した。


「これが恋なんだね……」


 実感のこもった声で、切なげにそう漏らす春人。

 その瞳は哀切に満ちていて、とても儚げだった。

 ここにきてようやっと理解したのだろう、自分に初めて生まれた気持ちに。

 ──初恋という名の感情に。


「じゃあ、その気持ちをちゃんと貞子さんに伝えなきゃね」

「……うん。でも、どこに貞子さんがいるか何もわからないし、一体どうしたら……」

「──たぶんだけど、ひょっとしてまだ春人君の家にいるんじゃないかな?」


 穂奈美の推論に「え?」と春人は目を瞠った。


「オレの家って、アパートの方に? どうして?」

「本当にただの勘なんだけど、春人君の看病をするくらい気にかけているなら、急に挨拶もなく消えたりするのはどこか妙に思えるの。だからというわけじゃないけど、もしかしたら案外近くで春人君の様子を見ているんじゃないかな?」


 それに相手は幽霊だ。春人には姿が見えているようだが、ちょっと姿を隠すくらいなら造作もないだろう。壁なんていくらでもすり抜けられるのだから。言わば灯台下暗しというやつだ。

 あるいはもっと単純に、姿を消したと見せかけて、こうしている間にもこっそり物陰から様子を窺っているのかもしれない。


「とりあえず、もう一度アパートに帰ってみたらどうかな? まだどこかわかりづらい所に貞子さんがいる痕跡が残っているかもしれないし、それで手掛かりが見つからなくても、自分の正直な気持ちを声に出すなり手紙に書くなりして伝えてみた方がいいと思う。もしかしたら貞子さんがこっそり見てくれている可能性だってゼロじゃないんだから」

「そう、だね。うん。そうしてみるよ」


 穂奈美のアドバイスに、それまで意気消沈としていたのが嘘のように溌剌とした表情を浮かべて、春人はその場から勢いよく立ち上がった。


「オレ、貞子さんに会いに行ってくるよ。たとえ会えなくても、なんとかして自分の気持ちを伝えてみようと思う」

「うん。春人君ならきっと大丈夫だよ。頑張って!」

「うん! ありがとう、穂奈美さん。穂奈美さんみたいな素敵な友人に巡り会えて、本当に良かった!」


 それじゃあ! と別れの挨拶も早々に活気よく走り出した春人に、穂奈美も笑顔で送り出す。

 そうして、だんだんと小さくなっていく春人の背中を見送りながら、穂奈美は「はあ……」と嘆息をついた。


「素敵な友人、か……。できたらちゃんと女の子として見てほしかったな……」

「今からでも遅くないんじゃないか?」


 と。

 いつの間にそこにいたのか、背後から聞こえていた耳馴染みのある声に、穂奈美は後ろを振り返らずに「いつからそこにいたの?」と問うた。


「少し前から。本当はもっと早く声を掛けるつもりだったんだが、二人がいつになく真剣な話をしていたから、ずっとタイミングを窺ってたんだよ」

「無粋ね、盗み聞きするなんて。そんなんだから女の子と付き合っても長続きしないのよ、貴樹は」

「……それだけ憎まれ口が叩ければ、ひとまずは大丈夫そうだな」


 ふっと微苦笑を漏らす貴樹。きっと貴樹の事だから、無駄にイケメンな顔でニヒルに笑っているに違いない。


「それで、本当に春人をあのまま行かせてよかったのか? お前だって春人に伝えたい気持ちがあったはずなんじゃないのか?」

「……言えないよ。だって今の春人君、貞子さんの事しか見えていないもの。好きな人のあんな表情を見せられたら、自分の気持ちなんて伝えられない──伝えられるわけがない」

「……そっか。辛いな……」

「うん……。辛いよ……。今だって大声で泣きたいくらい……」


 でもね、と穂奈美はとうに視界から消えた春人の残像を目で追うかのごとく、遠く離れた先をずっと見つめながら、弱々しくも決意に満ちた声音で呟いた。


「まだ完全に諦めたわけじゃないから。春人君が貞子さんが付き合うと決まったわけじゃないし、そもそも相手は幽霊だもの。いくらでも逆転のチャンスはあるわ」

「……たくましいな、お前。なんつーか、素直に尊敬するわ」

「そうよ」


 感嘆する貴樹に、穂奈美はくるっと振り返って、瞳を潤ませながら精一杯の笑顔を浮かべた。



「恋する女の子は、人一倍逞しいんだから──」



 ◇◆◇



 穂奈美と別れたあと、春人は一心不乱に自宅のある方へと疾駆していた。

 連日体を酷使し過ぎた代償か、こうして走っているだけで全身の筋肉が軋むように痛む。下手をすれば肉離れを起こしそうだ。

 それでも春人は、構うものかと言わんばかりに歯を食いしばって、しゃにむに駆ける。

 全身の痛みを気にしていられる余裕なんてなかった。今はただ、貞子さんに会う事しか考えられなかった。

 貞子さんに会って、自分のこの想いを届ける事しか頭になかった。

 穂奈美に言われて初めて気付いた貞子さんへの気持ち。初めての恋──それは今まで感じた事ないほど切なく、狂おしく、張り裂けそうなほど胸の中がいっぱいで、そしてなにより躍動感に満ちていた。


 知らなかった。人に恋する事がこんなにも胸が苦しいものだったなんて。

 知らなかった。人に恋する事がこんなにも胸を弾ませるものだったなんて。

 相背反する感情がせめぎ合ってわけのわからない状態になっているのに、こんなにも爽快な気分になれるなんて。


 きっと、これが恋をするという事なのだろう。

 人を愛するという事なのだろう。

 貞子さんに出会わなければ、こんな感情を知る事もなかった。

 だから伝えたい、この想いを。

 この胸の中から溢れ返ってくる熱い気持ちを──



「貞子さん!」


 アパートへと戻って開口一番、春人はそう大声を上げて自分の部屋を見渡した。

 覚悟はしていたが、貞子さんが姿を見せる事もなければ、返事が来る事もなかった。さながら時間でも止まったかのような静けさだ。

 だが、それ自体はすでに覚悟していた事だ。ゆえに春人は、少し落胆しつつも靴を乱雑に脱いで部屋の中に上がる。

 しんと静まり返った自分の部屋。少し前まで貞子さんとここで生活していたのが夢のように思えてしまう。

 けど、あれは夢なんかじゃなかった。出会いそのものは夢というか、ドラマや小説みたいな奇天烈なものではあったが、それでもあれは紛れもなく現実だった。夢でなければ幻でもない。

 そして今、春人はここで一世一代の告白をする。

 相変わらず貞子さんの姿はないが、穂奈美の言っていた事が本当なら、この部屋のどこかにいる可能性がある。貞子さんが幽霊だという話を完全に信じたわけではないが、心のどこかでそうなんじゃないかと思う自分がいるのも、また事実だ。

 だって、そりゃそうだろう。今まで貞子さんの奇怪じみた所業の数々を勝手に手品と決め付けていたが、手品にしては手の込んでいるものもあった。だからと言って本当に心霊現象と断定する気はないが、どちらにせよ証拠がない以上、心霊現象とも手品とも判断する事は今の判断材料だけでは無理である。いわゆる悪魔の証明というやつだ。

 いや、この際幽霊だとか手品だとかどうだっていい。重要なのは──今ここで優先すべきは、貞子さんに告白する事こそにある。

 貞子さんが何者でも構わない。貞子さんが好きだという事には変わりないのだから──


「貞子さん……」


 震えた声音でその名を呼ぶ。

 好きな人の名前を──


「ここにいるかどうかはわからないけど、そもそもこんな事を言われても困るかもしれないけど、それでも貞子さんに聞いてもらいたい事があるんだ……」


 心臓が破裂しそうなほど胸を叩いている。今にも張り裂けそうだ。それより前に緊張で倒れてしまうかもしれない。

 だが。

 それでも春人は、なけなしの勇気を大いに振り絞って、この胸の内に秘めた熱い想いを吐き出した。



「貞子さん──好きだ」



 なんの衒いなくストレートに出したその言葉は、無音の世界の中で静かに響き渡った。

 返事はなかった。誰かが現れる気配も依然としてなかった。

 しかしながら春人は、自分以外に誰もいない空疎な部屋の中で言葉を紡いだ。


「オレは貞子さんの事が好きだ。大好きだ。ぶっちゃけ、この気持ちに気付いたのはついさっきだし、初恋だったりもするけど、どうしても貞子さんに伝えたかっんだ。本当は貞子さんの目の前でちゃんと言いたかったんだけど……」


 貞子さんがいなくなってからこうして告白するとか、男として情けない限りではあるが、まあそのあたりは初めての告白という事で大目に見てもらいたい。


「今ごろ貞子さん、すごく戸惑ってるのかな? だったらちょっとは嬉しいかも。少しはオレを意識してくれてたって事になるし」


 想像でしかないけどね、と苦笑する春人。本当に焦っていたりしてくれていたら嬉しいが、実際はどうかはわからない。姿が見えないから。


「オレ、めちゃくちゃ勝手な事言ってるよね。いきなり好きって告白して、そもそも恋人がいる人に──恋人でいいのかな? まあとりあえず大切な人がいるって話していたのに、オレの気持ちを強引に伝えて。けどオレは、それでも貞子さんにどうしてもこの気持ちを伝えたかったんだ。別に今すぐ付き合いとか、そういうわけじゃないよ。本当にただオレの気持ちを伝えたかったんだ。だから、もう一度言わせてほしい」


 そうして、春人は世界中に響かせるように、正面の窓に向かって大いに叫んだ。



「貞子さん! 好きだああああああ!!」



 届け。この想い。

 世界の果て──空の上まで。どこまでも遥か彼方まで届け!



『ぴゃああああああああ〜っ!』



 どこかで聞いた事のある可愛らしい叫声。

 その声に、春人は「貞子さん!?」と慌てて辺りを見渡した。


『ど、どうしてそんな大声で言うんですか〜。誰かに聞かれたらどうするんですか〜!』


 声はすれど姿は見えず。それでも確かにこの耳に聞こえる声に──一週間程度しか経っていないはずなのに、懐かしさすらこみ上げてくる貞子さんの声に、春人は「貞子さん」と情感たっぷりに再度名前を口にした。


「ここにいるんですね、貞子さん。どこにも姿は見えないけど、オレの近くにいるんですよね?」

『………………』


 応答はなかったが、今までの沈黙と違って身動ぎするような息遣いだけは聞こえた。間違いなく貞子さんはここにいるのだ。

 夢や幻なんかではなく、ちゃんと現実として。

 そう思った瞬間、春人は空気が抜けた風船のようにへなへなと力無く腰を下ろした。


『は、春人さん? どうかされましたか?』

「──た」

『へ? 今なんと?』

「よかった。貞子さんが無事で」


 その言葉に、貞子さんは喋る事を忘れたように息を詰まらせた。


「ずっと心配していたんですよ。突然音沙汰もなくいなくなって。もしかして何か災難にでも見舞われたんじゃないかって不安だったんです。まあ正直オレと一緒に生活するのが嫌になって、それで出て行っちゃったのかなって線の方が自分の中では濃厚だったんですけどね。ひとまず息災だったようで安心しました」

『どうして……?』


 と。

 笑顔で語る春人に、貞子さんは心底わからないといった声音で訊ねてきた。


『どうして私にそこまで優しくてしてくれるんですか……? 私、幽霊なんですよ? この間、春人さんのご友人達が話していた事、全部本当なんです。この部屋に入居してきた人達を私怨で追い出した、本当にろくでもない霊なんです。だからあなたに優しくしてもらう理由なんて全然ないんです──っ』

「……やっぱり聞いてたんですね。あの時の貴樹と穂奈美さんとの会話を」


 涙混じりの声で言う貞子さんに、春人は穏やかな表情で応える。


「でも、それなら知っているはずですよ。あの時オレがなんて言ったか」

『春人さんの……言葉?』

「ええ、ちゃんと言ったはずですよ。

 たとえ貞子さんが怨霊だとしても、ずっとそばにいるって。

 貞子さんの力になれるなら、なんだってしたいって」

『でも、私は、そんな事をしてもらうような価値のある人なんかでは──』

「貞子さんが自分の事をあまり好きでないというのはわかりましたが、けど、そんなのオレには関係ないんですよ」


 そこまで言って、春人は陽だまりのような──雪に覆われた大地をゆっくり溶かしていくような、そんな温かみに満ちた微笑みを浮かべた。



「──だってオレは、そんな貞子さんの事を好きになったんですから」



 世界から音が止んだ。あたかも草原の中にいるような、果てなく清流な空気だけが辺りを優しく包んでいた。


「貞子さんが悪霊でも悪女でも悪党でも、それでもオレはあなたの事が好きです。もしも貞子さんが自分のおこないを悔いているなら、オレも一緒に悩んで解決の道を探します。貞子さんが自分の事が嫌いなら、その分オレが貞子さんの事を好きになります。だからオレのそばにいてください。オレと一緒に泣いて笑ってください。──オレの一番近い人になってください」


 果たして。

 春人が静かに喋り終えたあと、貞子さんは『私は──』と言葉を探るように訥々と口を開いた。


『私は、ずっといらない人だと思っていました。家族とは死に別れて、周りの人からは根暗だと蔑まれて、恋人だと思っていた人は突然伝言もなく目の前からいなくなってしまって……。ずっとずっと、私は無価値な人間だと思っていました。誰からも世界にも必要されていない存在だと思っていました。でも──』


 と、少し躊躇いがちに言葉を溜めたあと、貞子さんはおそるおそるといった風な弱々しい声音で訊ねた。


『私は、ここにいていいんでしょうか?』

「もちろんです」


 そう間髪入れずに言った春人に、貞子さんは喜色に満ちた吐息を零し──

 それからどこからともなく、さながら天女のように天井付近からワンピースの裾をなびかせながら、ふわりと宙に浮いたまま姿を現した。

 そんな貞子さんの姿に、春人は心底驚いたように大きくまなこを見開いて、


「……すごく今さらですけど、本当に幽霊だったんですね……」

『それ、今になって言います? 私、これまで何度もお化け屋敷みたいに脅かしてきたのに』

「あー……。昔から幽霊とか信じない性質たちだったので、ずっと手品だとばかり。でも今みたいな常識離れした登場の仕方をされたら、さすがに信じるしかないですよね……」

『常識離れと言うのなら、これ以外にもたくさんやってきましたよ? 首をありえない方向に曲げたりとか、コップを浮かしたりとか。しかも結局はご友人達の話を聞いてようやく信じる気になったみたいですし。これじゃあ私、なんだかバカみたいです』

「すみません。これからは貞子さんの言う事はすべて信じる事に決めたので!」

『いえ、なにもすべてを信じる必要は……。んもう、本当に春人さんは私を困らせる天才ですね』


 そう呆れたように苦笑を漏らしたあと、貞子さんは愛おしげに春人の頬を撫でた。


『……でも、しょうがないですね。そんなあなただからこそ、私も好きになってしまったのですから』

「えっ。貞子さん、今なんて──?」

『だ、だから好きって言ったんです! ほんと、春人さんは鈍感というか何というか……』

「やったああああ! 両思いだああああ! 貞子さんがオレの事を好きって言ってくれたああああああ!」

『ぴゃあああああ! そ、そんな大声で言わないでください! ああもう恥ずかしい〜っ』


 春人と貞子さんのはしゃぎ声が空まで届く。

 きっとこれから二人は、色んな困難に直面する事だろう。時には涙し、悲しみに打ちひしがれる日もいつか訪れるのかもしれない。

 しかし春人は、今はこの幸せを存分に噛みしめたかった。

 なぜなら──


「貞子さん、大好きです」

『……はい。私も春人さんが大好きです』


 なぜなら二人の恋物語は、まだ始まったばかりなのだから──……。






『ところで、ずっと名前を勘違いされたままでしたので訂正しておきますけれど、私、貞子じゃなくて幸子です』

「えっ」



 ──HAPPY END♪





これにて、春人と貞子さんの物語はお終いです。


ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました!

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