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十話 貞子さんとお別れ



 怨霊。

 話を額面通りに受け取れば、大抵の者は恐怖するか、はたまたバカバカしいと一笑に付すところなのだろうが、春人の反応はそのどちらでもなかった。

 オカルトなんてまるで信じない──貞子がどれだけ脅かしても笑って済ましてきたあの春人が、怨霊と聞いて困惑を露わにしたのだ。


「怨霊って……」


 ややあって、春人は言葉を選ぶように一拍置いたあと、躊躇いがちに先を紡いだ。


「二人が冗談で言っているわけじゃないのはわかるよ。うん、そこは理解している。でも、だからこそわからないんだ。なんでそんな突拍子もない事を言い出したのかって。オレがそういうオカルト関係を信じていないのはよく知ってるはずだよね? それなのに突然怨霊とか、ちゃんと理由はあるんだよね?」

「ああ。昨日ちょっと気になる事があって、ネットで色々調べてたんだが、どうにもこの部屋で十年前に自殺があったらしいんだ」

「自殺……。でもそんな話、不動産屋から一度も……」

「一度でも事故物件に住んだ人がいた場合だと、その後報告する義務は無くなるみたいだよ? 私も、昨日貴樹から聞いて初めて知ったんだけど……」

「そう、なんだ……」


 驚いたように目を瞬かせる春人。貞子も知らなかった事だったので、同じように目を瞠ってしまった。


「で、その自殺した人が、貴樹の言う怨霊って事?」

「その通りだ。しかもその怨霊ってのがけっこう壮絶な死に方をしていてな、付き合っていた恋人に裏切られて、それで自分の首を包丁をぶっ刺したらしい」


 間違いなく貞子の事だ。貴樹の話す通り、当時付き合っていた男に裏切られたショックで、貞子はこの部屋で自ら命を絶ったのだ。


「裏切られたって、具体的には何があったのさ……?」

「ネットで見た情報だと、その自殺した人ってのがまだ若い女性で、当時結婚の約束までしていた男に有り金をすべて取られたあとに行方知れずになったらしい。たぶん、結婚詐欺師だったんだろうな……」

「でもそれ、情報源はネットでしょ? 単なる噂とかじゃないの?」

「いや、実際の新聞記事がネットに載ってた。この部屋かどうかまでは記載されていなかったが、十年前にこのアパートで女性が自殺したのは確かだ。単なる自殺だったら新聞に載る事もなかったろうけど、けっこう凄惨な現場だったみたいだから、地方紙のだけ掲載されたんだろうな。そこまで大きい記事でもなかったけれど」

「ここで自殺があったってのはわかったけど……」


 と、未だ信じられないといった態で言葉を返しつつ、春人はさらに疑問を投じる。


「それでなんで怨霊が出るなんて話になるのさ? 幽霊を見ただけなら、怨霊なんて言い方はしないはずだよね?」

「もちろん、ちゃんと経緯はある。その事故物件で住んだ人が、次々に女の霊に襲われそうになったって証言しているんだ。それで怪我とまではいかなくとも、体調を崩す人が続出したらしい。こっちに関してはオカルト系サイトで収集した情報だが、きちんと近所の人から話を聞いているようだったし、信憑性はそれなりにあると思う」


 貴樹の言っている事は本当だ。貞子が自殺した年代もその理由も、そして怨霊になったあとの話も、すべて紛れもない事実だ。

 ただ今と違うところを挙げるならば、もう恋人の事は恨んでいない点にある。

 死んだばかりの頃は、恋人の事が憎くて許せなくて──だからそのやり場のない怒りを、この部屋に入ってくる者達に罵声を浴びせたり呪詛を吐いたりする事で鬱憤を晴らしていたのだが、次第にだんだんと冷静になってきて、もしかしたら恋人にもなにか事情があったのではないのかとか、貞子自身にも落ち度があったのではないのかなどと考えるようになり、以降は恋人の帰りを待つべく、それまではこの部屋を守ろうと心に誓ったのだ。

 もっとも、その守り方が新しい入居者を脅かして追い出すという、決して褒められた行為ではない上、そもそも十年経った今でも恋人がこの部屋に帰ってくる兆しすらない時点で、我ながら無謀としか言えない有り様ではあるのだが。

 けど、仕方がなかったのだ。

 そうでもしない限り、本当に憎悪で気が狂いそうだったのだから。

 それこそ、無差別に人を殺めかねないくらいには。

 だから自分でもバカバカしいと思いながらも、正気を保つために──自分を騙す事にしたのだ。

 幸福とは言えない人生だったけれど、せめて無関係の他人に不幸を振り撒くような存在にはなるまいと自分に言い聞かせて……。


「……貴樹の言いたい事はわかったよ。なんでこの部屋から引っ越せなんて言い出したのかもね」


 と、貞子が物思いに耽っていた間に、しばらく黙していた春人が、不意に口を開いた。


「でも、そんな理由で急には引っ越せないよ。確かに事故物件だったのはビックリしたけどさ、オレが貧乏学生なのはよく知ってるだろ?」

「もちろんわかってる。だから引っ越し費用が貯まるまでは、俺が親に説得して実家に居候してもらってもいいし、それが嫌なら、もっと別の方法を考える」

「さすがに私の家には泊められないけれど……でも気持ちは貴樹と一緒よ? 春人君のためなら、アパート探しでも何でもいくらでも付き合うから」

「二人の気持ちは嬉しいけど……でもやっぱりすぐには無理だよ。うちの親に心配かけちゃうし、何より他の人の負担になるような生き方はしたくないんだ。こうして一人暮らしを始めたのも、一人で生活できるようになるためでもあるし」


 そこまで言って、春人は場の緊張を解すようにニコリと笑いながら言葉を紡いだ。


「それに、怨霊なんてこの部屋に来てから一度も見た事がないしね。風邪を引いたりはしたけども、体も基本的には健康そのものだし、貴樹も穂奈美さんも、ちょっと大袈裟に考え過ぎなんじゃないかな?」

「……本当にそう思っているのか?」


 場の重苦しい雰囲気を敢えて笑い飛ばすように明るい口調で言う春人に対し、貴樹と穂奈美の反応は相変わらず厳しいままだった。

 むしろ貴樹に至っては、能天気に振る舞おうとする春人に苛立ちを覚えたように眉間にはシワを寄せて語気を強める。


「何も心当たりはないのか?」

「貴樹……?」

「お前、言ってたろ? 一緒に暮らしている女がいるって。そいつの事はどう思ってるんだ?」

「そいつって、貞子さんの事……?」


 急に貞子の話題になったせいか、戸惑いがちに首を傾げる春人。

 一方の貞子は、始終天井裏に隠れながら、ついに来たかと顔を引きつらせた。

 これまでの彼を見るに、貞子の存在を意識しているかのような発言が目立っていた。それも怨霊としてだけでなく、春人以外の者の存在を前もって知っていたかのような口振りだった。

 おそらく春人から貞子の存在を──怨霊としてではなく同居人がいるとでも伝えられていたのだろう。直接春人から聞いたわけではないので、あくまでも想像でしかないが、可能性は十分にある。


「いや、何言ってんのさ貴樹。貞子さんが怨霊とでも言いたいの? ずいぶんと笑えない冗談だなあ」

「冗談じゃない。よく考えてみろ。ドアも窓も全部鍵が閉まっている部屋にいつの間にか居て、それで血を流していたなんて、どう考えても普通じゃないだろ。この時点で本当に人間かどうか怪しむべきところだぞ」

「そりゃ、無断で部屋の中に入ったのはどうかと思うけど……。でもそれだけで人間かどうかを怪しめなんて、それこそ無理があり過ぎない? 貞子さんは普通に良い人だよ? 昨日なんてずっとオレの看病をしてくれてたし」

「……さっきからお前が言っている『貞子さん』って、前に話してた同居人の事でいいんだよか? 黒髪ロングの女とかなんとかの」

「うん。そんなに貞子さんを怨霊って疑うなら、今から呼ぼうか? さっきまでここに居たし」

「「えっ」」


 春人の言葉に、貴樹と穂奈美が同時にさっと仰け反った。無理もない。怨霊がいると知らせに来たのに、その怨霊を今から連れて来ようなんて耳を疑うような事を言われたのだ。動揺するなという方が無茶な話である。


「え、嘘!? 今も私達のそばにいたりするの……!?」


 春人の発言に、穂奈美がさあっと血の気が引かせて顔色を青ざめた。一方の貴樹は、穂奈美と同じとまでは言わないまでも、内心の狼狽を隠すように両手を力強く組んでいた。


「そばっていうか、貴樹達が来た瞬間にどっかに行っちゃったけどね。でもまだ近くにいるんじゃないかな。人見知りなのか、全然こっちに来ようとはしないけど」

「……さっきまで一緒にいたって事は、基本的にいつでも見えるのか? 朝とか夜とか関係なく?」

「うん。当たり前じゃん」


 何言ってんの貴樹は、と怪訝に眉をしかめる春人に、貴樹は「はあ」と重々しく溜息を吐いた。


「じゃあこの会話も近くで聞かれてるって事か……。てっきり幽霊だから朝はいないって思ってたのに……。ますますやりづらい……」

「さっきから何なのさ。貞子さんを怨霊扱いにしたり、その貞子さんを呼ぼうとしたら急にビビったりして」

「普通にビビるよ……。だって相手は怨霊かもしれないんだよ? そうじゃなくても幽霊が近くにいるなんて聞いたら、私や貴樹みたいに怖がってもおかしくないよ……」


 言いながら、穂奈美は身を守るように自身の肩を抱いて、春人をじっと見つめた。


「そういう春人君は、その貞子さんっていう人の事が怖くないの? 幽霊とか抜きにしても、無断の部屋の中に入って、その上帰ってくるはずのない恋人を他人と一緒に待つなんて、どう考えてもヤバいよ……。私だったら怖すぎて頭がどうかしちゃいそう……」

「穂奈美さんも貴樹みたいに大袈裟に捉え過ぎだよ。貞子さんはそんな危険な人じゃないなら。というか、逆に一途で可愛いくらいだよ?」

「……なあ、春人」


 と、貞子が怨霊だという話を一向に信じようとしない春人に、ついに貴樹も焦れたのか、剣呑に双眸を凄めた。


「お前がその貞子さんとやらを信用しているのはわかった。今のところ、無事に済んでいるのもな。けどな──」


 そこまで言って、貴樹はおもむろに立ち上がって、唖然としたまま胡座をかいている春人の肩に両手を置いた。


「俺も穂奈美も、春人の事がすごく心配なんだよ。お前って昔から人を疑わないお人好しだから、いつかとんでもない目に遭うんじゃないかって不安になるんだよ。今はまだいい。だがその貞子さんとやらを知らない俺達は、その女の事が信用できない。ここまで言っても顔一つ見せようとしない奴なんて、まともに信じきれるわけないだろ。正直、今だってまだ怨霊なんじゃないかって、近い内に春を憑き殺すつもりなんじゃないかって疑っているくらいなんだ」


 真剣な面持ちで春人に心情をぶつける貴樹。その瞳は心から春人の身を案じているのだと、ほとんどの他人である貞子でもわかるほど、真摯に満ちていた。


「私も貴樹と同じ。貴樹から話を聞いた時はすごく心配だった。だから講義もすっぽかして、こうして春人君のところに急いで来たんだよ?」


 と、穂奈美も貴樹と同じように春人のそばに寄って、涙目で訴える。


「ねえ、春人君。私達の事を友達だって思っているなら、これ以上危険な事はしないで。私達を不安にさせるような真似はやめて……!」

「穂奈美の言う通りだ。俺達はお前が傷付くところなんて見たくないんだ。だから今すぐ引っ越せ。あとの事なら俺達で絶対なんとかするから……!」

「穂奈美さん、貴樹……」


 二人の情感のこもった言葉に、春人は圧倒されたように瞠目していた。ここまで親身に春人の身を心配してくれる友人を前に、驚きが隠せないといった様子だった。

 そんな春人達を陰から眺めていた貞子は、素直に羨ましいと思った。

 貞子が生きていた頃は、こんな素敵な友人達は一人としていなかったから。

 家族すら幼少期に事故で失って、親類の家をたらい回しにされていた貞子にとって、自分の目を疑いたくなるくらいに温かな光景だった。

 温か過ぎて、自分が触れたら火傷しそうなほどに。

 むしろこうして見ているだけでも、雪のように溶けてそのまま消えてしまいそうなほどに。

 ──きっと春人は、近い内に引っ越す事になるだろう。

 だが、それでいい。こんなにも素敵な友人に恵まれているのだ。こんな怨霊のいる部屋なんかに、春人みたいな善良な人間が住むべきではない。

 もとより、貞子は春人を追い出すつもりだったのだ。ここ最近は春人の優しい心に触れて絆されかけていたが、本来は普通の人がいるべきところじゃない。ここは怨霊の棲家すみかで、世界で唯一貞子の居場所なのだ。

 だから今さらまた一人に戻ったところで、何も問題なんて──


「……ありがとう。穂奈美さんも貴樹も、オレのためにここまで必死になってくれて」


 と。

 暫しの静寂のあと、春人が静かに口を開いた。



「でもオレは、やっぱりここに残るよ」



 その表情は。

 とても晴れやかで穏やかで──さながら春の木漏れ日のような、そんな温かさに満ちた笑顔だった。

 そんな春人に、穂奈美も貴樹も、そして貞子までもが心を奪われたように放心していた。


「穂奈美さんも貴樹も、オレにとってはかけがえのない友達だよ。もしも穂奈美や貴樹が危険な目に遭うかもしれない状況だったら、オレだってすぐに駆け付けるし、すごく心配すると思う。でもそれと同じくらい、オレは貞子さんの事を大切に思っているんだよ」

「春人……」

「春人君……」


 貴樹も穂奈美も、春人の言葉に何も言い返せないでいた。貞子も同じ立場だったら、きっと同様の反応をしていたに違いない。

 それほどまでに、今の春人には有無を言わせない尊さのようなものを放っていた。


「貴樹の言う通り、人を信じたせいでいつかとんでもない裏切りに遭うかもしれない。そのせいで人が信用できないほど傷付く事になるかもしれない。それでもオレは、裏切りを恐れて人を信用しなくなるより、たとえ裏切られても笑って許せるような人でいたい」


 そこで区切りを入れるように一息ついたあと、春人は「だから」と続けた。


「貴樹にも穂奈美さんにも、できたらこのまま見守っていてほしいんだ。たとえ貞子さんが怨霊だったとしても、それでもオレは貞子さんのそばにいたいと思う。少しでも貞子さんの力になれる事があるなら、なんでもしてあげたいんだ。それが貞子さんと交わした大事な約束でもあるから──」


 まるで母親の胎内にでもいるかのような静けさだった。その場にいる誰もが、荘厳な景色を前にしたかのように声を失っていた。

 むしろ、誰が口を挟めるものか。

 こんなにも慈愛に満ち溢れた青年を前にして。

 こんなにも心優しくて純粋な人間を前にして。

 何も琴線に触れない者なんて、この場にいるわけがなかった。

 そうしてしばらく沈黙が続いたあと、


「………………わかった」


 と、貴樹が嘆息混じりに呟いた。


「お前がそこまで言うなら、もう俺は何も言わねぇよ。けど何かあったらすぐに呼べよ。俺はいつだってお前の味方なんだからな」

「私も春人君の味方だよ。だから困った事があったらすぐに言ってね? 本当は今でもすぐに引っ越してほしいんだけど、春人君が貞子さんって人に協力したいという気持ちだけはよく伝わってきたから。だから、私も今は応援だけしておくね」

「貴樹、穂奈美さん……。二人とも、本当にありがとう。こんなにも素敵な友人がいてくれてすごく嬉しいよ!」

「まーたお前はそんなこっぱずかしい事をさらっと口にして……」

「でも、春人君らしいよね」


 その後、和やかに談笑を始める三人。そんな三人のやり取りを、貞子はずっと見つめていた。

 涙で滲む視界の中で(、、、、、、、、、)


『あれ…………?』


 自分の頬に触れる。すると指先に水滴が付いていた。自分でも気付かない内に落涙していたようだった。


『あれ、あれ……っ?』


 拭っても拭っても涙が枯れない。次々と大粒の涙が止まる事を忘れたように溢れてくる。

 もちろん幽霊なので、涙が床に落ちたところで濡れるわけではないのだが、それでも涙を拭えずにはいられなかった。

 少しでもこの涙を止めないと、さらに涙腺が決壊しそうだったから。

 このままだと幼子のように泣きじゃくってしまいそうだったから。

 こんなの、春人に見せるわけにはいかない。

 自分が泣いている姿なんて見せたら、きっとすごく心配するから。

 春人が優し過ぎて、今まで出会ってきた誰よりも温かい人で、こんな怨霊にまで落ちぶれた女にも心を砕いてくれて──それが嬉しくて泣いてしまったなんて、知られたくなかったから。

 どうしてもっと早く、彼に出会えなかったのだろう。

 生きていた頃に出会えていたら、こんな不幸だらけだった自分の人生も、少しは変わっていたかもしれないのに。

 自分も、こんな温かい光景の中に混じれていたかもしれないのに。

 もう決して、二度と叶う事はない夢の話ではあるけれども。


『でも、せめて──』


 そうだ。

 決して自分には叶えられない夢だとしても。

 絶対あの輪に入れないとしても。

 せめてあの光景を壊さないように。

 春人があのままずっと幸せな表情をしていられるように。


 こんな怨霊はそばにいるべきではないと、この時貞子は、そう心に決めたのであった。




次で(おそらく)最終話です。

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